タルド・ヴァローリ Taldo Valori

- 生没
- 1???年~1344年頃
- 父
- ヴァローレ・デ・ルスティケッリ
- 母
- オスティア
- 妻
- フランチェスカ・デリ・アルビッツィ
フランチェスカ・デ・バルディ - 子
- ニッコロ・ヴァローリ
ガブリエーレ・ヴァローリ
概要
タルド・ヴァローリは、14世紀頃のイタリアの男性。
年表
別表記
Taldo di Valore Rustichelli
外部リンク
Conosci Firenze
Geneanet
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ニッコロ・ヴァローリ Niccolò Valori

- 父
- タルド・ヴァローリ
- 母
- フランチェスカ・デ・バルディ
- 妻
- カルレッタ・アディマリ
- 子
- バルトロメオ・ヴァローリ
アラマンノ・ヴァローリ
フィリッポ・ヴァローリ
フランチェスカ・ヴァローリ
概要
ニッコロ・ヴァローリは、14世紀頃のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1367年1月~2月
外部リンク
バルトロメオ・ヴァローリ Bartolomeo Valori

- 生没
- 1354年5月7日~1427年9月11日
- 父
- ニッコロ・ヴァローリ
- 母
- カルレッタ・アディマリ
- 妻
- イザベッラ・デリ・アレッサンドリ
?・マチンギ - 子
- ニッコロ・ヴァローリ
フィリッポ・ヴァローリ
アニョーラ・ヴァローリ
ジョヴァンナ・ヴァローリ
ナンナ・ヴァローリ
概要
バルトロメオ・ヴァローリは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家、外交官。
在職
正義の旗手 1421年1月~2月
年表
墓
外部リンク
Conosci Firenze
Geni.com
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Treccani
フィリッポ・ヴァローリ Filippo Valori

- 生没
- 1???年~1438年8月11日
- 父
- バルトロメオ・ヴァローリ
- 妻
- ピッキーナ・ディ・ピエロ・カッポーニ
- 子
- バルトロメオ・ヴァローリ
フランチェスコ・ヴァローリ
フィアンメッタ・ヴァローリ
アレッサンドラ・ヴァローリ
ピエラ・ヴァローリ
概要
フィリッポ・ヴァローリは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ジョヴァンナ・ヴァローリ Giovanna Valori

- 生没
- 13??年~
- 父
- バルトロメオ・ヴァローリ
- 夫
- ピエロ・グイッチャルディーニ
概要
ジョヴァンナ・ヴァローリは、14~15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1399年
ピエロ・グイッチャルディーニと結婚。
外部リンク
ナンナ・ヴァローリ Nanna Valori

- 生没
- 14??年~
- 父
- バルトロメオ・ヴァローリ
- 夫
- ジャンノッツォ・パンドルフィーニ
- 子
- パンドルフォ・パンドルフィーニ
ピエルフィリッポ・パンドルフィーニ
プリオーレ・パンドルフィーニ
ニッコロ・パンドルフィーニ
ヤコポ・パンドルフィーニ
バッティスタ・パンドルフィーニ
マッダレーナ・パンドルフィーニ
マリエッタ・パンドルフィーニ
ドーラ・パンドルフィーニ
概要
ナンナ・ヴァローリは、15世紀頃のイタリアの女性。ナンナはジョヴァンナの愛称で、同名の姉がいるため、おそらくすでに嫁いでいた姉の死後に生まれて同じ名前を付けられたのだろう。タルド・ヴァローリの孫とされていることもあるが、バルトロメオという名の息子は見当たらず、バルトロメオ・ヴァローリの娘にジャンノッツォ・パンドルフィーニに嫁いだ娘がいる記述があったので、そちらを採用した。
年表
1420年
ジャンノッツォ・パンドルフィーニと結婚。
別表記
Giovanna di Bartolomeo di Taldo Valori
外部リンク
バルトロメオ・ヴァローリ Bartolomeo Valori

- 生没
- 1426年8月31日~1477年1月14日
- 父
- フィリッポ・ヴァローリ
- 母
- ピッキーナ・ディ・ピエロ・カッポーニ
