Alba

アルバ家

ペドロ・デ・トレド Pedro de Toledo

生没
1484年7月13日~1553年2月21日
出身
スペイン帝国サラマンカ
没地
フィレンツェ公国フィレンツェ
ファンドリケ・デ・トレド
イサベル・デ・スニーガ
マリア・オソーリオ・イ・ピメンテル
ヴィンチェンツァ・スピネッリ
セシリア・アロンソ
ファドリケ・デ・トレド
ガルシア・デ・トレド
エレオノーラ・ディ・トレド
アナ・デ・トレド
フアナ・デ・トレド
イサベル・デ・トレド
ルイス・デ・トレド
ラファエル・コッシン・ルビオ・デ・トレド
フアン・アロンソ・デ・トレド

概要

 ペドロ・デ・トレドは、15世紀から16世紀の男性。

在職

 ナポリ総督 1532年~1553年

年表

1532年

カール5世は、Villafranca侯ペドロ・デ・トレドをナポリ総督に任命。

1541年2月25日

パウルス3世、対オスマン帝国軍事費のためとして加重した塩税の納入を拒否していた(1537年~)コロンナ家の統領Ascanio Colonna(1490年代~1557年)に、3日以内に出頭しその未納について弁明するよう命令。

しかしAscanio Colonna、これを拒否しコジモ1世・デ・メディチに支援を求める。これに対しパウルス3世、直ちにピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍をローマに結集。

以後、ペドロ・デ・トレドがカール5世の特使としてローマに入って両者の仲介を、ヴィットーリア・コロンナローマに帰り両者の交渉の進展を、それぞれ試みるが実らず。

1541年5月26日

コロンナ家、ペドロ・デ・トレドにも支援を求めたものの、パウルス3世フランソワ1世側に追いやることは避けたいカール5世側の思惑からここでも聞き入れられず、この日、最後の拠点パリアーノの城塞も制圧され、全面的に敗北。

統領Ascanio Colonnaを初め一族はナポリに亡命し、所領は全てパウルス3世に没収される。

1547年5月16日

カール5世の意に従いそのナポリ総督ペドロ・デ・トレドが、スペインに設置されてきた(1480年~)のと同様の異端審問所を設置しようと試みたのに対し、ナポリの民衆、若干の貴族と共に抵抗し、武装反乱。同時にサレルノの君主Ferrante Sanseverino(1507年~1568年)らをのもとに送って異端審問所設置反対を直訴。しかしいれられず、ペドロ・デ・トレドへの服従を命じられる。

1547年8月12日

ペドロ・デ・トレド、スペイン式異端審問所の設置を断念し、一部首謀者以外の叛徒の罪は問わないと宣言。しかしカール5世のもとから戻ったサレルノの君主Ferrante Sanseverinoは追放される。

1550年6月28日

Barbarossaの後継者的な海賊Dragut(本名Torghud 'Ali Paşa:1485年~1565年)を先頭に南イタリア地中海沿岸諸都市で略奪・破壊を働き続けるSinan Paşa(?~1578年)総指揮のオスマン帝国水軍がこの春、占領したマーディアを奪還すると共にその海賊行為を断つべく、カール5世の指示により、アンドレア・ドーリアを総指揮官としてその軍及びカール5世のシチリア総督Juan de Vegaの軍にペドロ・デ・トレド及びコジモ1世・デ・メディチからの援軍を加えた大軍、この日アフリカ(マーディア)に上陸。

1552年8月13日

シエナからのアンリ2世軍の駆逐・シエナ奪還のためナポリで進軍の準備を始めたペドロ・デ・トレドがその途上ローマ劫掠を狙うとの噂が流れる中、1551年のパルマ争奪戦ですでに財政危機に陥っていたユリウス3世コジモ1世・デ・メディチの勧奨をいれて、シエナ出身の枢機卿Fabio Mignanelliを特使としてシエナに送り、アンリ2世軍の領内からの撤退・外国勢力の介入防止とそれによるシエナの自立と平穏の確保を勧告するが、失敗に終わる。

この頃?、コジモ1世・デ・メディチDiego Hurtado de MendozaFransicso Albaからシエナの反乱・離反はひとえにコジモ1世・デ・メディチの責任であるとの報告を受けていたカール5世のもとに特使Ippolito da CorreggioLeone Santiを送り、嫌疑を晴らすべく事態を説明すると共にいずれ無謀なシエナに制裁を加えると誓約。

1552年11月末

ユリウス3世ナポリのペドロ・デ・トレドのもとに特使ベルナルド・デ・メディチを送り、シエナへの進軍を待つよう説得。

1552年12月末

シエナを目指すペドロ・デ・トレド指揮のカール5世軍(スペイン軍)によるローマ劫掠の不安が強まる中、ユリウス3世、再びナポリのペドロ・デ・トレドのもとに特使Achille de' Grassiを送って和平を説くが失敗に終わる。

