Ambasciatore

外交官

バルトロメオ・ボナット Bartolomeo Bonatto

生没
14??年~1477年4月27日
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
マッテオ・ボナット

概要

 バルトロメオ・ボナットは、15世紀のイタリアの男性、マントヴァの外交官。

年表

14??年

マントヴァにて、生。

1460年7月

シエナにて、マントヴァ諸侯爵宛てに手紙を書く。

 今日ここで洗礼が執り行われたこと以外には、猊下に報告いたすべきことは何もありません。・・・・この町のさる貴族邸で、ロアン閣下(ギヨーム・デストゥトヴィル?)と教皇庁副尚書院長ロドリゴ・ボルジアが代父を勤められたのです。代父の庭園に招かれ、一同はそこへ赴き、名づけ子の娘も一緒に伴いました。大地の生み出すよきもの全てがそこにあり、見事な祝典でした。しかし、聖職者でない者は誰一人そこへ入ることはできませんでした。・・・・そこに入れなかったシエナの男は、各地で経験を積んだ、おどけた人物でしたが、次のように申しました。全く、1年後に生まれる子供たちが、その父親たちのような身なりでこの世に現れるのだったら、全部が僧侶になり、枢機卿になるだろうに。

1477年4月27日

マントヴァにて、死。

サンタンドレア聖堂に埋葬される。

外部リンク

 Treccani.it

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ボンフランチェスコ・アルロッティ Bonfrancesco Arlotti

生没
1422年~1508年1月7日
出身
レッジョ・エミリア

概要

 ボンフランチェスコ・アルロッティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、学者、ローマ駐在フェッラーラ大使。

年表

1422年

レッジョ・エミリアにて、生。

14??年

ボローニャで哲学、神学、法学を学び、芸術と医学の博士号を取得。

1450年~1470年

フェッラーラ大学で哲学を教える。

1473年~1490年

エルコーレ1世・デステにより、ローマに大使として派遣される。

1488年4月30日

ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。教皇インノケンティウス8世カテリーナ・スフォルツァと彼女の子どもたちを「彼女ら自身のために」チェゼーナに送ることを提案。ミラノ大使たちはこれに対し、カテリーナ・スフォルツァが籠城しており退去するならイーモラであること、教皇が反乱や暗殺を支援すれば他の街もこの例に倣う可能性があることを主張し反論。ミラノ軍がすでに送られていることを知った教皇は、ミラノとの対立を避け派兵せず。

埋葬地

 レッジョ・エミリア大聖堂

外部リンク

 Treccani

ドメニコ・ボンシ Domenico Bonsi

生没
1430年~1501年6月16日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
バルダッサーレ・ボンシ
バルトロメア・ナージ
ルクレツィア・スピネッリ
ロベルト・ボンシ
アレッサンドラ・ボンシ

概要

 ドメニコ・ボンシは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1468年

バルトロメア・ナージと結婚(1464年)。

1497年

ルクレツィア・スピネッリと結婚。

1498年2月10/11日

1498年初め教皇庁に派遣した特使ドメニコ・ボンシから、この日頃、アレクサンデル6世との会見の2月8日付報告書簡が届く。この中でドメニコ・ボンシ、アレクサンデル6世はフィレンツェが「良きイタリア人」として反フランス神聖同盟に加盟すればジローラモ・サヴォナローラ破門の撤回を含む一切のことをフィレンツェの望み通りに処置するだろうと報告。

1498年3月3日

フィレンツェ自由と平和の十人委員会は、シニョーリアにも勝って、2月26日付の小勅書への明確な拒絶の意をアレクサンデル6世に伝える書簡を特使ドメニコ・ボンシに送る。

1498年3月7日

アレクサンデル6世、2月26日付の小勅書の指令拒否の回答を伝えたフィレンツェの特使ドメニコ・ボンシに怒りをあらわにし、ジローラモ・サヴォナローラの説教を全面的に禁止しなければフィレンツェでの聖務を禁止すると繰り返す。ジローラモ・サヴォナローラ自身の書簡にはさらに激しい怒りを爆発させる。

1498年3月18日

シニョーリア、この答申に沿った回答をアレクサンデル6世に口頭で伝えるよう特使ドメニコ・ボンシに指令。

1498年4月9日

シニョーリアプラティカを召集しジローラモ・サヴォナローラ及びジローラモ・サヴォナローラ派が委員の多数を占める機関、自由と平和の十人委員会及び治安八人委員会の取り扱いについて諮問。

プラティカ、満場一致で、諸機関からのジローラモ・サヴォナローラ派の追放とそれによって空席になった委員の新たな選出、及びジローラモ・サヴォナローラ自身の厳密な取調べを答申。

以後、瞬く間に各機関が反ジローラモ・サヴォナローラ派の委員で締められ、サヴォナローラ共和政、終焉(1494年~1498年)。

シニョーリアは、アレクサンデル6世ジローラモ・サヴォナローラの逮捕を報せるよう、特使ドメニコ・ボンシに書簡を送る。

外部リンク

 Google Books
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Istoria genealogica delle famiglie nobili Toscane et Umbre, Vol. I

フランチェスコ・トランケディーニ Francesco Tranchedini

生没
1439年頃~1504年
ニコデモ・トランケディーニ
アッレグレッツァ・モナルディ
カテリーナ・サルヴァーティコ

概要

 フランチェスコ・トランケディーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、外交官、詩人。

年表

1471年

カテリーナ・サルヴァーティコと結婚。

1490年

ミラノ外交官としてボローニャに赴任。

1495年9月4日

ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙を書く。カテリーナ・スフォルツァは「司祭に対し極度な残酷さを用い、それが最も忌まわしいことと思われたが、ゲッティ兄弟の妻たち、3か月と9か月の幼い息子、乳母さえも殺しました。全ロマーニャが天に向かって泣いております。」「ヤコポ・フェオを暗殺した2人の共犯者として、伯爵夫人は捕らえた者を誰でも残酷に処罰しました。」

