Cappello

カッペッロ家

ポーロ・カッペッロ Polo Cappello

生没
1452年~
出身
ヴェネツィア
ヴェットーレ・カッペッロ
ルチア・クエリーニ
エリザベッタ・コルナーロ
ルチア・カッペッロ

概要

 ポーロ・カッペッロは、15世紀から16世紀の男性。

年表

1452年

ヴェネツィアにて、生(1454年頃)。

1479年

エリザベッタ・コルナーロと結婚。

1492年

ウラースロー2世・ヤギェウォと対トルコ同盟を結ぶため、マルコ・ダンドロと共にハンガリーに大使として派遣される。

1495年

フォルノーヴォの戦いで、ヴェネツィア軍に従軍。

1496年2月19日

ナポリ駐在大使に選ばれ、この日ヴェネツィア出発。ラヴェンナにて、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガらと合流し、ナポリ王国で対フランス戦に参加。

1497年末

マリン・ゾルツィとナポリ駐在大使を交代。

1498年5月12日

ヴェネツィア到着。

1498年9月15日

ジローラモ・ドナートと交代でローマ駐在大使に選ばれる。

1499年5月23日(木)

ローマ到着。21刻頃、庭園の門をくぐり、迎え入れられる。

1500年6月

 時々書き記したことは省き、4つの主要な点のみを述べる。第1に、枢機卿たちと聖なる枢機卿団の状況について。第2に、教皇のフランス王陛下及び我がヴェネツィア共和国との関係について。第3に、教皇の望みについて。第4に、教皇が我がヴェネツィア共和国のために何をすることが期待できるかについて。この報告が秘密とされることを願う。
 現在、生存している枢機卿は35名である。21名はイタリア人、14名は外国人である。具体的には、ナポリ出身2名、ジェノヴァ出身5名、ヴェネツィア出身3名、トリノ出身1名、ローマ出身4名、ミラノ、シエナ、メディチ家、 フェッラーラ からそれぞれ1名ずつ。外国出身者はスペイン出身6名、フランス出身6名、イギリス出身1名、そしてハンガリー王とポーランド王の兄弟1名。
  そして最初に、 ナポリの枢機卿 オリヴィエーロ・カラーファ 、カラファ家出身の高貴な司教であり、枢機卿団の長である彼は、ピエロ・モゼニゴ氏と共に艦隊に参加した。 彼はトルコに対して強い願望を持っていたが、それ以外では、我がヴェネツィア共和国に対してはほとんど関心を示さなかった。 ラゴナの枢機卿は宮廷にいなかった。ゼーニョの枢機卿、サン・ピエロ・イン・ヴィンキュラは非常に危険な人物で、教皇に関する問題が起こった際、フランスの人々とともに教皇になろうとしたため、宮廷では非常に嫌われている。

1500年7月16日

ローマにて、ヴェネツィア共和国政府宛に手紙を書く。アルフォンソ・ダラゴーナサン・ピエトロ大聖堂の階段で襲撃され、4か所負傷。「頭と腕と肩と背中に」。

1500年7月19日

ローマにて、ヴェネツィア共和国政府宛に手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアが熱を出す。「誰がアルフォンソ・ダラゴーナを襲ったのか不明だが、フアン・ボルジアを殺害しテヴェレ川に投げ入れた者と同一人物だろうと言われる。チェーザレ・ボルジアが、サンタンジェロ城サン・ピエトロ大聖堂の間では武器を所持した者は死罪となることを布告」。

1500年7月23日

ローマにて、ヴェネツィア共和国政府宛に手紙を書く。アルフォンソ・ダラゴーナの容態は頭の傷により思わしくない。

1500年7月28日

ローマにて、ヴェネツィア共和国政府宛に手紙を書く。アルフォンソ・ダラゴーナの熱は下がったが、頭の傷のせいで重態。

1500年8月18日

ローマにて、ヴェネツィア共和国政府宛に手紙を書く。「ルクレツィア・ボルジアの夫、ビシェーリエアルフォンソ・ダラゴーナが今日亡くなった。チェーザレ・ボルジアが庭を歩いていた時に石弓を用いて彼の死を計画したため、チェーザレ・ボルジアアルフォンソ・ダラゴーナを彼の部屋で弓兵にずたずたに殺させた」。

1500年8月20日

ローマにて、ヴェネツィア共和国政府宛に手紙を書く。アルフォンソ・ダラゴーナの幾人かの部下が逮捕され、尋問され、アルフォンソ・ダラゴーナチェーザレ・ボルジア暗殺計画を自供。チェーザレ・ボルジアの部下がそう仄めかす。

