ニコルッチオ・ペトルッチ Nicoluccio Petrucci

- 生没
- 1???年~
- 父
- ペトルッチオ・ペトルッチ
- 子
- バルトロメオ・ペトルッチ
トンマーゾ・ペトルッチ
ピエトロ・ペトルッチ
ジョヴァンニ・ペトルッチ
概要
ニコルッチオ・ペトルッチは、14世紀頃のイタリアの男性。1309年に記録あり。
外部リンク
バルトロメオ・ペトルッチ Bartolomeo Petrucci

- 生没
- 13??年~
- 父
- ニコルッチオ・ペトルッチ
- 子
- チェッコ・ロッソ・ペトルッチ
ロナルド・ペトルッチ
概要
バルトロメオ・ペトルッチは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
トンマーゾ・ペトルッチ Tommaso Petrucci

- 生没
- 13??年~
- 父
- ニコルッチオ・ペトルッチ
- 子
- ヤコポ・ペトルッチ
概要
トンマーゾ・ペトルッチは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
チェッコ・ロッソ・ペトルッチ Cecco Rosso Petrucci

- 生没
- 13??年~14??年
- 父
- バルトロメオ・ペトルッチ
- 子
- ニッコロ・ペトルッチ
グリエルモ・ペトルッチ
アントーニオ・ペトルッチ
概要
チェッコ・ロッソ・ペトルッチは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
年表
1399年
ミラノ公への大使。
1403年
バーリア(特別行政会議)の一員。
1412年
戦争評議会の九人委員会の一員。
1414年
ナポリ王への大使。
1423年
教皇マルティヌス5世への大使を務める。
別表記
Checco Rosso Petrucci
外部リンク
ヤコポ・ペトルッチ Jacopo Petrucci

- 生没
- 1???年~
- 父
- トンマーゾ・ペトルッチ
- 子
- フェデリーコ・ペトルッチ
ジョヴァンニ・ペトルッチ
アントーニオ・ペトルッチ
マリアーノ・ペトルッチ
ジョルジョ・ペトルッチ
トンマーゾ・ペトルッチ
バルトロメオ・ペトルッチ
ペトルッチオ・ペトルッチ
ブロージオ・ペトルッチ
概要
ヤコポ・ペトルッチは、14~15世紀のイタリアの男性。
別表記
Giacoppo Petrucci
外部リンク
アントーニオ・ペトルッチ Antonio Petrucci

- 生没
- 1400年~1471年2月18日
- 出身
- シエナ
- 没地
- 教皇領フォルリ
- 父
- チェッコ・ロッソ・ペトルッチ
- 母
- ガブリエッラ・デ・マルツィ
- 妻
- ニコルッチア・ベニンテンディ
フランチェスカ
マリエッタ・サリンベーニ
ビアンチーナ・サリンベーニ - 子
- バルトロメオ・ペトルッチ
概要
アントーニオ・ペトルッチは、15世紀のイタリアの男性。
古典教育を受け、詩や散文を嗜み、従兄弟アンドレオッチョ・ペトルッチとフィレンツェの反メディチ派のサークルと交流があった。
年表
1400年4月29日
シエナで洗礼を受ける。
1414年
ニコルッチア・ディ・ガルガーノ・ベニンテンディと結婚。持参金は3千2百フィオリーノ。
1423年
マルコ・ストロッツィ宛てに手紙をしたためる。
1429年
1429年12月
ニッコロ・フォルテブラッチョがフィレンツェ共和国軍を率いてルッカを攻撃(1429年11月)。
1430年
戦争を避けようとするシエナ政府の方針に反して、教皇領で軍を募り、ミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティを味方に引き入れる。
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティはルッカにフランチェスコ1世・スフォルツァを派遣。ルッカ領主パオロ・グイニジの名の下で他の指揮官たちと共に戦闘に臨む。
1430年8月
裏切りの疑いをかけられたパオロ・グイニジが逮捕され、ルッカには共和政が復活。
1437年4月14日
シエナからの追放命令が取り消される。
1437年
マリエッタ・サリンベーニと結婚。
外部リンク
バルトロメオ・ペトルッチ Bartolomeo Petrucci

- 生没
- 1402年~
- 父
- ヤコポ・ペトルッチ
- 子
- グリエルモ・ペトルッチ
ジョヴァンニ・ペトルッチ
カルロ・ペトルッチ
ヴェットーリオ・ペトルッチ
アントーニオ・ペトルッチ
マリアーノ・ペトルッチ
パンドルフォ・ペトルッチ
アルベルト・パオロ・ペトルッチ
ジローラモ・ペトルッチ
アレッサンドロ・ペトルッチ
ヤコポ・ペトルッチ
カミッロ・ペトルッチ
ペトルッチオ・ペトルッチ
ジュゼッペ・ペトルッチ
パンドルフィーナ・ペトルッチ
ヴィットーリア・ペトルッチ
アントーニア・ペトルッチ
マリアンナ・ペトルッチ
概要
バルトロメオ・ペトルッチは、15世紀のイタリアの男性。
年表
外部リンク
パンドルフォ・ペトルッチ Pandolfo Petrucci