1496年3月17日

ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙を書く。カテリーナ・スフォルツァの告発に対するジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの反応。したがって、彼女は彼をヤコポ・フェオ暗殺の計画者又は共犯者として疑っていることが判明。

1496年7月26日

ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙を書く。カテリーナ・スフォルツァジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの敵マルヴェッツィ家に避難先を与えると脅す。

外部リンク

 Google Books - Caterina Sforza Volume III
 Google Books - The Tigress of Forlì
 Treccani

アントーニオ・マレゴンネッレ Antonio Malegonnelle

生没
1451年~1506年

概要

 アントーニオ・マレゴンネッレは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の外交官。

年表

1501年10月

この頃、フィレンツェ共和国は、マクシミリアン1世と協定を結んでミラノに帰ったジョルジュ・ダンボワーズのもとにアントーニオ・マレゴンネッレとベネデット・デ・ネルリを派遣し、フィレンツェの防衛、保護を要請するが、何らの言質も与えられずに終わる。

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

フランチェスコ・グァルテロッティ Francesco Gualterotti

生没
1456年~1509年

概要

 フランチェスコ・グァルテロッティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の外交官。

年表

1499年10月12日

アラマンノ・サルヴィアーティ、フランチェスコ・グァルテロッティ、ロレンツォ・レンツィの3名は、使節としてミラノルイ12世と折衝し、フィレンツェが彼にそのナポリ攻略のための資金と軍隊を提供する代償に彼はフィレンツェにそのピサ攻略を支援することを約定。

1502年7月

ピエロ・ソデリーニ、フランチェスコ・グァルテロッティ、ルイジ・デッラ・ストゥファの3名、使節としてアスティでルイ12世と会見し、そのフィレンツェ支持の意図を再確認。

1506年10月末

ナポリフェルナンド2世・デ・アラゴンのもとに、ピサ制圧の支持を取り付けるため使節フランチェスコ・グァルテロッティ、ヤコポ・サルヴィアーティを派遣。

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ベネデット・カピルーピ Benedetto Capilupi

生没
1461年~1518年
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
ジャンフランチェスコ・カピルーピ
アントーニア・フォレンゴ
タッデア・デ・グロッティ
ジャンフランチェスコ・カピルーピ
レ-リオ・カピルーピ
アルフォンソ・カピルーピ
フェデリーコ・カピルーピ
カミッロ・カピルーピ
フラヴィア・カピルーピ
ジローラモ・カピルーピ
イッポーリト・カピルーピ
アスカーニオ・カピルーピ

概要

 ベネデット・カピルーピは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、マントヴァ侯国の外交官。

年表

1494年7月23日

イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。

 ルイ2世・ドルレアン公がここにおいでになれば喪明けして踊らねばならず、接吻を受けることになるとベアトリーチェ・デステ公妃は仰っています。公はフランス式に全女官と宮廷の婦人全員に接吻なさるでしょうとのことです。道化師のバローネによれば、ポリッセーナ・デステ様に接吻したところで飽きてお止めになるだろう、と。いずれ海豚伯(王位継承者)や他王族がお越しになる時には、殿下もおいでになって接吻を受けてくださいと公妃は仰っています。

外部リンク

 Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』

アントーニオ・ジュスティニアーニ Antonio Giustiniani

生没
1466年頃~1524年9月25日
ポーロ・ジュスティニアーニ
エリザベッタ・ダ・ムーラ
フランチェスコ・ジュスティニアーニ
マルコ・ジュスティニアーニ
フェッランディーナ・ジュスティニアーニ

概要

 アントーニオ・ジュスティニアーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、教皇庁駐在ヴェネツィア共和国大使。

年表

1502年~1505年

教皇庁駐在ヴェネツィア共和国大使。

1502年6月10日

ヴェネツィア共和国政府宛てに手紙を書く。「20刻頃、ピサのコムーニタからの書簡を携えた使者がチェーザレ・ボルジアのもとに到着。これは、ピサが彼の旗を掲げ、彼を主君と呼んでいることを意味する。」

1502年8月1日

ローマにて、手紙を書く。

 教皇と公爵は、フランス王に対し、ヴァレンティーノ公自身を含む5百騎の騎兵と2千名の歩兵を提供し、さらに自領を通る通行権と食糧の供給を約束した。このことはフィレンツェ人やベンティヴォーリオ家を悩ませた。というのも、王が新たな同盟関係に入ることで、彼らに対する保護を撤回するのではないかという懸念があったからである。さらに、土地の返還について話し合われたものの、実行には至っていなかった。

1502年8月8日

ローマにて、手紙を書く。

 「今朝、サン・ピエトロ教会で最敬虔なるモデナの葬儀が行われている間に、最敬虔なる枢機卿たちの間で一つの噂が流れたが、それがどこから出たのかは不明である。というのも、ヴァレンティーノ公が変装して、4頭の馬だけで、すなわち彼自身とフランソワ・トローシェ、ミケーレ・デ・レモリンス、そしてもう1人が、最敬虔なる王に会うためにミラノへ向かったというのだ。」
ヴァレンティーノ公の軍勢は、ペルージャの近くに陣を敷き、もしペルージャの人々が公爵の名のもとに彼らを自発的に迎え入れなければ、圧力をかけるつもりだと言われている。

1502年8月9日

ローマにて、手紙を書く。

 6日付のミラノからの手紙によると、「ヴァレンティーノ公は非常に丁重に迎えられ、最敬虔なる王からの歓迎を受け、城に宿泊し、王自らが彼を宿舎の部屋まで訪ねて行った」とのこと。教皇はこのヴァレンティーノ公の訪問にあまり満足しておらず、大変な心配をしている。というのも、確かな情報によれば、公爵は教皇の相談もなく、また報告もせずにミラノに向かったことが分かっており、この計画を進めたのはフランソワ・トローシェで、彼が公爵にこれを行うよう促したとのことである。戻る期限は18日間だと伝えられている。この訪問についてさまざまな評価や解釈がなされており、その大多数は不吉な予兆を感じ取っている。そして、教皇の不満がその予感を強めている。