1500年8月23日

ローマにて、ヴェネツィア共和国政府宛に手紙を書く。アルフォンソ・ダラゴーナの母トルージア・ガッツェッラのきょうだいジョヴァンニ・マリーア・ガッツェッラが、アルフォンソ・ダラゴーナチェーザレ・ボルジア暗殺計画を自供。

1500年9月16日

ローマ出発。

1500年9月

ヴェネツィア共和国政府宛に手紙を書く。「優雅でやさしいルクレツィア・ボルジアは以前はアレクサンデル6世のお気に入りだったが、教皇はもはや彼女を愛しておらず、ネピ城に送ってしまった」。

1500年9月19日

ジローラモ・リオンとローマ駐在大使を交代し、ローマ出発。

1500年9月20日

ヴェネツィア共和国政府宛に報告書を書く。アレクサンデル6世ナポリ王国の関係は悪化している。  23時、ヴァレンティノワチェーザレ・ボルジアの宮殿の近くで、アルフォンソ・ダラゴーナは負傷し、教皇アレクサンデル6世のもとへ逃げ延び、誰に襲撃されたのか分かっていると告げると、部屋にいた教皇の娘ルクレツィア・ボルジアが泣き崩れた。33日間療養し、妻ルクレツィア・ボルジアと、教皇の息子スクイッラーチェホフレ・ボルジアの妻である妹のサンチャ・ダラゴーナが看病し、チェーザレ・ボルジアに憎まれていたため毒殺を恐れて彼女たちは手ずから調理した。アレクサンデル6世は、彼がヴァレンティノワ公に殺されることを警戒して、16人の警備兵を配備。教皇の訪問にチェーザレ・ボルジアは随行しなかった。ただし、朝食にやり残したことは夜食で遂げると彼が言った1度を除いてだが。1500年8月17日、すでに寝台から起き上がっていたアルフォンソ・ダラゴーナの部屋にチェーザレ・ボルジアが入室し、ミケーレ・ダ・コレーリアという部下を呼んで絞殺させた。その夜、アルフォンソ・ダラゴーナは埋葬された。

1500年9月28日

ヴェネツィア共和国政府宛に報告書を書く。

別表記

 カペッロ、カッペロ、Paolo CapelloPolo CapelaPollo Capello

外部リンク

 Google Books
 Treccani

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

アンドレア・カッペッロ Andrea Cappello

概要

 アンドレア・カッペッロはビアンカ・カッペッロの従兄。

参考文献

 『メディチ家の人びと』

ヴィンチェンツォ・カッペッロ Vincenzo Cappello

生没
1469年~1541年8月19日
出身
ヴェネツィア
没地
ヴェネツィア
ニッコロ・カッペッロ
フランチェスカ・ロレダン

概要

 ヴィンチェンツォ・カッペッロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、ヴェネツィア共和国の海将。

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

バルトロメオ・カッペッロ Bartolomeo Cappello

生没
1519年8月24日~1594年10月
ジローラモ・カッペッロ
マリーア・ピサーニ
ペッレグリーナ・モロジーニ
ルクレツィア・グリマーニ
ビアンカ・カッペッロ
ヴィットーリオ・カッペッロ

概要

 バルトロメオ・カッペッロは、16世紀のイタリアの男性。

年表

1544年

ペッレグリーナ・モロジーニと結婚。

1559年

ルクレツィア・グリマーニと結婚。

外部リンク

 The Medici Archive Project
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『愛の年代記』
 『メディチ家の人びと』

ヴィットーリオ・カッペッロ Vittorio Cappello

生没
1547年8月13日~
バルトロメオ・カッペッロ
ペッレグリーナ・モロジーニ

別表記

 ヴェットリ、Vettore

外部リンク

 The Medici Archive Project

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『愛の年代記』

ビアンカ・カッペッロ Bianca Cappello

生没
1548年~1587年10月20日
出身
ヴェネツィア
没地
ポッジョ・ア・カイアーノ
バルトロメオ・カッペッロ
ペッレグリーナ・モロジーニ
ピエトロ・ボナヴェンチュリ
フランチェスコ1世・デ・メディチ
ペッレグリーナ・ボナヴェンチュリ
アントーニオ・デ・メディチ

概要

 ビアンカ・カッペッロは、16世紀のイタリアの女性。

年表

1548年

ヴェネツィアにて、生(1546年)。

別表記

 ビアンカ・カペッロ

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 The Medici Archive Project

参考文献

 『愛の年代記』
 『世界悪女大全』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Bibliotechina Grassoccia
 『Lost Girls

記載日

更新日

 2024年10月1日