Manfredi

マンフレディ家

アストッレ3世・マンフレディ Astorre III Manfredi

生没
1485年6月20日~1502年6月2日
出身
ファエンツァ
没地
教皇領ローマ
ガレオット・マンフレディ
フランチェスカ・ベンティヴォーリオ
ビアンカ・リアリオ

概要

 アストッレ3世・マンフレディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 ファエンツァの君主 1488年~1501年

年表

1485年6月20日

ファエンツァにて、生(1485年1月19日、1485年1月20日)。

1488年5月31日

ファエンツァの君主ガレオット・マンフレディは、妻フランチェスカ・ベンティヴォーリオの主導により謀殺される。フランチェスカ・ベンティヴォーリオの父、ボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、フランチェスカ・ベンティヴォーリオを支援しファエンツァを支配しようと急ぎファエンツァに入る。

しかしファエンツァの民衆は、ガレオット・マンフレディの幼子アストッレ3世・マンフレディを擁してフィレンツェに支援を求め、間もなくフィレンツェ軍がファエンツァを制圧。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオフランチェスカ・ベンティヴォーリオ父娘はボローニャに逃げ、ファエンツァを事実上、配下に入れたフィレンツェは自領の境界を固める。

1494年

ビアンカ・リアリオと結婚。

1499年12月

ビアンカ・リアリオの母親はカテリーナ・スフォルツァだが、クリストフォロ・モーロを通じてヴェネツィア共和国からの保護を確保した上で、フォルリに向かうチェーザレ・ボルジア軍を歓迎。

1500年1月31日

手紙をしたためる。「これらの貧しい都市、フォルリイーモラは打撃を受けて疲弊しました。しかし、彼らはその隷属から解放されたことを思い起こすと、慰めを得るのです。」

1500年8月8日

アレクサンデル6世により、破門される。

1501年4月26日

ファエンツァ、降伏(1501年4月25日)。夜、チェーザレ・ボルジアと会見。

自ら進んでチェーザレ・ボルジアの軍将としてその指揮下に入る。

1501年6月

チェーザレ・ボルジアに従い、ローマ到着。

1501年

チェーザレ・ボルジアにより、ローマサンタンジェロ城に投獄される。

1502年6月2日

暗殺される。

1502年6月9日(木)

テヴェレ川で絞殺死体が発見される。15歳くらいと25歳くらいの若者が腕で縛られ、1人の女性とその他の人々の死体も発見される。

別表記

 シニョーレ・アストッルレ・ディ・ファエンツァ、アストッレ・マンフレーディ、アストール・マンフレディ、アストーレ3世、Astorgio III Manfredi

外部リンク

 De Re Militari
 Historia Faentina
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

マンフレド・マンフレディ Manfredo Manfredi

生没
14??年~15??年

概要

 マンフレド・マンフレディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ駐在フェッラーラ大使。

年表

1492年8月11日(土)

フィレンツェにて、フェッラーラ公妃エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙を書く。

 ピエロ・イル・ファトゥオ殿の使節が書き送ってきました。曰く、本日すなわち11日午前11時に、新教皇が選出され、かの副尚書院長アレクサンデル6世と名乗り教皇に公布されたとのこと。しかも、枢機卿団の全会一致により、全面的な満足の内に承認されたとのことです。もしこれが事実であれば、我が高貴にして尊敬すべき奥方様、それが誠に聖霊の導きによる選出だったとは、到底信じ難いことであります。何しろ、これまでになされた数々の工作を思えば、あらゆる候補の中で、件の副尚書院長が選ばれたことは、全く予想されていなかったのですから。

1492年8月16日(木)