1502年9月18日

手紙を書く。チェーザレ・ボルジアローマにいると書いているが、これは誤りである。

1502年9月28日

ボローニャの外交官から、オルシーニは支援を期待していると聞く。

1502年10月2日

手紙を書く。ローマでオルシーニの不在に人々は気づいている。アレクサンデル6世は、ボローニャ攻略はオルシーニがいなくても成し遂げられるだろうと、アントーニオ・ジュスティニアーニに話す。フランス王ルイ12世が教皇がオルシーニ征討を目論んでいると言ったことに対して否定し、フランスに抗議文を送付済みだと言う。前回の合意からオルシーニとの関係は良好だと思っており、チェーザレ・ボルジアは「ボルジアというよりむしろオルシーニだ」と発言。

1502年10月11日

手紙を書く。ローマにてサン・レオ要塞落城の報を聞く。「教皇軍の兵士であるし、教皇の意思に背くことはしたくない」とジューリオ・オルシーニアレクサンデル6世と協定を結ぶ。

1503年11月6日

ベルヴェデーレ小宮殿に居住しているチェーザレ・ボルジアから呼び出されるが、これを拒絶。

1503年11月11日

ユリウス2世と会見。

1503年11月22~30日

教皇ユリウス2世から繰り返し呼びつけられ、中部イタリアの教会領へのヴェネツィア軍の進撃の中止と占領地の教会への返還を求められる。

1503年12月25日

ユリウス2世から中部イタリアの教会領へのヴェネツィア軍の進撃に改めて抗議される。

1504年5月

ヴェネツィア共和国政府宛てに手紙を書く。サンタンジェロ城に投獄中のミケーレ・ダ・コレーリアが、ガンディア公フアン・ボルジアヴァラーノ家の者たち、アストッレ3世・マンフレディオッタヴィオ・マンフレディ兄弟、ビシェーリエアルフォンソ・ダラゴーナベルナルディーノ・カエターニ、カーリ司教などの殺人で告発される。

下位項目

 『Dispacci di Antonio Giustinian – I
 『Dispacci di Antonio Giustinian – II

別表記

 ジュスティニアン、Antonio Giustinian

外部リンク

 Google Books
 Google Books - Dispacci di Antonio Giustinian
 Treccani

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

リチャード・ペイス Richard Pace

生没
1482頃~1536年6月28日

概要

 リチャード・ペイスは、15世紀から16世紀の男性、イングランドの外交官。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの華』

エットーレ・ベリンジェーリ Ettore Bellingeri

生没
14??年~15??年

概要

 エットーレ・ベリンジェーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フェッラーラ公国の外交官。

年表

1499年9月18日

ミラノにて、フェッラーラエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。

1501年12月20日

ローマ出発。

別表記

 エットレ

外部リンク

 Google Books

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

バルトロメオ・デ・カヴァリエリ Bartolomeo de' Cavalieri

生没
14??年~15??年

概要

 バルトロメオ・デ・カヴァリエリは、15世紀から16世紀の男性、フランス駐在フェッラーラ公国大使。

年表

1501年5月26日

シャロンにて、フェッラーラエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。フランス王ルイ12世ルクレツィア・ボルジアアルフォンソ1世・デステの結婚に反対し、代わりにルクレツィア・ボルジアフェッランテ・デステを結婚させ、ピオンビーノを与えようとしていること。

1501年6月22日

リヨンにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ1世・デステが教皇アレクサンデル6世に結婚を認めなければフェッラーラ公国を剥奪すると脅かされていると告げると、ルイ12世フェッラーラは彼の保護下にありフランスが破滅しない限り無事であると答えた。

1501年7月10日

エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。アレクサンデル6世が死んだ時、もはや誰と同盟を結べばいいのか分からなくなり、アルフォンソ1世・デステの立場は不確かなものとなろうことから、エルコーレ1世・デステがもし教皇の娘との結婚を認めるなら思慮が足りないと思うだろうと、ルイ12世が言った。

1501年7月14日

エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。

1501年7月21日

エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。

1501年8月7日

リヨンにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。

 閣下が使者を送られて、20万ドゥカート、賦課金の軽減、フェッラーラ司教叙任権の許可とその枢機卿会議での布告、その他特権を要求したことを、聖下が手紙にお書きになっていたと、昨日教皇アレクサンデル6世の特使が申しておりました。教皇は10万ドゥカートとその他を提示したそうです。教皇がゆくゆくはお与えになるつもりであり、エステ家の利益を増すことによって、どれほど大変気に入られているか示すことになるのですから、閣下は教皇をお信じになるべきです。加えて、閣下に助言を与えるようにイッポーリト・デステ枢機卿へ手紙をお書きくださるようルイ12世陛下にお願い申し上げるように指示されたそうです。閣下に献身的な使用人として申し上げますが、もっとも余計なことではありますが、もしこの結婚が実現されるならば、「多くの約束と少ない履行」という風になされば、後悔されるようなことはありますまい。先の手紙に書きましたが、陛下は閣下と同じように願っておられ、もし結婚を成就するなら閣下ができる限りたくさんの利益を引き出されるだろうし、もし結婚を成就しなければアルフォンソ1世・デステに閣下がお選びになるフランスの淑女を与える用意があると、申されておりました。

1501年8月8日

リヨンにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。自身とチェーザレ・ボルジアにとって並々ならぬ利点のある結婚を成立させるために、エルコーレ1世・デステの要求に応じたと、アレクサンデル6世が教皇使節へ書いた。

1503年9月8日

マコンにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアアレクサンデル6世の死をどう受け止めたか、ルイ12世に聞かれ、分からないと答えると、「この結婚に満足することはないと考えていたよ。ルクレツィア・ボルジアアルフォンソ1世・デステの本当の妻ではない」と言った。

別表記

 CavalleriCavaleride Cavaleriis

外部リンク

 Treccani.it

参考文献

 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ベルトランド・コスタビリ Beltrando Costabili

生没
14??年~15??年

概要

 ベルトランド・コスタビリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、ローマ駐在フェッラーラ公国大使。