- 妻
- カテリーナ・デ・パッツィ
- 子
- フィリッポ・ヴァローリ
ニッコロ・ヴァローリ
エリザベッタ・ヴァローリ
ジネヴラ・ヴァローリ
ルクレツィア・ヴァローリ
ピッキーナ・ヴァローリ
カッサンドラ・ヴァローリ
マリーア・ヴァローリ
フィアンメッタ・ヴァローリ
トンマーゾ・ヴァローリ
概要
バルトロメオ・ヴァローリは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1453年
カテリーナ・デ・パッツィと結婚(1452年)。
外部リンク
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フランチェスコ・ヴァローリ Francesco Valori

- 生没
- 1439年~1498年4月8日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- フィリッポ・ヴァローリ
- 母
- ピッキーナ・ディ・ピエロ・カッポーニ
- 妻
- コスタンツァ・カニジャーニ
- 子
- マリエッタ・ヴァローリ
カテリーナ・ヴァローリ
ロレータ・ヴァローリ
ディアノーラ・ヴァローリ
概要
フランチェスコ・ヴァローリは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1489年1月~2月、1493年9月~10月、1497年1月~2月
年表
1497年1~2月
正義の旗手にジローラモ・サヴォナローラ派(フラテスキ)の最有力者フランチェスコ・ヴァローリが選出される。
1497年2月9日
フランシスコ会の修道士ら、前日から始まったジローラモ・サヴォナローラの説教を激しく非難する説教を始めるが、正義の旗手フランチェスコ・ヴァローリに強制的に中止させられる。
1497年3~4月
フランチェスコ・ヴァローリに代わり、メディチ派(=Bigi)で反ジローラモ・サヴォナローラ感情の極めて強いベルナルド・デル・ネロ(1426年~1497年)が正義の旗手に選出される。
1497年8月21日
フラテスキの指導者フランチェスコ・ヴァローリの強硬発言によって提訴権否認、処刑にまとまり、答申。夜、首謀者5名処刑される。
この過程でフランチェスコ・ヴァローリは実質上フィレンツェの支配者だと見なされ、ジローラモ・サヴォナローラはかねて自ら訴えていた全市民の融和、団結とそのための1495年3月19日の方を自ら否定したと非難され、彼に対する一般の崇敬と信頼、大きく揺らぐ。
1498年4月8日
夕刻、ジローラモ・サヴォナローラに信従する修道士が説教すべく信徒たちに守られて大聖堂に近づくや、アッラビアーティなど反ジローラモ・サヴォナローラ派の者たち、ジローラモ・サヴォナローラ派追放を叫んで騒動を起こし、続いて民衆を扇動して武器を手にサン・マルコを包囲、襲撃。
シニョーリアは、ジローラモ・サヴォナローラに対して12時間以内にフィレンツェ領内から退去せよとの布告を出す。続いてサン・マルコの内部にいるジローラモ・サヴォナローラ派を退出させるべく、俗人は教会から退出しなければ全て反逆者と見なすとの布告を出す。
これらの布告により包囲側の気勢上がり、サン・マルコの襲撃はさらに激しくなる。
フランチェスコ・ヴァローリ、手兵を集めるべくサン・マルコを出て私宅に向かうが騒動のため進めず、ヴェッキオ宮殿に向かう。しかし庁宮内に引きずり込まれ、前年8月の彼の強硬発言にも影響されてコンシーリオ・マッジョーレへの提訴権を奪われたまま処刑されたメディチ派(=Bigi)の陰謀の指導者の遺族ヴィンチェンツォ・リドルフィとシモーネ・トルナブオーニ(1472年~1543年)に殺害される。この頃すでに彼の自宅も襲撃され、妻コスタンツァ・カニジャーニも殺害される。
サン・マルコは、ほとんど群衆に占拠される。
ジローラモ・サヴォナローラは、Domenico da Pesciaと共に死を決意して外に出、捕縛されてヴェッキオ宮殿の塔内の獄に入れられる。Domenico da Pescia及び先に捕らえられた修道士シルヴェストロも投獄される。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フィリッポ・ヴァローリ Filippo Valori

- 生没
- 1456年~1494年11月25日
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- バルトロメオ・ヴァローリ