フィレンツェにて、エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙を書く。

 この前の日曜日までに、私はミラノ経由の飛脚便で、モデナ司教ジャナンドレア・ボッチャッツィ様から公妃殿下宛の書状を受け取りました。その内容は、書かれていた限りでは、新教皇選出の報せを含んでおりました。しかしながら、殿下には今この時までその書状をお送りしておりませんでした。というのも、私自身の書簡にてすでに全容をお伝えしておりましたし、さらにローマから何か追加の情報が届くのを期待していたからであります。それについては、以下に記します報せの中でお分かりいただけるでしょう。それらの情報は、昨晩遅くに、当地の諸賢がローマからの使節を通じて受け取ったものであり、ピエロ・イル・ファトゥオが我々全ての使節にそれを伝達してくださいました。内容は、教皇が選出された際に、枢機卿たちに対して分配した全ての叙任職と教会恩典に関するものであります。
 まず第一に、以下のことが記されています。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿は、教皇より枢機卿団の尚書官職を授かり、さらに副尚書院長の邸宅と、そこにあったすべての家具や調度品も譲り受けました。同様に、ネピの地所と、ハンガリーにあるアクリア教会も与えられました。これは1万ドゥカートの価値に相当するものです。
 ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿は、ソリアーナ城及びモンティチェッリの地所、さらにスペインにあるカルタヘナ教会を与えられました。これは5千ドゥカートの現金に相当する価値があります。加えて、マルケ地方の教皇特使職も授かりました。
 会計院長ラッファエーレ・サンソーニは、スペインにおいて4千ドゥカート相当の聖職禄を授かり、さらにアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ猊下が以前住んでいた邸宅を与えられました。この邸宅は、かつてジローラモ伯爵の息子たちのものであったものを返還する形となっています。また、会計院長職については、自由にその管理を行うことができるという取り決めがなされました。
 ジョヴァンニ・コロンナ枢機卿は、スビアーコの修道院と、それに付随する20の城を与えられました。これらは合計で1万2千ドゥカートの収入をもたらすものであり、修道院及び城は、コロンナ家が永続的に領有するものとされました。さらに彼は、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァからパヴィアの司教座も授かりました。
 ジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリは、ペルージア及びチヴィタ・カステッラーナの教皇特使職を与えられました。
 フェデリーコ・サンセヴェリーノは、ガスパーレ・サンセヴェリーノが教会と共に1百名の兵と1万5千ドゥカートの給与を伴って召し抱えられるとの約束を得ており、さらにアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿がかつて所有していた邸宅も与えられました。
 ドメニカッチョ・ドーリアは、数か月間は護衛任務に留まることになります。
 サンチャ・ナスタージオはスペインで聖職禄を授かり、さらに教皇庁の裁判機関セニャトゥーラ宮殿に留まることとなります。
 サンタンジェロ城の城代には、スペイン人のアルジェンティーノ司教が任命されました。
 教皇の書記官には、カパツァの司教が任命されました。
 アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ猊下は、自筆で立派な書簡をピエロ・イル・ファトゥオ殿宛にしたためたと言われています。その書簡には教皇自らの署名が添えられており、そこでは、教皇がピエロ・イル・ファトゥオ殿とその都市に対して抱いている親しみと好意的な心持ちが伝えられています。同様の書簡を、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ猊下の兄弟であるジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿にも、自筆で書き、教皇自らが署名しています。これらの書簡はまだ公にされておらず、誰もがその内容を知っているわけではありませんが、私は信頼できる経路から確かな情報を得ています。

1492年8月17日(金)

フィレンツェにて、エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙を書く。

 ローマから新たに届いた報告は、教皇アレクサンデル6世が宮廷改革に関して非常に多くのことを約束したという内容です。具体的には、書記官や多くの専制的な職務を廃止し、教皇の子どもたちをローマから外に出し、称賛に値する昇進を行うことが伝えられています。また、彼は「栄光ある教皇になるだろう」と言われており、「後見人を必要としない」とも言われています。日曜日には、戴冠式と即位式を行う予定で、その際には大いに栄光と華やかな儀式が行われると伝えられており、おそらく今までのどの教皇よりも盛大に行われるだろうとされています。
 追伸。ローマから届いた教皇による職位及び恩典の分配に関する報告について、ピエロ・イル・ファトゥオ殿から我々に伝えられた通達の中には、特定の枢機卿たちに対して約束された金額についての記載はありませんでした(おそらく、かような発言の発信源が自身であると思われることを避けたかったためと思われます)。しかしながら、後に私は確かな筋から、教皇が実際に与え、あるいは約束した内容を知りました。すなわち、ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿には恩典に加えて2万ドゥカートジョヴァンニ・コロンナ枢機卿には15万ドゥカートジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリ枢機卿には30万ドゥカートです。このことから、こうした重鎮たちをを味方に引き入れるには、多大な義務と約束なしには不可能であったことを貴女様にご理解いただくためにも、このことをお知らせするのが適切であると考えました。そのため、前述のような手段に訴える必要があったのです。もしジョヴァンニ・コロンナジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニが支持に傾かなかったならば、事態は危険なものとなったでありましょう。ご英明なる殿下におかれては、もしご判断により適切とお思いでしたら、この金銭の約束に関する情報はご自身の胸中にお留め置きくださいますよう。