在位

 教会首席書記官
 アドリア司教 1508年~1519年

年表

1502年1月6日

ローマの郊外数キロの地点までルクレツィア・ボルジアに同行し、引き返す前にじかに彼女に挨拶をする。

ローマにてフェッラーラエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ヴァティカン宮殿ボルジアの間鸚鵡の間ルクレツィア・ボルジアは父教皇アレクサンデル6世に別れを告げた。父と少しの間過ごした後、チェーザレ・ボルジアが入ってきたのと入れ替わりに出ていく時、アレクサンデル6世が大きな声で呼びかけた。元気で過ごし、何か欲しいものがあればいつでも手紙を書きなさい。ローマにいた頃よりも、彼のもとを去った今、もっと多くのことを彼女のためにするだろう、と言った。アレクサンデル6世ルクレツィア・ボルジアの随行員たちが見えなくなるまで、場所を変えながら見送った。

1502年1月7日

ローマにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。アレクサンデル6世は、教皇庁の役人たちは勅書を作成するだけで5から6千ドゥカートを要求しているだけに、フェッラーラの減税のために、金で払うなら少なくとも20万ドゥカートが要求されただろうと言った。フランスとスペインはチェーザレ・ボルジアに、たった1頭の白馬の支払いの形で、ナポリの減税のために2万ドゥカートの賦課金を納めている。しかし、フェッラーラは全てから免除される。

1502年1月

1502年1月28日のアレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアを誹謗中傷したものをギリシア語からラテン語に訳しヴェネツィアに送ったとして、ヴェネツィア人が逮捕され、処刑されたことについて。アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアに、ローマは誰もが思うまま話し書く自由な街なのだ。自身もさんざん悪く言われたが一顧だにしていないと1度ならず言って聞かせたと話す。「公は気立てはよいが、侮辱に耐えることを学ばなければならない」と教皇は話すが、それに対しチェーザレ・ボルジアは「ローマに自由に話し書く習慣があろうとも、私としては誹毀文書を書く者にはよい教訓を与えてやるつもりだ」と苛立って反論。

1502年4月1日

ローマにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。アレクサンデル6世は、アルフォンソ1世・デステが夜はルクレツィア・ボルジアと過ごしていることを聞いて喜び、「日中は好きなところに行けばいい。お若いのだし、そうする権利がある」と言っていた。

1503年8月14日

ローマにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。「教皇聖下とチェーザレ・ボルジア閣下が病床に伏されたのは意外のことではない。この宮廷の高官全てが病にかかり苦しんでおり、とりわけ教皇館の人々にそれが著しい。原因は悪い空気である」。

1504年3月7日

ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。1504年3月6日、毒殺されたジョヴァンニ・ミキエルの執事が死刑に処され、アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアの明白な命令の下だったと告白。

1504年10月27日

ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。

 ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアの状況はそう言われているほど絶望的ではありません。サレルノの枢機卿フアン・デ・ヴェラが、公がスペインに辿り着くまでに出したものである公の家令のハイメ・デ・レクェゼンツからの3番目の速達と、枢機卿たちからスペイン王フェルナンド2世・デ・アラゴンへ送られた手紙をお持ちです。公は強固ではあるが広々としたセビリアの城に1人の召使いと共に幽閉されていると、ハイメ・デ・レクェゼンツは書いております。すぐに8人の召使いが与えられるそうです。ハイメ・デ・レクェゼンツがチェーザレ・ボルジアの自由のためにスペイン王へ嘆願すると、陛下は公を監禁することを命令していなかったが、ゴンザロ・デ・コルドバの彼に対する告訴によりスペインに護送するようには指示したと仰っております。もし真実でないことが分かれば、チェーザレ・ボルジアのための枢機卿の嘆願に従う。しかしながら、女王イサベル1世・デ・カスティーリャが回復するまでは、何もできないとのこと。公の釈放に尽力している、ナヴァーラ王ジャン・ダルブレと女王の大使にも同じ返答をなさり、そのような次第で、ハイメ・デ・レクェゼンツは公がすぐ釈放されることを期待しております。

1507年5月6日

エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ユリウス2世が、フランシスコ・デ・レモリンスの家の12の櫃、84の包まれたタペストリー、高価なもの、チェーザレ・ボルジアの所有物を押収した。

別表記

 ConstabiliBeltrame Costabili

外部リンク

 GCatholic.com
 Treccani

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia
 『Memorie per la storia di Ferrara
 『The Life of Cesare Borgia

ザッカーリア・サッジ Zaccaria Saggi

生没
14??年~

概要

 ザッカーリア・サッジはミラノ駐在マントヴァ侯国大使。

教養

 ヴィットリーノ・ダ・フェルトレの学校に学ぶ。

年表

1471年8月21日

クレモーナでルドヴィーコ3世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが公爵だった間、チッコ・シモネッタは公の衝動的な性格に対する非常に優れた盾となっていたという。

1476年12月26日(木)

サント・ステファノの日。スフォルツェスコ城ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァと共に出発。

サント・ステファノ教会で、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが短剣で刺された時、その暗殺者ジョヴァンニ・アンドレア・ランプニャーニを払いのけようとした。しかし、D'Adda, "La morte di Galeazzo"によると、彼は恐怖のあまり逃げ出したという。

ミラノルドヴィーコ3世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの暗殺について。

1477年1月31日(金)

ミラノルドヴィーコ3世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。チッコ・シモネッタガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの私室に移り住んでいること。

1477年5月26日

ミラノルドヴィーコ3世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。ドナート・デル・コンテの逮捕について。

1478年8月9日

ミラノフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。ロベルト・サンセヴェリーノがジェノヴァのミラノに対する2度目の反乱に手を貸し、勝利を収めたことについて。

1479年9月7日

ミラノフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。信じがたいほどの肥満による、スフォルツァ・マリーア・スフォルツァの死について。

1479年9月28日

ミラノフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。ボーナ・ディ・サヴォイアが何の心配もなく生きることしか望んでいなかったことについて。

