バルバラ Santa Barbara
- 生没
- 2??年~
- 父
- ディアスコロス
概要
聖バルバラは、3世紀頃の女性、聖人。
持ち物
3つの窓をもつ塔、棕櫚の枝、孔雀の羽根、剣、聖杯、稲妻、本
守護対象
建築家、石工、砲手、消防士、鉱夫、囚人
題材作品
別表記
聖バルバラ
外部リンク
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
セバスティアヌス Sebastianus
- 生没
- 2??年~287年1月20日
- 祝日
- 1月20日
- 守護都市
- カゼルタ
概要
セバスティアヌスは、3世紀の男性、聖人、殉教者。
守護対象
兵士、黒死病。
題材作品
外部リンク
アンブロジウス Ambrosius
- 生没
- 340年?~397年4月4日
- 祝日
- 12月7日
- 守護都市
- ミラノ
概要
アンブロジウスは、4世紀の男性、四大ラテン教父の1人。
肖像
別表記
アンブロシウス、アンブロジュウス、アンブロジオ
外部リンク
参考文献
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『ルネサンス宮廷大全』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
ベネディクトゥス Benedictus de Nursia
- 生没
- 480年3月2日~547年3月21日
- 出身
- ノルシア
- 没地
- モンテカッシーノ
- 祝日
- 3月21日
概要
ベネディクトゥスは、キリスト教の聖人で、西欧最古の修道会であるベネディクト会の創立者。
題材作品
外部リンク
ピエール・アベラール Pierre Abélard
- 生没
- 1079年~1142年4月21日
- 妻
- エロイーズ
概要
ピエール・アベラールは、11世紀~12世紀の男性。
関連項目
外部リンク
ウバルド・バルダッシーニ Ubaldo Baldassini
- 生没
- 1084年~1160年5月16日
- 出身
- グッビオ
- 没地
- グッビオ
概要
ウバルド・バルダッシーニは、11世紀から12世紀のイタリアの男性、聖職者。1192年列聖される。
在位
グッビオ司教
外部リンク
フランチェスコ・ダッシジ San Francesco d'Assisi
- 生没
- 1181/82年~1226年10月3日
概要
フランチェスコ・ダッシジは、12世紀~13世紀の男性。
年表
1219年
第5次十字軍が駐留するエジプトに到着。
供を1人連れただけでスルタンのメレク・アル=カーミルと会見。この席でフランチェスコ・ダッシジはイスラム法学者との対決を望み、神明裁判を持ちかける。すなわち、燃え盛る炎の上を歩いてどちらに神の庇護があるかを競おうという火の試練である。フランチェスコ・ダッシジは先に自分が渡って無事であったらキリスト教へ改宗するようスルタンに迫るが、スルタンがこれを拒否したため、誰も渡らず。
肖像
別表記
聖フランチェスコ、アッシジのフランチェスコ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『修道院』
『服飾の中世』
『マキアヴェリ』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスとは何であったか』
『Lucretia Borgia』
カテリーナ・ダ・シエナ Caterina da Siena
- 生没
- 1347年3月25日~1380年4月29日
- 出身
- シエナ
- 没地
- ローマ
概要
カテリーナ・ダ・シエナは、14世紀のイタリアの女性。
埋葬地
別表記
聖女カテリーナ、St. Catherine of Siena、Caterina di Jacopo di Benincasa
外部リンク
参考文献
『快楽の中世史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルネサンスの歴史』
『Lucretia Borgia』
ヴィンチェンツォ・フェッレーリ Vincenzo Ferreri
- 生没
- 1350年1月23日~1419年4月5日
- 出身
- ヴァレンシア
概要
ヴィンチェンツォ・フェッレーリは、14世紀から15世紀の男性、ドミニコ会修道士。
年表
1455年6月3日
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂で、カリストゥス3世により列聖される。
肖像
別表記
フェルレーリ、ウィンケンティウス・フェレリウス、ビセンテ・フェレール
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ベルナルディーノ・ダ・シエナ Bernardino da Siena
- 生没
- 1380年9月8日~1444年5月20日
- 出身
- マッサ・マリッティマ
- 没地
- ラクイラ
概要
ベルナルディーノ・ダ・シエナは、14世紀から15世紀の男性、聖職者。1450年5月24日、教皇ニコラウス5世により列聖。
題材作品
外部リンク
ジョヴァンニ・カピストラーノ Giovanni Capistrano
- 生没
- 1386年~1456年10月23日
概要
フランシスコ会修道士、説教師、神学者。
年表
1456年7月14日~7月21/22日
ハンガリー制圧を狙ってNándor Fehérvár(現ベオグラード)を襲撃してきたマホメッド2世指揮のオスマン・トルコの大軍に対し、教皇使節である自身らの呼びかけに応じて結集した貧農、貧民、学生らからなる大軍が、フニャディ・ヤーノシュ指揮の教会軍と共に十字軍を構成して勝利を収め、ハンガリーを防衛。
1456年8月11日
フニャディ・ヤーノシュ、ペストで死。
1456年10月23日
ペストで死。
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『イタリア・ルネサンスの文化』
アントニーノ・ピエロッツィ Antonino Pierozzi
- 生没
- 1389年3月1日~1459年5月2日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- モントゥーギ
概要
アントニーノ・ピエロッツィは14世紀~15世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ドミニコ会総長 1433年~1443年
フィレンツェ大司教 1446年~1459年5月2日
年表
1437年
コジモ・イル・ヴェッキオの大きな協力を得てサン・マルコ修道院の修築を始める。
1444年