1492年8月22日

フィレンツェにて、エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙を書く。

 これらの諸氏は、私の知る限り、新たにローマから自らの使節を通じて報せを受けたとのことです。それによると、教皇の要請により、前教皇の筆頭侍従であったジローラモ・カレグラーノという者と、もう1人の侍従が逮捕されたというのです。逮捕の理由は、故インノケンティウス8世が所有していた宝石や金銭、総額で10万ドゥカートにも及ぶ財宝を盗み、持ち去ったとの嫌疑によるものだと伝えられています。
 聖下は、枢機卿方に対してなされた幾つかのご約束をお守りにならないご様子で、どうやらご方針をお変えになられたように見受けられます。すなわち、ジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリ枢機卿にチヴィタ・カステッラーナ及びペルージアの教皇特使職をお与えになるとのお話をお取りやめになり、またジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿に対しては、モンティチェッリを授けるとご約束なさっていたにも拘らず、それもご撤回なさったとのことでございます。このように、かくも早くご態度をお変えになられたことは、周りの方々に少なからぬ驚きをもって受け止められております。さればこそ、聖下は、ご自身のお考えに従ってお振舞いになり、いかなるお立場の方に対しても私情を挟まず、公平に統治なさるお方として見なされており、今後の日々のうちに、さらにそのご判断の確かさが明らかになってまいりましょう。また、聖下が多額の金銭、恐らくは総額で15万ドゥカートにのぼる金額をすでに支払い、あるいはご約束になっておられるとのことも伝わっております。これらの大部分は、聖下の預託銀行であるスパンノッキ家の銀行にて支払われることになっているようでございますが、伝え聞くところによりますと、現在その銀行には支払いに必要な資金のご用意が十分に整っておらず、やむを得ず借入と利子付きの融資に頼らねばならぬ状況とのことでございます。これは彼らにとりまして甚だしい損失となり、あるいは破綻に至る恐れすらございます。
 また聖下は、ある枢機卿たちに対しても、資金の借用をお求めになられたとのことでございます。その中には、サンタ・マリア・イン・ポルティコ枢機卿ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼノも含まれており、伝え聞くところによりますと、聖下がご所望になった金額を、すでにお渡し申し上げたとのことでございます。
 聖下は、コンクラーヴェの際に枢機卿方に仕えていた全ての者に対し、報奨をお与えになりました。お聞きするところによりますと、ヴェネツィア総大司教マッフェオ・ジラルディに随行していた者たちには、6千ドゥカートが現金で支給されたとのことです。伝えられるところでは、まさに彼らを介してこの総大司教は聖下に投票するよう心を動かされたのであり、それ以前は、かたくなに別の候補を支持しておられたとのことでした。また、ジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿に随行していたニッコロ・ミケロッツィ氏には、書記机の購入費として2千ドゥカートが与えられ、さらにもう1人には年間約3百ドゥカートの価値がある鉛の利権が授けられました。その他の者たちにも次々と報奨が与えられております。但し、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレジョヴァンニ・バッティスタ・ゼノジョルジ・ダ・コスタジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレフランチェスコ・ピッコローミニオリヴィエーロ・カラーファの各枢機卿に仕えていた者たちは例外とされたようでございます。
 また、来たる日曜日に予定されております聖下の戴冠式に際し、聖下はご自身の甥御を枢機卿に叙任なさるご意向であると伝えられております。この甥御はモンレアーレの司教ジョアン・デ・ボルジャであり、優れた人格と徳を備えた立派なお方であるとのことでございます。
 聖下のご子息であり、パンプローナ司教チェーザレ・ボルジアは、ピサで学んでおられましたが、昨日の朝、聖下のご命令を受けて同地を出発し、スポレートの城塞へと向かわれました。
 アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿は、ジョヴァンニ・コロンナ枢機卿にパヴィアの司教職を与えると約束していたものの、その意思を変えたように見受けられます。
 ヴィルジーニオ・オルシーニ殿及びその他全てのオルシーニ家の人々に対して、教皇は非常に愛情深く丁重なもてなしと親しみを示されました。昨晩、フランチェスケット・チーボ殿の夫人であり、ピエロ・イル・ファトゥオ殿の妹でもある高貴なるマッダレーナ・デ・メディチ夫人がローマからの帰途で当地に到着いたしました。