1479年9月29日

ミラノでマルシリオ・アンドレアージ宛書簡をしたためる。ルドヴィーコ・イル・モーロに朗読されたジョヴァンニ・シモネッタの著作に関して。

別表記

 ザッカリーア・サッジ

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

アルベルト・デッラ・ピーニャ Alberto della Pigna

生没
14??年~15??年

概要

 アルベルト・デッラ・ピーニャはヴェネツィア駐在フェッラーラ公国大使。

年表

1498年2月22日

ヴェネツィアにて、エルコーレ1世・デステに手紙を書く。チェーザレ・ボルジアフアン・ボルジアを殺害したこと。「ガンディア公の死因はその兄枢機卿にあることを再度知りました。・・・・問題の死についてのこの情報は確かな筋から入手したものです」

1498年3月15日

ヴェネツィアにて、エルコーレ1世・デステに手紙を書く。チェーザレ・ボルジアフアン・ボルジアを殺害したこと。

1504年6月18日

ヴェネツィアにて、エルコーレ1世・デステに手紙を書く。夫フアン・ボルジアチェーザレ・ボルジアに殺害されたマリーア・エンリケスが、スペイン宮廷にチェーザレ・ボルジアを逮捕するよう訴え出た。

別表記

 ジョヴァンニ・アルベルト・デッラ・ピーニャ、Giovanni Alberto della Pigna

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia

アントーニオ・コスタビリ Antonio Costabili

生没
14??年~1527年

概要

 アントーニオ・コスタビリは、15世紀から16世紀の男性、ミラノ駐在フェッラーラ公国大使。

在職

 フェッラーラ公国執事長 1491年頃~
 ミラノ駐在フェッラーラ公国大使 1496年~

年表

1497年1月3日

昼4刻、ルドヴィーコ・イル・モーロによりスフォルツェスコ城の塔の間へ呼び出されると、大臣や他国の外交官も集められており、寝台に横たわるミラノ公から直接ベアトリーチェ・デステの死を知らされる。

夕刻、ミラノにてフェッラーラエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ベアトリーチェ・デステの死と、悲嘆するルドヴィーコ・イル・モーロの様子を伝える。

1497年4月1日

エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。

1497年6月23日

ミラノにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。性的不能を理由に離婚を迫られているジョヴァンニ・スフォルツァに対し、ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロは、信頼できる証人の前で男性能力を証明してはどうかと提案。ジョヴァンニ・スフォルツァは拒絶。また、ジョヴァンニ・スフォルツァローマで囁かれている噂について口にした。

外部リンク

 Google Books

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ヴィンチェンツォ・デッラ・スカローナ Vincenzo della Scalona

生没
14??年~

概要

 ヴィンチェンツォ・デッラ・スカローナは、15世紀頃のイタリアの男性、マントヴァ侯国の駐ミラノ外交官。

年表

1460年4月17日

ミラノにて、ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ宛を書く。

別表記

 Vincenzo ScalonaVincenzo da Scalona

外部リンク

 Aragón en la Edad Media
 Google Books
 RM Open Archive

ジャン・カルロ・スカローナ Gian Carlo Scalona

生没
14??年~

概要

 ジャン・カルロ・スカローナはマントヴァ侯国大使。1495年から1497年までローマ駐在。

性格

 見解の表明に極めて慎重。

年表

1496年4月28日

手紙を書く。「ペーザロジョヴァンニ・スフォルツァは恐らく郷国に、他人の思いの及ばない何かを持っている」。

1496年5月2日

手紙を書く。ジョヴァンニ・スフォルツァが「絶望の内に」再び去り、その妻ルクレツィア・ボルジアを「教皇アレクサンデル6世のマントの中に」残して、自分はもはや2度とローマへは帰らないと仄めかしていった。

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ジャン・ルーチド・カッタネイ Gian Lucido Cattanei

生没
1462年~1505年
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
ジョヴァンニ・カッタネイ

概要

 ジャン・ルーチド・カッタネイは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、雄弁家、マントヴァ外交官。アレクサンデル6世治世中のローマを記録する彼の報告書は貴重だが、自身も認めるほどの悪筆のため解読が困難である点が残念である。1499年にイザベッラ・デステに古代の貨幣を提供するだけでなく、「眠れるクピド」の返還の件でグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの仲介者も務めた。フランチェスコ2世・ゴンザーガから1503年に贈られたフェデリーコ2世・ゴンザーガの肖像画は、死後ユリウス2世の手に渡った。

在職

 教会首席書記官
 サン・ピエトロ財産管理者 1503年10月5日~

年表

14??年

法律を学び、聖職に就くが、若い頃からマントヴァ侯に仕えることを選択。

1485年

ローマに移住。

1487年~1505年

マントヴァの常駐外交官として滞在。時折、不在。実際は外交官というよりも情報提供者。

1492年9月18日

シジスモンド・ゴンザーガの枢機卿への任命を交渉。

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙を書く。「1ヶ月以上前に全てを送るべきだった」とジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリ枢機卿から約束の不履行が指摘された際、「閣下が送ってくださるまで、枢機卿又は教皇の人質として自らを差し出す所存です」と答えました。

1492年

マントヴァから派遣された他の外交官も参加したが、資金不足などのため、ジャン・ルーチド・カッタネイの熱意にもかかわらず、果たされず。

教皇の娘であるルクレツィア・ボルジアの歓心を得ることをフランチェスコ2世・ゴンザーガに勧める。

1492年11月5日

アレクサンデル6世の教皇就任のためのラテン語の祝辞を捧げる。「最高の教皇位へと押し上げられるに至った」美徳の数々として、卓越した政務の手腕、驚異的な記憶力、そして「ラテン語であれ母語であれ」洗練された魅力的な雄弁さを挙げている。