- 母
- カテリーナ・デ・パッツィ
- 妻
- アレッサンドラ・サルヴィアーティ
- 子
- バッチオ・ヴァローリ
カテリーナ・ヴァローリ
概要
フィリッポ・ヴァローリは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1492年8月11日(土)
ローマにて、フィレンツェ共和国特別諮問八人会議宛てに手紙を書く。
この書簡にてご報告申し上げます。我が主なる神と聖霊の恩寵により、本日10刻、枢機卿副尚書院長閣下が正規の手続きに従って教皇に選出、公布され、アレクサンデル6世と称されました。貴殿方にもこのような偉大な昇進に相応しい喜びと祝意をもって受けとめていただきたく、この知らせを飛脚に託して迅速にお届けいたします。詳細につきましては、別途改めてご報告申し上げる所存です。
1492年8月12日
今朝の飛脚便で、貴殿方はすでにご承知のとおり、枢機卿副尚書院長が新たな教皇として発表されました。名をアレクサンデル6世と称します。この人物は、長引く争いの末に、全員一致で選出され、ただの一票も欠けることはありませんでした。この選挙で取られた手法については、近日中に当地を出発するニッコロ・ミケロッツィ殿からお聞きになるでしょう。しかるべき配慮から書面では述べない方が良いのです。また、多くの詳細は、手紙よりも口頭の方が適切にお伝えできるものです。
昨日の朝、教皇が発表された後、例の習わしにより、サン・ピエトロ大聖堂に赴かれ、大祭壇の上に着座されました。枢機卿たちは全員、彼を崇敬し、真の教皇として服従の意を表しました。ほとんど全ての高位聖職者、廷臣たち、ローマ市民たちも同様に敬意を表しました。その後、教皇は宮殿に戻られ、一日中そこに滞在されました。私も他人から不審に思われないよう、挨拶に赴き、彼の昇進を喜ぶ姿勢を見せながら、こう申し上げました――教皇聖下が枢機卿であられた頃から、我が共和国に常にご厚意をお持ちであったと存じておりますゆえ、今や同じ精神をお持ちであろうと確信しております。すると、教皇は、かねてより我が都市を非常に重要に思い、大いに尊重してきたこと、そして、あらゆる観点からして、歴代の教皇全てがそのように尊ぶべきものであるとお答えになりました。そして、貴殿方には、我が共和国にとって、良き父となり、あらゆる点において善き教皇としての務めを果たすであろうことを確信してほしいとも仰いました。私はその善意に感謝を述べ、貴殿方にこの誠意を伝えることをお約束いたしました。
この昇進は、全ての人の予想を完全に裏切る形で起こりました。そして、この人物に教皇位を巧妙に導いたのは、ただ1人アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ猊下です。猊下を動かした動機については、私にもまだ分かりません。猊下は、副尚書院長の職務と、住居及び全ての家具を受け取りました。また、ネピ城と、ハンガリーのエゲル教区を得ました。これは年間1万ドゥカートの収入があります。他にも多くの物を手にしました。ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿には、ソリアーナの要塞とモンティチェッリ、マルケの教皇特使職、そしてスペインのカルタヘナ教区が与えられました。これは年間5千ドゥカートの収入です。ジョヴァンニ・コロンナ枢機卿には、スビアーコ修道院と20の村が与えられました。これは年間3千ドゥカート、あるいはそれ以上の収入があり、この修道院と土地は、教皇によってコロンナ家に永久に委ねられました。それに続いて、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ猊下は、前述のジョヴァンニ・コロンナ枢機卿にパヴィアの司教職を譲渡しました。
ジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリ枢機卿にはチヴィタ・カステッラーナ及びその他幾つかの財産が与えられました。ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿には、スペインで年額4千ドゥカート相当の聖職禄が与えられた。また、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿が住んでいた邸宅は、ジローラモ・リアリオ伯の息子たちの居住用に提供されました。フェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿は、ミラノの枢機卿が所有していた邸宅及びその他幾つかの財産を受け取りました。そして、教皇は彼の意向に応じて、ガスパーレ・サンセヴェリーノ殿に対して年1万5千ドゥカートの給金で仕官させる意志を示しました。これら全ての恩賞は元々副尚書院長の所有物でしたが、それ以外にも教皇は多くの聖職禄や地位を、自らの身内の者たちから枢機卿たちの身内へと分け与えました。枢機卿たち自身の希望に従った形です。なお、これらの恩賞を何1つ受け取らず、また望まなかった枢機卿たちも多数いました。
大変尊敬すべきアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ猊下は、教皇の側にあるベネヴェントの居室に戻って住まうようになりました。このこと、そして他の多くの示唆からしても、猊下が教皇との間で、他のいかなる枢機卿よりも大きな権威と地位を有していると考えるに足るでしょう。というのも、教皇聖下ご自身が、誰に対しても、今回この教皇位に就いたのはただ一重にアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ猊下の尽力によるものであると明言しているからです。
このローマの人々や廷臣たちにとっては、この昇進に対してあまり大きな喜びは示されませんでした。このことについては、様々な憶測が飛び交っておりますが、貴殿方ご自身もお察しのことと存じます。私は全ての人々に対してこの昇進を称賛し、大いに満足しているように振舞っております。さて、インノケンティウス8世の死後、状況が変化したことを受け、私がどのように振る舞い、どのような立場をとるべきか、教皇に対しても、またその周囲の者たちに対しても、どのような方針で臨むべきかについて、どうかご指示いただきたく存じます。貴殿方のお考えをよく理解し次第、私としても自らの立場を損なうことなく、迅速に行動に移る所存です。
教皇は、城主にアグリジェント司教を任命する意向を示しました。彼はスペイン人で、教皇の身内の者です。また書記官にはカパッチョ司教を任命する予定です。彼もまた教皇の身内の者です。ローマ市は武装を解除しましたが、それにも拘らず戴冠式までは、ここにいる兵士や歩兵たちは駐留し続け、その後それぞれの駐屯地へと戻ることになるでしょう。
サンタナスタージア枢機卿アントニオット・パッラヴィチーニには署名権が与えられ、引き続き以前と同様に宮殿に留まっています。今のところ、貴殿方に申し上げることはこれ以上ありませんので、これにてご報告を終えます。
1492年8月14日(火)
私は12日に貴殿方に書状を送り、教皇位に昇ったのは、専らアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ猊下の尽力によるものであること、そして彼が自らの恩恵や財産をいかなる形で分配したかという詳細についてお伝えいたしました。それ以降、貴殿方からのお便りはいただいておりません。
昨日、枢機卿会議が開かれ、全てのキリスト教国の君主に対し、新教皇が選出されたことを書き送るよう決議されました。また、教皇の戴冠式を今月26日に、従来通り非常に荘厳に行うよう命じられました。現在のところ、教皇聖下は他のことには手をつけず、国家と教皇領の統治に取り組んでおられます。サンタンジェロ城の城代は正式にその地位を掌握し、その他のことも全て、彼らの命令に従って良好な秩序と服従の下に整えられつつあります。
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿は、以前お伝えしたとおり、宮殿に居を構えており、国家のあらゆる威信と政務の手綱は彼に向けられています。教皇が彼に対してこれ以上の好意を示したり、より大きな権限を与えることはできないほどです。そして多くの人々の見解では、教皇は非常に聡明で、独自に政務を執るだけの経験もあるため、猊下の影響力が長く続くことはないだろう、とのことです。別の者たちは、もしアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿が自らの地位を確保し、今後もそれを維持できるという確信がなかったならば、この選出に同意しなかったであろう、と判断しています。そして私は、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿が非常に聡明な人物であることを知っているので、この意見に同意しています。