1553年頭

ペドロ・デ・トレド、30隻のガレー船を率いてチヴィタヴェッキア経由リヴォルノに向かう。同時に子ガルシア・デ・トレドを軍と共に教会領経由コルトーナに向かわせる。ユリウス3世は中立保持の姿勢を保ちながらガルシア・デ・トレドとその軍の教会領通過を許可。

1553年2月上旬

この頃?、ガルシア・デ・トレド指揮のカール5世軍(スペイン軍)、イタリアにおけるカール5世軍の指揮官の1人(1552年~)でペドロ・デ・トレドによりシエナ攻撃イタリア人歩兵隊指揮官に任じられたユリウス3世の甥Ascanio della CorniaCorgna:1513年~1571年)がコジモ1世・デ・メディチの同意を得て集めた歩兵隊と合流し、シエナ領に入る。

1553年2月

海路リヴォルノに着いたペドロ・デ・トレド、フィレンツェにコジモ1世・デ・メディチ及びその妻、自分の娘エレオノーラ・ディ・トレドを訪ねるが、この地で急死(1484年~)。

1539年6月29日

コジモ1世・デ・メディチカール5世ナポリ総督ペドロ・デ・トレドの娘エレオノーラ・ディ・トレド(1522年~1562年)と結婚。

1547年

コジモ1世・デ・メディチナポリのペドロ・デ・トレドへの援軍を準備するが派遣せず、これをシエナに向かわせる。

外部リンク

 世界帝王事典
 RootsWeb.com
 The Medici Archive Project
 Wikipedia

参考文献

 『銀色のフィレンツェ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『錬金術』

ガルシア・デ・トレド García Álvarez de Toledo y Osorio

生没
1514年8月29日~1577年5月31日
出身
スペイン帝国ヴィラフランカ・デル・ビエルソ
没地
ナポリ王国ナポリ
ペドロ・デ・トレド
マリア・オソーリオ・イ・ピメンテル
ヴィットーリア・コロンナ
ペドロ・デ・トレド
マリーア・デ・トレド
ジョヴァンナ・デ・トレド
エレオノーラ・ディ・トレド
アンナ・デ・トレド
イニェス・デ・トレド
フラディーキ・デ・トレド
デリア・デ・トレド

概要

 ガルシア・アルヴァレス・デ・トレド・イ・オソーリオは、16世紀の男性。

在位

 初代モンタルバーノ君主 1569年12月24日~1577年5月31日
 フェッランディーナ公 1569年12月24日~1577年5月31日
 第4代ヴィラフランカ・デル・ビエルソ侯 1569年12月24日~1577年5月31日

在職

 カタルーニャ副王 1558年~1564年
 海軍総司令官 1560年~1567年
 シチリア副王 1565年~1568年

年表

1536年4月5日

ナポリにて、ヴィットーリア・コロンナと結婚(1552年4月)。

1553年頭

ペドロ・デ・トレドは、30隻のガレー船を率いてチヴィタヴェッキア経由リヴォルノに向かう。それと同時に、ペドロ・デ・トレドの命により、軍と共に教会領経由コルトーナに向かう。ユリウス3世は中立保持の姿勢を保ちながら彼とその軍の教会領通過を許可。

1553年2月上旬

この頃?、カール5世軍(スペイン軍)を指揮し、イタリアにおけるカール5世軍の指揮官の1人でペドロ・デ・トレドによりシエナ攻撃イタリア人歩兵隊指揮官に任じられたユリウス3世の甥Ascanio della Corniaコジモ1世・デ・メディチの同意を得て集めた歩兵隊と合流し、シエナ領に入る。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ペドロ・デ・トレド Pedro Álvarez de Toledo y Colonna

生没
1546年9月6日~1627年7月17日
出身
ナポリ王国ナポリ
没地
スペイン帝国マドリード
ペドロ・デ・トレド
マリア・オソーリオ・イ・ピメンテル
エルヴィラ・デ・メンドーサ
ジョヴァンナ・ピニャテッリ
ヴィクトリア・デ・トレド
ガルシア・デ・トレド
ファドリケ・デ・トレド
マリア・デ・トレド

概要

 ペドロ・アルヴァレス・デ・トレド・イ・コロンナは、16世紀から17世紀のイタリア出身の男性、スペインの貴族、外交官。

在位

 ヴィリャフランカ・デル・ビエルソ侯 1577年5月31日~1627年7月17日
 第2代モンタルバーノ君主 1577年5月31日~1627年7月17日
 フェッランディーナ公 1577年5月31日~1627年7月17日
 ペーニャ・ラミロ伯 1625年~1627年7月17日