1492年9月3日(月)

フィレンツェにて、エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙を書く。

 先の金曜日に枢機卿会議が開かれ、教皇聖下は、かねてより申し上げておりましたように、甥であるモンレアーレの司教ジョアン・デ・ボルジャを枢機卿に任命なさいました。この人物は、以前も殿下にお伝えしたとおり、教皇の戴冠の日に叙階される予定であった者です。教皇は彼を側近として常に身近に置くために、宮殿内の居室を与えられました。非常に優れた人物であり、実務にも適した者であります。
 同じくこの枢機卿会議において、ご自身の選出の際に諸高位聖職者並びにその家族に約束した全ての恩典を正式に承認いたしました。

1497年8月

手紙を書く。フアン・ボルジアを暗殺したのはバルトロメオ・ダルヴィアーノ

1497年12月22日

手紙を書く。「教皇アレクサンデル6世がガンディア公フアン・ボルジア殺害をオルシーニ家に帰せることが増えており、息子の死に対する復讐の意向があると考えられています。」

1498年10月2日

エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。チェーザレ・ボルジアは、ルイ12世アンヌ・ド・ブルターニュ結婚のための特免状をフランスに持参。

1501年11月22日

フィレンツェにて、フェッラーラエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。

1501年11月24日

フィレンツェにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。

1504年8月20日

フィレンツェにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ユリウス2世フィレンツェ人に、チェーザレ・ボルジアフィレンツェに送った金、銀、そしてそれに似た高価なものを返還するよう要求。シニョーリアはこれに関係がないと拒否。

1507年1月

フランスにて、フェッラーラアルフォンソ1世・デステ宛てに手紙を書く。チェーザレ・ボルジアが、元家令のハイメ・デ・レクェゼンツをパンプローナからフランス王ルイ12世のもとへ送り、王に仕えることを申し出るが、耳を貸されなかった。ヴァレンティノワ公を名乗ることと、以前得ていた歳入を要求すると、断固たる拒絶を受けた。

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Cesare Borgia: duca di Romagna
 『Fra Girolamo Savonarola e notizie intorno il suo tempo
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

タッデオ・マンフレディ Taddeo Manfredi

生没
1431年~1486年頃
グイダントーニオ・マンフレディ
ビアンキーナ・トリンチ
マルサビーリア・ピオ
シジスモンド・マンフレディ
グイダッチオ・マンフレディ
タッデア・マンフレディ
ツァッフィーラ・マンフレディ

概要

 タッデオ・マンフレディは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 イーモラ領主 1448年~1473年

年表

1460年1月16日

ミラノ公フランチェスコ1世・スフォルツァに年3千フィオリーノで雇われる。

1460年5月6日

ティベルト・ブランドリーニの支援を得て、5日から6日にかけての夜、ファエンツァを攻撃。

1473年5月5日

トルトーナと引き換えにイーモラガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに売却する協定に署名。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』

レータ・マンフレディ Leta Manfredi

グイダントーニオ・マンフレディ
ビアンキーナ・トリンチ
グイド・ヴィスコンティ
アントーニオ・ヴィスコンティ
テオバルド・ヴィスコンティ
ガレアッツォ・ヴィスコンティ