猊下がこの昇進人事を行うに至った動機について、今のところ推測できるのは財物への欲望によるとしか言えません。というのも、副尚書院長の財産からは、少なくとも10万ドゥカートの価値のあるものが猊下の手に渡るからです。この副尚書院長を昇進させたいという彼の願望は、常に秘められており、コンクラーヴェで初めて明らかになっただけでした。そして、多くの枢機卿たちがアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿によって侮辱されたと感じているため、この宮廷では彼に対するある種の憎しみが消えません。また、多くの方々の前で、猊下は大いに信用と信頼を失っています。貴殿方が教皇と関わるあらゆる事柄において扱おうとすることは、必ずアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿の耳に入ることになりますことを、ご承知おきください。これは皆様にご理解いただくためであり、熟慮の上で、適切と判断されるすべての配慮を払っていただけるようにという意味でございます。
新しい教皇に対するご評価は様々でございます。多くの方々は、教皇がこの聖座を非常に大きな威厳と華やかさをもってお治めになるであろうとお考えでございます。というのも、教皇様は名声と栄光を強くお望みであるからでございます。そして、そのご意向を実現されるためには、全ての人々にとっての父としてお振る舞いになり、平穏を維持なさる必要がございます。多くの人々はこれとは反対のご意見をお持ちでございます。すなわち、全てをうまく支配するためには、教皇はシクストゥス4世のように大いにご苦労なさることになるであろう、というものでございます。私は貴殿方に対して教皇の性格について多くを申し上げません。なぜならそれはすでによく知られておりますし、この教皇庁使節団に加わった者からお聞きになれば、私から申し上げるよりも遥かに正確にお分かりになることでございましょう。このことについては、貴殿方に申し上げずにおくつもりはございません。このような事柄においては時勢を見極めながら行動することで、私の理解するかぎり、陥りかねないあらゆる過ちを避けることができるであろうと存じます。私は聖下と3度お話ししましたが、我らの商人たちのことを推薦することの他は、専ら一般的な事柄について触れるに止め、都市の大きな喜びや、それを祝して行われた祝い事についての喜ばしい様子を示すのみでございました。そして、貴殿方からご指示をいただかない限り、それ以上のことには関わらない所存でございます。
ピティリアーノ伯爵ニッコロ2世・オルシーニは昨晩、インノケンティウス8世のもとで有していたのと同じ俸給及び条件で、さらに2年間任命が更新されました。またガスパーレ・サンセヴェリーノ殿については、百人の武装兵と弩兵、そして5千ドゥカートの給金という条件で、非公式ながら、雇用契約が成立したと見なせる約束をなされました。
1492年8月16日(木)
昨夜、貴殿方の14日付のお手紙を受け取りました。そして、私が12日に書きました手紙に対するご返事の内容を拝読いたしました。本日朝、私は徒歩で教皇聖下のもとへ参上いたしました。そこで、適切な機会と見て、貴殿方の書簡を読み上げました。その後、同じ趣旨に沿って、私どもの都市と民衆が聖下のご即位に対して抱いている喜びと満足を表すために、さらに多くの言葉を添えました。そして、思いつく限り最も効果的な言葉を用いて、我が都市と我が民衆を聖下にお取り計らいいただくようお願い申し上げました。教皇聖下は、貴殿方の書簡及び私がその後に申し上げたことを、少なからぬ喜びをもってお聞きになりました。そして、貴殿方に対してその喜びと満足の意を表し、さらにこうお伝えになりました。すなわち、今回の教皇在位中に生じるあらゆる事柄において、貴殿方に対して良き父であることを示す所存である、と。なぜなら、それは教皇としての職務に適うことであるばかりか、これまで小さな事柄においてさえ、貴殿方の共和国を特別な愛情をもって尊重し、愛してきたからである、とのことでした。そしてこのことに加え、貴殿方の共和国が常にこの聖座及び歴代の教皇に対して極めて敬虔であり、深い愛情を抱いてきたことをよく知っていたため、貴殿方に対しては、極めて慈愛に満ちた父のように接するであろうと断言なさいました。