- 生没
- 1452年2月14日~1512年5月21日
- 出身
- シエナ
- 父
- バルトロメオ・ペトルッチ
- 妻
- エウフラジア・マルティノッツィ
アウレリア・ボルゲーゼ
チェリア・ブルガリーニ - 子
- ジューリオ・ペトルッチ
アルフォンソ・ペトルッチ
ボルゲーゼ・ペトルッチ
ルドヴィーコ・ペトルッチ
ファビオ・ペトルッチ
ジローラマ・ペトルッチ
スルピツィア・ペトルッチ
フランチェスコ・ペトルッチ
ジューリア・ペトルッチ
フランチェスカ・ペトルッチ
ポルツィア・ペトルッチ
概要
パンドルフォ・ペトルッチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
シエナ君主 1487年~1512年
次代:ボルゲーゼ・ペトルッチ
年表
1452年2月14日
シエナにて、生(1450年頃)。
1482年
エウフラジア・ディ・ニッコロ・マルティノッツィと結婚。
1487年
追放されていたシエナの貴族パンドルフォ・ペトルッチら亡命者たち、シエナを制圧。弟ヤコポ・ペトルッチと共に支配権を握る。
アウレリア・ディ・ニッコロ・ボルゲーゼと結婚。
1493年4月25日
アレクサンデル6世、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナとピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。
間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステ、マントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。
1498年9月
シエナ方面からフィレンツェを攻めようとするヴェネツィアの作戦を阻止すべく、シエナの君主パンドルフォ・ペトルッチとかなりの譲歩を含む5年間の休戦協定を結ぶ。
1502年9月末
アントーニオ・ダ・ヴェナーフロを代理として、マジョーネの会合に送る。
1502年10月
書記官をチェーザレ・ボルジアに送り、「公に敵対する者たちに協力するつもりはない」ことを伝える。
1502年
マジョーネ同盟がパンドルフォ・ペトルッチを通してピサ領有を認めるとの条件つきで加盟を求めてきたのに対し、ルイ12世の態度を確認するまで態度を保留し中立を守ることに決める。
1503年1月
シエナでパンドルフォ・ペトルッチに対する陰謀が発覚し、市民22名を拘束。直ちに首謀者3名を絞首刑に処す。
1503年1月8日
チェーザレ・ボルジア、アッシジでシエナの使節に接見。使節に対し、その君主パンドルフォ・ペトルッチを追放する決意を表明すると共に、シエナ市民自らが彼を追放するよう市民を説得せよと厳命。
1503年1月10日
チェーザレ・ボルジア、トルジャーノでフィレンツェの使節ニッコロ・マキアヴェッリに対し、パンドルフォ・ペトルッチはフィレンツェ及び自分の共同の敵であり、その追放は両者の安全にとって不可欠であると協調し、そのために共に行動するよう強く要求。
1503年1月18日頃
シエナ、チェーザレ・ボルジア軍に対して防衛する準備を整える。重騎兵2、3百、歩兵約3千。ボローニャと協定を結ぶ。
1503年1月28日
パンドルフォ・ペトルッチ、シエナを逃亡。
1503年3月24日頃
シエナ、パンドルフォ・ペトルッチ派と反パンドルフォ・ペトルッチ派の2党に分裂。
1503年3月29日
パンドルフォ・ペトルッチは、ルイ12世を後ろ盾としてシエナに復辟。
1505年3月
この頃?、ルイ12世が瀕死の重病に陥り、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァはミラノ奪還の策動を開始。ユリウス2世、ヴェネツィア、ヴィテッリ家、オルシーニ家、パンドルフォ・ペトルッチ、フィレンツェの傭兵隊長の一人ジャンパオロ・バリオーニを巻き込み、当面はメディチ家のジョヴァンニ・デ・メディチ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟のフィレンツェ復帰を図る。軍事行動の指揮はバルトロメオ・ダルヴィアーノが担当。
1505年5月28日
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ、ペストにより急死。しかしその反フィレンツェ策動は、パンドルフォ・ペトルッチ、ジャンパオロ・バリオーニ、バルトロメオ・ダルヴィアーノが継承。
1505年7月
反フィレンツェ策動の中心人物の1人パンドルフォ・ペトルッチからバルトロメオ・ダルヴィアーノのフィレンツェ攻撃計画について通報を受ける。パンドルフォ・ペトルッチのもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣。
1506年
ドゥオーモ管理局長官。
1512年5月21日
死。
外部リンク
Google Books
Treccani
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ヤコポ・ペトルッチ Jacopo Petrucci

- 生没
- 1???年~1497年9月25日
- 父
- バルトロメオ・ペトルッチ
- 子
- フェデリーコ・ペトルッチ
ジャンフランチェスコ・ペトルッチ
ラッファエーレ・ペトルッチ
ガスパーレ・ペトルッチ
ペトルッチオ・ペトルッチ
アルメッリーナ・ペトルッチ
ニコレア・ペトルッチ
概要
ヤコポ・ペトルッチは、15世紀のイタリアの男性。
別表記
Giacoppo Petrucci
外部リンク
アルフォンソ・ペトルッチ Alfonso Petrucci