概要

 レータ・マンフレディは、15世紀頃のイタリアの女性。

外部リンク

 Geneanet

レンガルダ・マンフレディ Rengarda Manfredi

生没
1???年~1457年以降
グイダントーニオ・マンフレディ
カルロ・ゴンザーガ
ウゴロット・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ

概要

 レンガルダ・マンフレディは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1445年

カルロ・ゴンザーガと結婚。

別表記

 Ringarda Manfredi

オッタヴィオ・マンフレディ Ottavio Manfredi

ガレオット・マンフレディ

別表記

 Ottaviano

参考文献

 『Lucretia Borgia

カルロ2世・マンフレディ Carlo II Manfredi

生没
1439年~1484年
出身
ファエンツァ
没地
リーミニ
アストッレ2世・マンフレディ
ジョヴァンナ・ダ・バルビアーノ
コスタンツァ・ダ・ヴァラーノ
オッタヴィアーノ・マンフレディ

概要

 カルロ2世・マンフレディは、15世紀のイタリアの男性。

在位

 ファエンツァの君主 1468年~1477年

外部リンク

 Wikipedia

ジャン・ガレアッツォ1世・マンフレディ Gian Galeazzo I Manfredi

生没
1375年頃~1417年10月16日
出身
ファエンツァ
没地
ファエンツァ
アストッレ1世・マンフレディ
レーダ・ダ・ポレンタ
ジェンティーレ・マラテスタ
カルロ・マンフレディ
グイダントーニオ・マンフレディ
マルツィア・マンフレディ
アストッレ2世・マンフレディ
ジャン・ガレアッツォ2世・マンフレディ
ジネヴラ・マンフレディ

概要

 ジャン・ガレアッツォ1世・マンフレディは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

年表

1397年

ジェンティーレ・マラテスタと結婚(1396年)。

外部リンク

 Geneanet
 Google Books
 Google Books
 Wikipedia

グイダントーニオ・マンフレディ Guidantonio Manfredi

生没
1407年~1448年6月22日
出身
ファエンツァ
没地
テルメ・ディ・ペトリオーロ
ジャン・ガレアッツォ1世・マンフレディ
ジェンティーレ・マラテスタ
ビアンキーナ・トリンチ
アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロ
タッデオ・マンフレディ
レータ・マンフレディ
レンガルダ・マンフレディ
コルネーリア・マンフレディ

概要

 グイダントーニオ・マンフレディは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 ファエンツァの君主 1417年~1424年、1426年~1448年

年表

1407年

ファエンツァにて、生。

1425年3月末

この頃、ミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティとの友好を断って、フィレンツェ共和国と友好関係を作る。

1441年

妻ビアンキーナ・トリンチ、死。

1442年

アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロと結婚。

1448年6月22日

テルメ・ディ・ペトリオーロにて、死(1448年6月18日、1448年6月20日)。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Geneanet
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

マルツィア・マンフレディ Marzia Manfredi

生没
1408年~1469年8月26日以降
ジャン・ガレアッツォ1世・マンフレディ
ジェンティーレ・マラテスタ
トンマーゾ・フレゴーソ

概要

 マルツィア・マンフレディは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1469年8月26日

遺言書を作成。

アストッレ2世・マンフレディ Astorre II Manfredi

生没
1412年12月8日~1468年3月12日
出身
ファエンツァ
ジャン・ガレアッツォ1世・マンフレディ
ジェンティーレ・マラテスタ
ジョヴァンナ・ダ・バルビアーノ
カルロ2世・マンフレディ
ガレオット・マンフレディ
フェデリーコ・マンフレディ
エリザベッタ・マンフレディ
ランチッロット・マンフレディ
バルバーラ・マンフレディ

概要

 アストッレ2世・マンフレディは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 イーモラ領主 1439年~1448年
 ファエンツァ領主 1448年~1468年