在職

 海軍総司令官 1607年~1615年
 ミラノ公国総督 1616年~1618年

外部リンク

 Wikipedia

エレオノーラ・ディ・トレド Eleonora di Toledo

生没
1519年1月11日~1562年12月17日
出身
スペイン帝国アルバ・デ・トルメス
没地
フィレンツェ公国ピサ
ペドロ・デ・トレド
マリア・オソーリオ・イ・ピメンテル
コジモ1世・デ・メディチ
マリーア・ルクレツィア・デ・メディチ
フランチェスコ1世・デ・メディチ
イザベッラ・ロモーラ・デ・メディチ
ジョヴァンニ・デ・メディチ
ルクレツィア・デ・メディチ
アントーニオ・デ・メディチ
ピエロ・デ・メディチ
ガルツィア・デ・メディチ
フェルディナンド1世・デ・メディチ

概要

 エレオノーラ・ディ・トレドは、16世紀の女性。

年表

1519年1月11日

アルバ・デ・トルメスにて、生(1522年)。

1539年3月

結婚。

1539年6月29日

コジモ1世・デ・メディチカール5世ナポリ総督ペドロ・デ・トレドの娘エレオノーラ・ディ・トレド(1522年~1562年)と結婚。

1549年

コジモ1世・デ・メディチ、妻エレオノーラ・ディ・トレドの生活を快適にするため、アルノ河の対岸のピッティ宮殿を購入し大改造・拡張工事を始めさせる。

1553年2月

海路リヴォルノに着いたペドロ・デ・トレド、フィレンツェにコジモ1世・デ・メディチ及びその妻、自分の娘エレオノーラ・ディ・トレドを訪ねるが、この地で急死(1484年~)。

1562年12月17日

コジモ1世・デ・メディチの妻エレオノーラ・ディ・トレド、病死(1522年~)。

1561年の娘ルクレツィア・デ・メディチの死に続くこの年の家族3名の相次ぐ死を巡って、以後、ガルツィア・デ・メディチジョヴァンニ・デ・メディチを刺殺し、怒ったコジモ1世・デ・メディチガルツィア・デ・メディチを刺殺し、エレオノーラ・ディ・トレドは悲嘆・絶望のあまり医師の処方を拒んで死んだ、との「メディチ家の悲劇」伝説(虚偽)が生ずる。

1857年9月18日~1857年9月25日

発掘調査が行われる。

死に装束が修復され、ピッティ宮殿衣装博物館に展示される。

肖像

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Famille de Carné
 The Medici Archive Project

参考文献

 『銀色のフィレンツェ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lost Girls

エレオノーラ・ディ・トレド Eleonora di Toledo

生没
1553年3月~1576年7月9日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
ガルシア・デ・トレド
ヴィットーリア・コロンナ
ピエトロ・デ・メディチ

概要

 エレオノーラ・ディ・トレドは、16世紀の女性。

年表

1571年4月21日

ピエトロ・デ・メディチと結婚。

外部リンク

 世界帝王事典
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ガルシア・デ・トレド García Álvarez de Toledo y Mendoza

生没
1579年4月25日~1649年1月21日
出身
ナポリ王国ナポリ
没地
スペイン帝国マドリード
ペドロ・デ・トレド
エルヴィラ・デ・メンドーサ
マリア・ロペス・デ・スニガ・イ・メンドーサ

概要

 ガルシア・アルヴァレス・デ・トレド・イ・メンドーサは、16世紀から17世紀のイタリア出身の男性、スペインの外交官、軍人、政治家。

在位

 ヴィリャフランカ・デル・ビエルソ侯 1627年~1649年

外部リンク

 Wikipedia

ファドリケ・デ・トレド Fadrique Álvarez de Toledo y Mendoza

生没
1580年5月30日~1634年12月11日
出身
ナポリ王国ナポリ
没地
スペイン帝国マドリード
ペドロ・デ・トレド
エルヴィラ・デ・メンドーサ
エルヴィラ・ポンセ・デ・レオン
エルヴィラ・デ・トレド
ヴィクトリア・デ・トレド
ファドリケ・デ・トレド
ペドロ・デ・トレド
イニーゴ・デ・トレド

概要

 ファドリケ・アルヴァレス・デ・トレド・イ・メンドーサは、16世紀から17世紀のイタリア出身の男性、スペインの軍人、政治家。

在位

 初代ヴィリャヌエバ・デ・ヴァルドゥエサ侯

外部リンク

 Wikipedia

ファドリケ・デ・トレド Fadrique Álvarez de Toledo y Ponce de León

生没
1635年2月27日~1705年6月9日
出身
スペイン帝国マドリード
没地
スペイン帝国マドリード
ファドリケ・デ・トレド
エルヴィラ・ポンセ・デ・レオン
マヌエラ・デ・コルドバ・イ・カルドナ
ホセ・ファドリケ・デ・トレド
アントニオ・デ・トレド
エルヴィラ・デ・トレド
ルイス・デ・トレド
フランシスコ・デ・トレド
テレサ・デ・トレド