そしてさらに私に対しては、主なる神のご恩寵によってこの至高の地位に昇ることを許された以上、その職務を果たすにあたっては、平穏を保ち、全ての人々に分け隔てなく共通の父として振る舞うよう最善を尽くすつもりであると述べられました。私は教皇聖下に対し、貴殿方に向けて示してくださった父のようなご厚情に深く感謝の意を表し、平穏を維持し、万人に共通の父となろうとされる聖なる善きご意志を称賛申し上げました。そして最後に、これらのことを貴殿方にご報告することをお約束し、それを貴殿方はきっと大いなる喜びと満足をもってお受け取りになるであろうと確信している旨を申し上げました。この説明の場には、かねてよりご報告申し上げているとおり、教皇聖下のもとでこれ以上ないほどの権威を有している、あの高名なるアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ猊下が同席しておられました。
昨夜、ステファノ・タヴェルナ殿から伺ったところによれば、ガスパーレ・サンセヴェリーノ殿との契約が正式に締結されました。その内容は、1百名の重装兵と30名の弩兵を率い、年俸1万3千ドゥカートを受け取るというものです。そして間もなく、その部隊を編成するための資金を受け取ることになるでしょう。・・・・
1492年8月18日(土)
朝、ジョアン・デ・ボルジャと会話。
・・・・すでに別の書簡にてお知らせしましたとおり、教皇はジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリ枢機卿にチヴィタ・カステッラーナを、またジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿にはモンティチェッリを、それぞれ他の幾つかの事物と共に与えておりました。しかし、その後、教皇はこの判断を翻し、両枢機卿をこれらの地から除外しました。教皇は、かかる重要な教会の土地2つを手放すことは、あまりにも大きな批判を招くことであろうと申しております。そして、両枢機卿には別の方法で報いることを約束いたしました。教皇がジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリ枢機卿に約束していたペルージアの教皇特使職については、枢機卿がペルージアの貴族たちに疑念を抱かれているため、教皇はそれを彼に与えたくないと考えております。教皇は、ペルージアの統治機関にとって満足のいく人物をその地に派遣する意向であり、ティアーノの司教を任命することを検討しています。
何人かの枢機卿の意見では、教皇が戴冠式の朝、自らの帽子を与えて、モンレアーレ大司教である教皇の甥ジョアン・デ・ボルジャを枢機卿に任命するだろうということです。そして、私が今朝その大司教と話したところ、教皇はその件について否定的な態度を示しませんでした。・・・・
1492年8月27日
・・・・戴冠式を行うために、式典はこのように進行しました。まず、サン・ピエトロ大聖堂から武装兵たちが全ての指揮官たちと共に出発し、馬に武具を纏わせ、非常に整然とした状態で、13隊の部隊に分かれて行進しました。その後には、教皇の廷臣や身内の者たち、属領の諸共同体からの大勢の大使たち、司教や枢機卿たちが続きました。彼らは皆、式典での習わしに従い、毛皮の外套を纏い、ボッカッチーノ製の覆いをかけた馬に乗って行進しました。教皇の前には、聖体がランタンと共に掲げられ、ピティリアーノ伯ニッコロ2世・オルシーニが武装して先導していました。そして教皇ご自身は、アキネア(儀式用の馬)に乗り、プラネタ(典礼用の外套)を身に纏い、王冠を頭に戴き、天蓋の下におられました。その後ろには、近衛隊長、武装した者たち、そして多くの公証官たちが続いていました。そしてこの順序に従って、教皇はサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂へと導かれ、そこで同様の儀式において求められる全ての厳粛さと典礼に則って戴冠されました。その際には、しばしば起こりがちな混乱や騒動は一切なく、滞りなく執り行われました。ご列席の貴殿方に申し上げることを怠りたくありませんが、街路や城壁は非常に豪華に装飾され、また我らの国民の銀行ではもちろんのこと、多くの場所においても教皇を讃えるために凱旋門やその他の装飾が設けられておりました。そして、このようなことが通常を超えたものであったことに加え、枢機卿たちが様々な色の制服を着たかなりの数の従者たちを従えて盛装したことなど、数々の出来事や華やかさによって、これまでに見られた中で最も壮麗で華美な式典であったという点で、古くからの廷臣たちの間でも意見が一致しております。そして昨夜、夜の2刻に教皇は無事にサン・ピエトロ大聖堂に戻られましたが、その際にも、松明の灯り、歓声、花火、音楽の喧騒において、少しも劣らぬ華やかさがありました。この祝典については、より詳しく書き記すこともできましたが、要点としては前述のとおりでございます。