年表

1417年~1448年

ファエンツァを兄弟と共同支配。

1448年~1468年

ファエンツァを単独支配。

1449年

ジョヴァンニ・ダ・オリオーロに描かせた娘エリザベッタ・マンフレディバルバーラ・マンフレディの肖像画を受け取る。

1458年8月9日

ルカ・ピッティ、アストッレ2世・マンフレディにその騎兵、歩兵を率いて市内を固めさせる。

関連項目

 1467年1月4日の同盟

別表記

 Astorgio II Manfredi

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ・マンフレディ Giovanni Evangelista Manfredi

生没
1482年~1502年
没地
教皇領ローマ
ガレオット・マンフレディ
カッサンドラ・パヴォーニ

概要

 ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ・マンフレディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。父ガレオット・マンフレディの死後、ファエンツァのドメニコ修道士になる。

年表

1500年11月13日

城主ニッコロ・カスタニーニに向けられた降伏が記された紙をつけた矢が発見され、ファエンツァアンツィアーニはニッコロ・カスタニーニを逮捕、財産を没収。評議会議員4人とジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ・マンフレディを要塞に配置。

1501年6月

チェーザレ・ボルジアに従い、ローマ到着。

1501年

チェーザレ・ボルジアにより、ローマサンタンジェロ城に投獄される。

別表記

 Gianevangelista

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『The Life of Cesare Borgia

ツァッフィーラ・マンフレディ Zaffira Manfredi

生没
14??~1473年
タッデオ・マンフレディ
マルサビーリア・ピオ
ピーノ3世・オルデラッフィ

概要

 ツァッフィーラ・マンフレディは、15世紀のイタリアの女性。

バルバーラ・マンフレディ Barbara Manfredi

生没
1444年4月3日~1466年10月7日
出身
ファエンツァ
没地
フォルリンポーポリ
アストッレ2世・マンフレディ
ジョヴァンナ・ダ・バルビアーノ
ピーノ3世・オルデラッフィ

概要

 バルバーラ・マンフレディは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1451年3月2日

ピーノ3世・オルデラッフィとの結婚が決められる。

1456年1月25日

エリザベッタ・マンフレディフランチェスコ4世・オルデラッフィと結婚した日、ピーノ3世・オルデラッフィとの結婚が確約される。

1462年5月16日

ピーノ3世・オルデラッフィと結婚。

1463年1月

体調が優れない夫ピーノ3世・オルデラッフィと共にファエンツァへ行く。

1466年

フォルリで疫病が流行り、フォルリンポーポリに避難。

1466年10月7日

フォルリンポーポリにて、盲腸炎の悪化よって死。

1466年

サン・ビアージオ教会に埋葬される。

1953年

遺体が発掘されて臨床調査にかけられ、毒物の痕跡はなく盲腸炎が死因であることが判明。

外部リンク

 Facebook - Storia e storie di Forlì
 Treccani
 Wikipedia

エリザベッタ・マンフレディ Elisabetta Manfredi

生没
1???年~1469年6月
没地
ファエンツァ
アストッレ2世・マンフレディ
ジョヴァンナ・ダ・バルビアーノ
フランチェスコ4世・オルデラッフィ
チア・オルデラッフィ
アントーニオ・マリーア・オルデラッフィ
フランチェスコ・オルデラッフィ
ジューリア・オルデラッフィ
ジョヴァンナ・オルデラッフィ
カテリーナ・オルデラッフィ

概要

 エリザベッタ・マンフレディは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1456年1月25日

ファエンツァにて、フランチェスコ4世・オルデラッフィと結婚が祝われる。

1457年2月

フォルリへ嫁ぐ。

1459年

チア・オルデラッフィを出産。

1460年5月3日

アントーニオ・マリーア・オルデラッフィを出産。

1461年

フランチェスコ・オルデラッフィを出産。

1462年

ジューリア・オルデラッフィを出産。

14??年

ジョヴァンナ・オルデラッフィを出産。

14??年

カテリーナ・オルデラッフィを出産。

1466年

義弟ピーノ3世・オルデラッフィにより、夫フランチェスコ4世・オルデラッフィ、子アントーニオ・マリーア・オルデラッフィと共に監禁される。

1466年4月22日

フランチェスコ4世・オルデラッフィ、死。

1469年4月

子供たちと共に、ファエンツァへ行く。

1469年6月

ファエンツァにて、死。

外部リンク

 Wikipedia

ガレオット・マンフレディ Galeotto Manfredi

生没
1440年~1488年5月31日
アストッレ2世・マンフレディ
ジョヴァンナ・ダ・バルビアーノ
フランチェスカ・ベンティヴォーリオ
カッサンドラ・パヴォーニ
スキピオーネ・マンフレディ
ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ・マンフレディ
オッタヴィオ・マンフレディ
フランチェスコ・マンフレディ
アストッレ3世・マンフレディ