- 生没
- 1491/92年~1517年7月16日
- 父
- パンドルフォ・ペトルッチ
概要
アルフォンソ・ペトルッチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1511年3月10日~1517年7月16日
任命した教皇:ユリウス2世
年表
1517年4月初旬
レオ10世より追放された(1516年3月)シエナの前君主ボルゲーゼ・ペトルッチの弟・枢機卿アルフォンソ・ペトルッチ(1492年~1517年)、他の枢機卿4名を誘ってレオ10世毒殺の陰謀を練っていたが発覚。
レオ10世から一切を許すとの言質を与えられて、5月19日、ヴァティカン宮殿に出頭したところを捕らえられ、1517年6月22日聖職位剥奪の上、1517年7月4日サンタンジェロ城で絞殺され、彼の秘書、協力者2名も、1517年6月27日処刑される。他の4名の枢機卿の内2名は聖職を剥奪され、2名は大金を払って特赦される。
外部リンク
GCatholic.com
The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの華』
ボルゲーゼ・ペトルッチ Borghese Petrucci

- 生没
- 1490年~1526年
- 出身
- シエナ
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- パンドルフォ・ペトルッチ
- 妻
- ヴィットーリア・ピッコローミニ
概要
ボルゲーゼ・ペトルッチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
シエナの君主 1512年~1516年
先代:パンドルフォ・ペトルッチ
年表
1512年5月21日
パンドルフォ・ペトルッチ死。——子ボルゲーゼ・ペトルッチ、シエナの君主となる(在位1512年~1516年)。
ルイ12世と神聖同盟の間で動揺していたマクシミリアン1世、ユリウス2世の説得を容れてヴェネツィアと休戦し、神聖同盟に加入。スイス連邦軍のティロル通過の承認、ルイ12世軍の精鋭をなしていたドイツ人歩兵全員の召還など反ルイ12世の方針を打ち出す。
1516年3月10日
シエナの君主ボルゲーゼ・ペトルッチのメディチ家に対する忠誠心の欠如を怒ったレオ10世は、彼を彼の従兄弟ラッファエーレ・ペトルッチを用いて追放し、ラッファエーレ・ペトルッチをシエナの君主に据える。新君主ラッファエーレ・ペトルッチはロレンツォ・デ・メディチをシエナの傭兵隊長とする。
1517年4月初旬
レオ10世より追放された(1516年3月)シエナの前君主ボルゲーゼ・ペトルッチの弟・枢機卿アルフォンソ・ペトルッチ(1492年~1517年)、他の枢機卿4名を誘ってレオ10世毒殺の陰謀を練っていたが発覚。
レオ10世から一切を許すとの言質を与えられて、5月19日、ヴァティカン宮殿に出頭したところを捕らえられ、1517年6月22日聖職位剥奪の上、1517年7月4日サンタンジェロ城で絞殺され、彼の秘書、協力者2名も、1517年6月27日処刑される。他の4名の枢機卿の内2名は聖職を剥奪され、2名は大金を払って特赦される。
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『君主論』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フランチェスカ・ペトルッチ Francesca Petrucci

- 生没
- 1???年~15??年
概要
フランチェスカ・ペトルッチは、15~16世紀頃のイタリアの女性。
年表
1512年頃
オラーツィオ・バリオーニと結婚。
参考文献
『イタリア史』
ラッファエーレ・ペトルッチ Raffaele Petrucci

概要
ラッファエーレ・ペトルッチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
別表記
ラファエロ・ペトルッチ
外部リンク
GCatholic.com
The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アントネッロ・ペトルッチ Antonello Petrucci
概要
アントネッロ・ペトルッチは、ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナの秘書。
年表
1450年
1450年代にナポリ王アルフォンソ5世・デ・アラゴンに書記長として雇用される。
14??年
ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナにより、男爵に叙される。
1486年8月13日
マルコ・コッポラの結婚式のためカステル・ヌオーヴォに招待され、大広間に兵を連れて入って来たフェッランテ・ダラゴーナにより、男爵たちの陰謀に加担したとして妻エリザベッタ・ヴァッサッロと共に逮捕され投獄され、また私財を没収される。
息子カリノーラ伯フランチェスコ・ペトルッチは結婚式に参列せず、領地のカリノーラで逮捕され、抵抗することなくナポリに連行される。
1486年8月16日
少なくとも5人の子がおり、内4人は加担していなかったことが明白だったため、この日釈放される。
別表記
アントネロ、Antonello d'Aversa
外部リンク
Google Books
Treccani
Treccani
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『フィレンツェ史』
チェーザレ・ペトルッチ Cesare Petrucci
概要
チェーザレ・ペトルッチは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1478年3月~4月
年表
1478年4月26日
パッツィ家の陰謀決起:
フランチェスコ・サルヴィアーティが、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いて、ヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手チェーザレ・ペトルッチを殺害して占拠しようとするが、逆に武装を解かれ捕らえられる。
別表記
チェーザレ・デ・ペトルッツィ
参考文献
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年11月15日