1493年1月16日
手紙を書く。
1493年1月20日
手紙を書く。
1493年1月22日
手紙を書く。
1493年1月26日
手紙を書く。
1493年1月29日
手紙を書く。
1493年2月4日
手紙を書く。
外部リンク
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参考文献
『メディチ家の人びと』
『ヨハン・ブルカルトの日記』
『ルネサンス精神の深層』
『The Life of Cesare Borgia』
ニッコロ・ヴァローリ Niccolò Valori

- 生没
- 1464年1月20日~1527年5月20日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- 教皇領ローマ
- 父
- バルトロメオ・ヴァローリ
- 母
- カテリーナ・デ・パッツィ
- 妻
- ジネヴラ・ランフレディーニ
- 子
- フランチェスコ・ヴァローリ
フィリッポ・ヴァローリ
ジャンバッティスタ・ヴァローリ
カテリーナ・ヴァローリ
ルクレツィア・ヴァローリ
概要
ニッコロ・ヴァローリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
職歴
第二書記局員
年表
1504年1月初旬
フィレンツェにより、対スペイン戦争に関するルイ12世の意図と準備態勢を知るため、ルイ12世のもとに派遣される。
1512年9月3日
フィレンツェにより、ラモン・デ・カルドナのもとへBaldassarre Carducci、Ormannozzo Deti、Niccolò del Nero、コジモ・デ・パッツィ、ヤコポ・サルヴィアーティ、パオロ・ヴェットーリと共に派遣される。メディチ家とその郎党の私人としての市内復帰、神聖同盟への加入、フェルナンド2世・デ・アラゴン及びラモン・デ・カルドナへの献金、ラモン・デ・カルドナの占領したフィレンツェ領の返還と彼の軍の撤退について合意すると共に、フェルナンド2世・デ・アラゴンとの相互防衛協定を結んで彼の傭兵200名分の賃金の支払いを引き受ける。
1513年2月18日
反メディチ陰謀発覚:参画していたとの嫌疑を受け、逮捕、拘留される。
1513年
ヴォルテッラの城塞に投獄される。
1513年
教皇レオ10世の赦免により釈放される。
15??年
ロレンツォ・イル・マニーフィコの伝記を著す。
1527年5月20日
ローマにて、死(1526年、1528年、1530年)。
外部リンク
Academia.ed
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Treccani
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ディアノーラ・ヴァローリ Dianora Valori

- 生没
- 14??年~1526年6月28日
- 父
- フランチェスコ・ヴァローリ
- 母
- コスタンツァ・カニジャーニ
- 夫
- ニッコロ・デリ・アレッサンドリ
- 子
- ジローラモ・デリ・アレッサンドリ
フランチェスコ・デリ・アレッサンドリ
ピエラ・デリ・アレッサンドリ
ピエロ・デリ・アレッサンドリ
概要
ディアノーラ・ヴァローリは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1492年4月26日
ジローラモ・デリ・アレッサンドリを出産。
1502年9月20日
フランチェスコ・デリ・アレッサンドリを出産。
バッチオ・ヴァローリ Baccio Valori

- 生没
- 1477年12月5日~1537年8月20日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- フィリッポ・ヴァローリ
- 母
- アレッサンドラ・サルヴィアーティ
- 妻
- ディアノーラ・ソデリーニ
- 子
- パオラントーニオ・ヴァローリ
フィリッポ・ヴァローリ