概要

 ガレオット・マンフレディは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 ファエンツァの君主 1477年~1488年5月31日

年表

1440年

生。

1451年

バルバーラ・マンフレディピーノ3世・オルデラッフィの結婚祝賀に参列。

1452年

カルロ2世・マンフレディと共に父アストッレ2世・マンフレディについてボローニャに赴き、そこでフリードリヒ3世に謁見し、騎士に叙爵される。

1462年~1463年

ロマーニャにおける対ドメニコ・マラテスタ軍事行動に父アストッレ2世・マンフレディと共に参加。

1467年

アストッレ2世・マンフレディの代理として、ヴェネツィア共和国軍最高指揮官バルトロメオ・コッレオーニと契約を結ぶ。

1468年3月12日

アストッレ2世・マンフレディ、死。ガレオット・マンフレディは年4千リラを受け取る権利を得る。

1468年~1469年

ヴェネツィア共和国に仕える。

1476年

義弟ピーノ3世・オルデラッフィの助けにより、まずラヴェンナに、次にフェッラーラに、最後にフォルリに避難。

1477年10月18日

ロレンツォ・イル・マニーフィコの支援を受けて、ファエンツァ領に侵入し、グラナローロを占領。

1477年11月16日

ファエンツァ入城。

カルロ2世・マンフレディと特に弟フェデリーコ・マンフレディに対する暴動発生。

1477年11月17日

ファエンツァ領主として迎えられる。

1477年12月7日~1477年12月8日

カルロ2世・マンフレディが要塞明け渡しを飲み、ガレオット・マンフレディがファエンツァ領主に就任。

1480年

ミラノ公国フィレンツェ共和国、ナポリ王国が締結した同盟と、1万8千ドゥカートで契約。。

1481年7月1日

カファッジョーロのメディチ家別荘にてロレンツォ・イル・マニーフィコと会い、彼を代理人としてジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの娘との結婚と持参金の交渉を任せる。

1481年7月9日

フランチェスカ・ベンティヴォーリオとの結婚を公式に発表。

1481年7月11日

フランチェスカ・ベンティヴォーリオとの結婚誓約書に署名。持参金は総額1万ドゥカート

1485年5月5日

ロレンツォ(ロレンツォ・イル・マニーフィコ?)から手紙。ジローラモ・リアリオ暗殺計画が発覚したアントーニオ・マリーア・オルデラッフィを排除するよう促される。

1485年6月7日

フィレンツェ共和国特別諮問八人会議から手紙。ジローラモ・リアリオとの和議を勧められる。

1487年3月12日~1487年3月13日

夜、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオファエンツァが襲撃され、妻フランチェスカ・ベンティヴォーリオと息子アストッレ3世・マンフレディボローニャへ連れ去られる。

1487年9月

ロレンツォ・イル・マニーフィコの助力により、妻フランチェスカ・ベンティヴォーリオと息子アストッレ3世・マンフレディファエンツァに戻る。

1488年4月

オルシの陰謀において、ロマーニャの君主の中でただ1人アントーニオ・マリーア・オルデラッフィを支持し、ヴェネツィア共和国に傾く。

1488年4月20日

ファエンツァにて、ロレンツォ・イル・マニーフィコ宛てに手紙をしたためる。フォルリの民意について、教皇代理を恐れ、教会よりオルデラッフィを望んでいると伝える。

1488年5月31日

フランチェスカ・ベンティヴォーリオの主導により謀殺される。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Google Books - Caterina Sforza Volume III
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

更新日

 2025年4月25日