1492年11月8日

ローマにて、手紙を書く。

 ペーザロのジョヴァンニ・スフォルツァ殿とアレクサンデル6世聖下との縁組の交渉は未だ公にはなっておらず、聖下はドメニコ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の邸宅に身を隠しており、夜間のみ外出されています。そして、この縁組はまだ成立したとは見なされておりません。というのも、最初の夫であるアヴェルサ伯ガスパール・デ・プロシタがここにおり、口約束に基づいて、婚姻の権利がジョヴァンニ・スフォルツァではなく自分にあるべきだと強く望んでいます。そして、これはスペイン王陛下の介入とご意向によって成立したものであり、聖下が陛下の同意と満足なくしてこれを進めることはないものと考えられております。我々はこの件と他いくつかの事柄について密かにジョヴァンニ・スフォルツァ殿に知らせましたが、何の心配もいらぬとの返答でした。

1493年7月3日

ローマにて、手紙を書く。

1493年7月28日

ローマにて、手紙を書く。

1493年8月3日

手紙を書く。「・・・・これは誠に純然たる真実であり、作り話ではございません。・・・・もし私の公文書を読むことがご負担となるのであれば、書記を雇うための費用をご支援いただければ幸甚に存じます。・・・・私にとりまして筆を執ることは大変な労苦であり、もとより書記となるために学問に励んだわけではございません。」

1493年8月6日

イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。フアン・ボルジアが、マリーア・エンリケスとの結婚式を祝うためにバルセロナに向かう際、「多くの宝石、金銭、その他の貴重な動産と銀」を持参し、「1年以内に戻るが、これらの貴重品はスペインに残して別の収穫をするつもりだと述べていました。」

1493年9月23日

チェーザレ・ボルジアを枢機卿団に迎えることに消極的な古参の枢機卿たちに対し、教皇は「彼を貶め困らせようとする者たちには、執拗ならば教皇アレクサンデル6世とは誰なのか思い知らせてやろう。そしてローマから逃げ出すまで追い込んでやろうと述べました。実際、教皇が望むだけ何度でもそうするだろうことは今や明白です。」

1493年12月24日

ローマにて、手紙を書く。

1493年

パルマのウゴレット出版社から、修辞的作品を幾つか収めた小冊子を出版。バルバラ・フォン・ブランデンブルクフェデリーコ1世・ゴンザーガフランチェスコ・ゴンザーガへ捧げた追悼演説、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ即位のための演説、1492年にアレクサンデル6世の前でした演説を収録。

1498年6月7日

ローマにて、手紙を書く。

1498年6月16日

ローマにて、手紙を書く。

1498年7月20日

手紙を書く。アレクサンデル6世は、モンパンシェ伯の未亡人キアラ・ゴンザーガの娘をチェーザレ・ボルジアの妻に望んでいると、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァから聞いた。

1498年8月8日

ローマにて、手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアアルフォンソ・ダラゴーナの結婚式で起きた騒動について。2人の司教が殴り合い、アレクサンデル6世も不敬な態度を取る者たちが抜いた「剣の間で」命の危険に晒された。

1498年8月12日

ローマにて、手紙を書く。

1498年8月18日

ローマにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。今やガンディア公フアン・ボルジアの死と、スペイン王に保護を任せた遺児たちは忘れ去られた。

 全てを詳細に記録するために書き留めておきました。チェーザレ・ボルジアは決して聖職者になりたいと思ったことがなく、聖職と司祭枢機卿職を辞す思いに駆られ、僧服では自分の良心や魂を救うことができないと感じた。しかし、どんな立場に就くのか、将来の自己の状態や生き方を完全に確信していない限り、彼が多くの聖職禄を放棄することに何の益もないでしょう。

1498年8月29日

ローマにて、手紙を書く。アレクサンデル6世フアン・ボルジア殺害犯としてコロンナ家を疑う。アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアには何でも許し、「闘牛士」としての偉業を喜び称賛した。こういった激しい運動には危険がつきもので、実際何度か落ちて、父親と支持者に不安を引き起こした。しかし、数日の病床生活だけで回復。「偉大なことを成し遂げ、敵を征伐するでしょう。」

1498年8月31日

ローマにて、手紙を書く。チェーザレ・ボルジアキアラ・ゴンザーガの娘との結婚計画についてマントヴァ宮廷の支持を得ることを、単なる馬の贈り物よりも重視。しかし、キアラ・ゴンザーガの貴族の威厳とルドヴィーコ・イル・モーロへの愛情からくる断固たる拒絶はローマでも広く知られており、どんな介入も不可能。

1498年10月1日

ローマにて、手紙を書く。

1498年10月1日以降

 チェーザレ・ボルジアは確かに平服で出発し、公爵としての準備を整えたにもかかわらず、最後の瞬間までヴァレンティーノ枢機卿チェーザレと署名した。これはおそらく物事が彼の望み通りに進まなかった場合、あるいはフランス病で台無しになった顔のせいで、妻に拒否された時の予防策でした。

1499年1月初旬

ローマにて、手紙を書く。

1499年3月7日

ローマにて、手紙を書く。

1499年3月12日

ローマにて、手紙を書く。

1499年3月26日

ローマにて、手紙を書く。

1499年4月7日

ローマにて、手紙を書く。

1499年5月18日

ローマにて、手紙を書く。

1499年5月25日

ローマにて、手紙を書く。

1499年5月27日

ローマにて、手紙を書く。

1499年6月8日

ローマにて、手紙を書く。

1499年6月16日

ローマにて、手紙を書く。

ローマにて、手紙を書く。

1499年6月25日

ローマにて、手紙を書く。

1499年6月30日

ローマにて、手紙を書く。アレクサンデル6世ホフレ・ボルジアが自分の実子か疑っており、ヴァノッツァ・デイ・カッタネイの夫又は他の男性との浮気を責めたという。

1499年7月5日

ローマにて、手紙を書く。

1499年7月13日

ローマにて、手紙を書く。

1499年7月19日

ローマにて、手紙を書く。

1499年8月

ローマにて、手紙を書く。

1499年9月8日

ローマにて、手紙を書く。

1499年9月19日

ローマにて、手紙を書く。

1499年9月23日

ローマにて、手紙を書く。

1499年11月11日~1499年11月26日

ローマにて、手紙を書く。

1499年12月6日~1499年12月23日

ローマにて、手紙を書く。

1500年1月15日

ローマにて、手紙を書く。  毎夜、警官が互いを殺し合う。これは逆の良い手本を示している。なぜなら、彼らはイタリア人に、教皇の死後に何をすべきかを教えているからであり、その際彼らは友人や安全な場所に欠くことになるだろう。