概要
バッチオ・ヴァローリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1512年8月31日
パオロ・ヴェットーリ、アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィらメディチ派の有力者と共に、少数の兵を率いて政庁宮に入り、ピエロ・ソデリーニを脅迫して辞任を強制。夜ピエロ・ソデリーニは、シエナへ逃亡。後ラグーサへ逃れる。
1530年8月11日
朝、フィレンツェの4使節は、和平(降伏)協定案を持って市内に帰る。彼らに同道したカール5世軍陣営における委員バッチオ・ヴァローリとフィレンツェのシニョーリアとの交渉は、夜妥結。コンシーリオ・デリ・オッタンタもこれを承認。
1530年8月~10月31日
メディチ派が制した新体制の中で、クレメンス7世の全権代理バッチオ・ヴァローリが事実上、支配権を握り、彼をロベルト・アッチャイウオリ、フランチェスコ・ヴェットーリ、フランチェスコ・グイッチャルディーニらが補佐。以後、彼らによりフィレンツェ市民軍九人委員会の廃止、全市民の武装解除、共和政下最後の正義の旗手、ラッファエーレ・ジローラミ、その前の正義の旗手で熱烈な共和政派のフランチェスコ・カルドゥッチら48名の共和政派の逮捕、拷問、内フランチェスコ・カルドゥッチ(1465年~)ら6名の処刑などが次々に断行される。共和政の指導者及びその下での反メディチ行為については不問とするとの和平(降伏)協定は早くも踏みにじられる。
1531年1月29日
メディチ派内部に対してさえ非寛容な専断をなし過ぎたため解任された(1530年末)バッチオ・ヴァローリに代わってクレメンス7世によりその全権代理に任命されたカプア大司教Nikolaus von Schönberg着任。
1532年4月4日
バーリア、クレメンス7世の命に従い、12名(フランチェスコ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・ヴェットーリ、ロベルト・アッチャイウオリ、マッテオ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリ、Matteo Niccolini、Robert Pucci、パッラ・ルチェッライ、ヤコポ・ジャンフィリアッツィ(1470年~1549年)、Agostino Dini、ジャンフランチェスコ・リドルフィ、Giuliano Capponi)のRiformatori(改革者)を選出し、政体変改の権限を与える。この12名と現正義の旗手Gianfrancesco de' Nobili、新政体について協議を開始。
1537年7月下旬
軍の編成に励んでいたフィリッポ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリら亡命者たち、ミランドラで決起。数千の兵をフィリッポ・ストロッツィの子ピエロ・ストロッツィ(1510年頃~1558年)及びベルナルド・サルヴィアーティ(1492年~1568年)に指揮させてアペニンを越え、ピストイアとプラートの中間地モンテムルロに集結。
1537年8月1日
午前2時フィレンツェを発ち未明にプラートに到着したアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮のスペイン軍、直ちにモンテムルロに向かい、亡命者たちの軍を急襲して壊滅させ、フィリッポ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリ両父子、アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィ、Ludovico Rucellaiら指揮者をことごとく捕虜とする。
正午、亡命者たちの軍壊滅の報、市内に届く。
夜、捕虜、市内に連行され、コジモ1世・デ・メディチの前に引き出される。
1537年8月20日
アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィ(1486年~)及びバッチオ・ヴァローリ(?~)父子らが処刑される。
別表記
バッチョ、バルトロメオ、バルトロメ-オ・ディ・フィリッポ・ヴァローリ、Bartolomeo
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2025年7月18日