概要

 ファドリケ・アルヴァレス・デ・トレド・イ・ポンセ・デ・レオンは、17世紀から18世紀のスペインの男性、軍人、政治家。

在位

 第2代ヴィリャヌエバ・デ・ヴァルドゥエサ侯 1634年12月11日~1705年6月9日
 第7代ヴィリャフランカ・デル・ビエルソ侯、第4代モンタルバーノ君主、第4代フェッランディーナ公、第7代ペーニャ・ラミロ伯 1649年1月21日~1705年6月9日
 ナポリ副王(臨時) 1671年1月~9月
 シチリア副王 1673年~1676年
 イタリア枢密院議長 1698年~1701年
 国王侍従長 1701年~1705年

外部リンク

 Wikipedia

ホセ・ファドリケ・デ・トレド José Fadrique Álvarez de Toledo y Córdoba

生没
1658年9月20日~1728年7月29日
出身
スペイン帝国マドリード
没地
スペイン帝国マドリード
ファドリケ・デ・トレド
マヌエラ・デ・コルドバ・イ・カルドナ
カタリナ・デ・モンカーダ・イ・アラゴン
マヌエラ・デ・トレド
ファドリケ・ヴィセンテ・デ・トレド
アントニア・デ・トレド

概要

 ホセ・ファドリケ・アルヴァレス・デ・トレド・イ・コルドバは、17世紀から18世紀のスペインの男性。

在位

 第8代ヴィリャフランカ・デル・ビエルソ侯、第3代ヴィリャヌエバ・デ・ヴァルドゥエサ侯、第5代モンタルバーノ君主、第5代フェッランディーナ公、第8代ペーニャ・ラミロ伯 1705年6月9日~1728年7月29日

外部リンク

 Wikipedia

ファドリケ・ヴィセンテ・デ・トレド Fadrique Vicente Álvarez de Toledo y Moncada de Aragón

生没
1686年4月5日~1753年11月1日
出身
スペイン帝国マドリード
没地
スペイン帝国マドリード
ホセ・ファドリケ・デ・トレド
マヌエラ・デ・コルドバ・イ・カルドナ
フアナ・ペレス・デ・グスマン
アントニオ・デ・トレド
カタリナ・デ・トレド
ベントゥラ・デ・トレド
マヌエラ・デ・トレド
ヴィセンテ・デ・トレド

概要

 ファドリケ・ヴィセンテ・アルヴァレス・デ・トレド・イ・モンカーダ・デ・アラゴンは、17世紀から18世紀の男性。

在位

 第9代ヴィリャフランカ・デル・ビエルソ侯、第4代ヴィリャヌエバ・デ・ヴァルドゥエサ侯、第9代ロス・ヴェレス侯、第8代モリーナ侯、第6代モンタルバーノ君主、第6代フェッランディーナ公、第9代ペーニャ・ラミロ伯 1728年7月29日~1753年11月1日

外部リンク

 Wikipedia

アントニオ・デ・トレド Antonio Álvarez de Toledo y Pérez de Guzmán el Bueno

生没
1716年9月24日~1773年12月4日
出身
スペイン帝国マドリード
没地
スペイン帝国マドリード
ファドリケ・ヴィセンテ・デ・トレド
フアナ・ペレス・デ・グスマン
テレーサ・フェルナンデス・デ・コルドバ
マリーア・アントーニア・ゴンザーガ
マリア・デ・トレド
マリア・デ・トレド・イ・ゴンザーガ
ホセ・デ・トレド
マリア・イグナシア・デ・トレド・イ・ゴンザーガ
フランシスコ・デ・トレド・イ・ゴンザーガ
ペドロ・デ・トレド・イ・ゴンザーガ

概要

 アントニオ・アルヴァレス・デ・トレド・イ・ペレス・デ・グスマン・エル・ブエノは、18世紀のスペインの男性。

在位

 第10代ヴィリャフランカ・デル・ビエルソ侯、第5代ヴィリャヌエバ・デ・ヴァルドゥエサ侯、第10代ロス・ヴェレス侯、第9代モリーナ侯、第7代モンタルバーノ君主、第7代フェッランディーナ公、第10代ペーニャ・ラミロ伯 1753年11月1日~1773年12月4日

外部リンク

 Wikipedia

記載日

更新日

 2025年8月23日