1500年1月17日

ローマにて、手紙を書く。

1500年2月9日

ローマにて、手紙を書く。

1500年2月12日

ローマにて、手紙を書く。

1500年2月27日

ローマにて、手紙を書く。

1500年6月20日

ローマにて、手紙を書く。

1500年6月29日

ローマにて、手紙を書く。

1500年8月12日

ローマにて、手紙を書く。

1500年8月19日

ローマにて、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙を書く。

 ビシェーリエアルフォンソ・ダラゴーナは快方に向かっていました。ナポリ王フェデリーコ・ダラゴーナは彼を救出しようと考えていたが、負傷した際に教皇の寝室近くのある塔に抑留されたため、容易に動けずにいました。ナポリから送られた医師1人だけが治療を行い、妻ルクレツィア・ボルジアが食事を窒息させないよう食べさせました。結局、昨晩完復前に亡くなり、自宅でヴァレンティノワチェーザレ・ボルジアを殺そうとしたとして、側近のナポリ人たちと女中が逮捕されました。教皇アレクサンデル6世はこの事件の性質やナポリ王、娘の絶望に悩まされています。

1500年8月25日

ローマにて、手紙を書く。

1500年9月6日

ローマにて、手紙を書く。

 私は日中、様々な職務に励み、ある者たちが言うような作り話ではなく、真実を知るために努めています。彼らが常に悪意を抱くのはそれが彼らの本性であるからです。

1500年9月26日

ローマにて、手紙を書く。

1501年3月6日

ローマにて、手紙を書く。

1501年7月8日

手紙を書く。「ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアはどんなに不満か知れない。他の人々の上に立つ地位も位も与えられず、さらに、自分を人質だと考えているからである・・・・」

1501年7月

ローマにて、手紙を書く。

1501年12月

イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアは1着で2万ドゥカートするドレス、1万に値する帽子を所持している。「ここナポリにて従来2年間に消費されていたよりも多くの金が半年間で準備され売られたと言われています。別に1万ドゥカート、ピエーヴェ・ディ・チェントの城の価値と、フェッラーラの減税の確約を夫にもたらしました。教皇が娘の配下につける馬と臣下は、合計1千になります。もし間に合えばフランス製のも含まれる2百の四輪馬車と共に、彼女を連れていく護衛がやって参ります」

1502年4月3日

ローマにて、手紙を書く。

1502年6月7日

ローマにて、手紙を書く。

1503年1月3日

ローマにて、手紙を書く。

1503年1月17日

ローマにて、手紙を書く。

1503年2月21日

ローマにて、手紙を書く。アレクサンデル6世フアン・ボルジア殺害犯がオルシーニ家であるとルイ12世に明言。フランス王はオルシーニ家を保護下に置こうとしていた。しかし教皇は「初めにオルシーニ家ボルジア家の、次にボルジア家オルシーニ家の血を流させた。」敵の本拠地が「目前に」あるのは「都合が悪く、誠実」でないと力強く反対した。

1503年5月23日

ローマにて、手紙を書く。

1503年5月26日

ローマにて、手紙を書く。

1503年5月31日

ローマにて、手紙を書く。

1503年7月17日

ローマにて、手紙を書く。

1503年7月31日

ローマにて、手紙を書く。

1503年8月5日

手紙を書く。「多くの人が病にかかっている。しかし、ペストではない。すぐに治る熱にすぎない」。

1503年9月2日

ローマにて、手紙を書く。

1503年10月5日

教皇ピウス3世により、サン・ピエトロ財産管理者に指名される。

ローマにて、手紙を書く。

1503年11月10日

ローマにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。ユリウス2世の戴冠式は6万ドゥカート掛かったと噂される。

1503年11月17日

ローマにて、手紙を書く。

1503年11月24日

ローマにて、手紙を書く。

1503年12月22日

ローマにて、手紙を書く。

1503年

ユリウス2世により、サン・ピエトロ財産管理者として承認される。

1504年1月17日

ローマにて、手紙を書く。

1504年1月22日

ローマにて、手紙を書く。

1504年1月25日

ローマにて、手紙を書く。

1504年3月23日

ローマにて、手紙を書く。

1504年3月30日

ローマにて、手紙を書く。

1504年5月31日

ローマにて、手紙を書く。

1504年6月20日

ローマにて、手紙を書く。

1504年8月12日

ローマにて、手紙を書く。

別表記

 Giovanni Lucido CattaneoLucido de Capitaneis

埋葬地

外部リンク

 Google Books
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 L'Emeroteca Digitale
 Treccani

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Archivio storico lombardo. Indici della serie V, vol. I-X
 『Lucretia Borgia
 『Mantova e Urbino: Isabella d'Este ed Elisabetta Gonzaga nelle relazioni famigliari

ジョルジョ・ブロニョーロ Giorgio Brognolo

生没
14??年~

概要

 ジョルジョ・ブロニョーロはマントヴァ侯国大使。

年表

1494年5月6日(火)

マントヴァ侯イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。「ジョヴァンニ・スフォルツァ殿は月曜日か火曜日に3人の婦人を伴って出立されます。3人の婦人は、教皇の命により、8月に戻られるまでペーザロにご滞在されます」

1494年5月15日(木)

マントヴァ侯イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。

1494年11月29日

手紙を書く。「教皇への侮辱ともなる災難が起こりました。一昨日、ヴィテルボにいるアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿に会うため、カポディモンテの城を出発したアドリアーナ・デル・ミラジューリア・ファルネーゼジローラマ・ファルネーゼが、少し行ったところでフランス騎兵隊と出くわし、25人から30人の従者も共に、捕虜としてモンテフィアスコーネへ連れていかれました」。イヴ・ダレーグル「が美しい婦人たちが何者であるかを知ると、3千ドゥカートを身代金として要求しました。誰を捕らえたのかシャルル8世に手紙で報告がいったのですが、王は彼女たちと会うことは拒否されました。ジューリア・ファルネーゼは、好待遇を受けていること、身代金を送って欲しいという内容でローマに手紙を書きました」

外部リンク

 Treccani.it

参考文献

 『Lucretia Borgia

フィリッポ・サクラモロ Filippo Sacramoro

生没
14??年~

概要

 フィリッポ・サクラモロはフィレンツェ駐在ミラノ公国大使。

年表

1474年10月10日

フィレンツェガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛書簡をしたためる。ピエロ・フェリーチフィレンツェでの最後の任務に関して。

1477年9月13日

フィレンツェミラノ公宛書簡をしたためる。ロレンツォ・イル・マニーフィコの身が危険であるという警告。

1478年4月27日

フィレンツェチッコ・シモネッタ宛書簡を2通したためる。パッツィ家の陰謀直後の大混乱の様子。

1478年4月28日

フィレンツェチッコ・シモネッタ宛書簡をしたためる。パッツィ家の陰謀直後の大混乱の様子。

1478年5月3日

フィレンツェチッコ・シモネッタ宛書簡をしたためる。アントーニオ・ダ・モンテフェルトロフィレンツェと戦うためにシエナに呼ばれたらしいこと。

1478年5月12日

フィレンツェミラノ公宛書簡をしたためる。チッコ・シモネッタフィレンツェに代わってフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ宛ての書簡の見本を自分で書いてロレンツォ・イル・マニーフィコに送っていた。ロレンツォ・イル・マニーフィコはそれを一言一句そのまま書き写させると、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの俸給を巡る全ての交渉を即座に中止させるためにローマウルビーノに送付したこと。

1478年6月25日

フィレンツェでジョヴァンニ・アンジェロ・タレンティと連名でミラノ公宛書簡をしたためる。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの足はまだ癒えておらず、独創的な乗馬用椅子を作らせて、怪我をした足を馬の首に回して乗ることができるようにしたことを伝えている。

1481年7月12日

フィレンツェにて、ミラノ公宛に手紙を書く。ジローラモ・リアリオペルージアに到着。旅程はグッビオ、カーリ、ウルビーノチェゼーナなどだと考えられている。

参考文献

 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ピエロ・フェリーチ Piero Felici

生没
14??年~

概要

 ピエロ・フェリーチは、15世紀頃のイタリアの男性、ウルビーノ公国書記官、大使。

性格

 老練、悪賢い。

年表

1474年10月

フィレンツェ共和国へ使節。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの軍事行動への寄付をロレンツォ・イル・マニーフィコに要求。フィレンツェ共和国はいかなる支払いも拒否。

1477年

ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナのもとへ使節。

1478年1月

この頃にはジローラモ・リアリオから教皇庁に呼び出され、ウルビーノ公国ローマ駐在大使アゴスティーノ・スタッコーリと同席していた。

1478年3月27日

ヴァティカン宮殿で会合。出席者はジローラモ・リアリオロレンツォ・ジュスティーニナポリ大使アネッロ・アルカモーネ、ウルビーノ公使アゴスティーノ・スタッコーリ。ピエロ・フェリーチは自ら合意書を作成して出席者全員に署名させ、それをナポリに送ってフェッランテ・ダラゴーナに調印してもらうことにした。

1482年3月7日

シクストゥス4世及びジローラモ・リアリオの邸宅から追い出される。

ローマで面目を潰され、動揺した彼は、屈辱を受けたことをフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに伝えた。

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロはその知らせを読んだ途端怒りを爆発させたという。

参考文献

 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

フィオラモンテ・ブロニョーロ Fioramonte Brognolo

生没
14??年~1514年12月19日
出身
マントヴァ
没地
ローマ

概要

 フィオラモンテ・ブロニョーロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、マントヴァ公国大使。

別表記

 Fioravante

外部リンク

 Treccani.it

参考文献

 『Lucretia Borgia

ピエルフランチェスコ・トシンギ Pierfrancesco Tosinghi

生没
14??年~15??年

概要

 ピエルフランチェスコ・トシンギは、フィレンツェ共和国の外交官。

年表

1499年

ピサ戦線におけるコッミッサーリオ

1500年10月3日頃

ピエルフランチェスコ・トシンギがフランス大使として任命され、10日か12日に着任することが決定。

1502年

十人委員会委員。

1503年6月21日

フィレンツェ共和国宛に手紙を書く。ピサから約3マイルにあるヴェッルカーノ山頂のヴェッルーカ要塞へレオナルド・ダ・ヴィンチが訪問したことを報告。「レオナルド・ダ・ヴィンチ一行がここへいらっしゃり、我々は彼らを案内しました。ヴェッルーカをとても好まれ、趣味に合致したようです。そして、難攻不落にしようと考えているとおっしゃいました。しかし、今は取り掛かることはできません。小さな事業ではない、軽んじられてはならないリブラファッタの方が重要であるからでございます。ヴェッルーカは差し当たり十分な防御を固められるよう修繕しておき、そうしておけば後に完成させることができましょう。」

1505年

フランチェスコ・ペピと共に、ピサ前線への特使。

1507年4月

フィレンツェ共和国、ジェノヴァ平定のためイタリアに侵攻してきたルイ12世のもとに使節ピエルフランチェスコ・トッシンギとジョヴァンニ・リドルフィを派遣。

1507年6月27日

ピサ獲得のため、サヴォーナで会見しているフェルナンド2世・デ・アラゴンルイ12世のもとに使節ピエルフランチェスコ・トッシンギとジョヴァンニ・リドルフィを派遣。

別表記

 ピエルフランチェスコ・トッシンギ、Pier Francesco Tosinghi

外部リンク

 Google Books - Machiavelli and Empire
 Google Books
 JSTOR - La Verruca

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

更新日

 2025年2月28日