アントニーノ・ピエロッツィは、コジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援の下、コジモ・イル・ヴェッキオが指定し雇ったミケロッツォ(1396年~)の設計、指揮により、サン・マルコ修道院・聖堂を再建。
1458年7月2日~7月31日
メディチ家に対抗心を燃やしながらもコジモ・イル・ヴェッキオの威勢に服しているルカ・ピッティは、1458年7月~8月の正義の旗手に就くや直ちに共和政の事実上の変改を試み続けるがジローラモ・マキアヴェッリらの強い反対で斥けられる。
この間、かねてからコジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援を受けてきたサン・マルコ修道院のアントニーノ・ピエロッツィは、敢然として自ら筆を取って国法遵守誓約違反及び共和政変改を非難する文書を書き、主要教会に張り出す。
1459年5月2日
ドミニコ会総長(1433年~1444年)でこの年までにSumma teologiae(別名Summa moralis:(倫理)神学大全)を完成させた(1440年~)アントニーノ・ピエロッツィ、フィレンツェで死(1389年~)。(1523年聖人に列せされ、Sant'Antoninoと通称される)
1477年
アントニーノ・ピエロッツィの遺作Summa teologiae(別名Summa moralis:(倫理)神学大全)、ヴェネツィアとドイツ・シュパイアーで刊。以後15年の間にこの作、ヴェネツィアで次々と版を重ねた他スイス・バーゼルでも版を重ねて刊。
1484年
アントニーノ・ピエロッツィの遺作Chronicon(年代記(別名Summa historialis:歴史大全)、ニュルンベルクで刊。以後この作、1491年バーゼルで刊の他1517年以降リヨンで版を重ねて刊。
1523年
聖アントニヌスとして列聖される。
外部リンク
Catholic Encyclopedia
EWTN
GCatholic.com
Saints.SQPN.com
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
マリアーノ・ダ・ジェナッツァーノ Mariano da Genazzano
- 生没
- 1412年~1498年12月14日
- 出身
- ジェナッツァーノ
- 没地
- セッサ
概要
マリアーノ・ダ・ジェナッツァーノは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、アウグスティーノ会修道士。
仲間であるアウレリオ・ブランドリーニと共に当時の最も優れた説教者の1人と見なされ、その雄弁さと博学さから、アンジェロ・ポリツィアーノから賞賛される。1482年からレッチェトの会衆と繋がりがあり、修道会内で戒律厳守と公益に尽力することへの回帰を提唱し、祈りと典礼の実践を通じて野心と個性から逃れることを提唱した戒律主義の改革の代表者である。
ジローラモ・サヴォナローラの時代、修道会の副総長としてフィレンツェでメディチ家側に付き、ドミニコ会修道士に対抗。アウグスティーノ修道会に報いるために、ロレンツォ・イル・マニーフィコはサン・ガッロ教会に修道院を建てたと考えられている。
1497年5月、修道会総本部から総長に任命され、大胆な改革計画を立てるも、最初はロンバルディアの会衆の反対によって、そして彼の死によって頓挫した。実際、1498年12月14日にナポリへの旅行中にセッサ・アウンカで亡くなった。
年表
1491年10月
フェッラーラのサンタンドレア修道院に自分の独房が建設され、それを監督。
1491年10月
エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。ジルフレード・デ・カバッリを殺し有罪判決を受けたニッコロ・ダ・ヴェローナを、悔悛して修道士になることを希望しているため赦免するよう嘆願。
1494年
1497年5月
アウグスティーノ修道会総本部により、総長に任命される。
1498年12月14日
ナポリへの途上、セッサにて死。
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ブランダ・カスティリオーネ Branda Castiglione

- 生没
- 1415年~1487年7月16日
- 出身
- ミラノ
- 没地
- ローマ
- 父
- ヤコポ・カスティリオーネ
概要
ブランダ・カスティリオーネは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者。
在位
コモ司教 1466年10月8日~1487年7月16日
年表
1487年7月16日
ローマにて、死(1487年7月15日)。
別表記
ブランダ・カスティリオーニ、Branda da Castiglione、Castiglioni
外部リンク
GCatholic.com
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『April Blood』
ステファノ・バニョーネ Stefano da Bagnone
- 生没
- 1418年~1479年
- 父
- ニッコロ・ピオヴァーノ・ダ・バニョーネ
概要
ステファノ・バニョーネは、15世紀のイタリアの男性。
別表記
ステーファノ・ダ・バリョーネ
外部リンク
The Assassin's Creed Wiki
Wikipedia
参考文献
『メディチ家の人びと』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
アントーニオ・マッフェイ Antonio Maffei
- 生没
- 1450年~1478年
- 父
- ゲラルド・マッフェイ
概要
アントーニオ・マッフェイは、15世紀のイタリアの男性。
別表記
フラーテ・アントーニオ、アントーニオ・デ・マックェイ
外部リンク
The Assassin's Creed Wiki
Wikipedia
参考文献
『メディチ家の人びと』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
フアン・ロドリゲス・デ・フォンセカ Juan Rodríguez de Fonseca
- 生没
- 1451年~1524年3月4日
概要
フアン・ロドリゲス・デ・フォンセカは、15世紀から16世紀の男性。
関連項目
The Borgias: 108
外部リンク
ジョヴァンニ・オリヴィエーリ Giovanni Olivieri
- 生没
- 14??年~1510年
概要
ジョヴァンニ・オリヴィエーリは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。
在位
イゼルニア司教 1500年4月8日~1510年
年表
1500年10月
パンドルフォ4世・マラテスタのリーミニ出発の日、チェーザレ・ボルジアによる無血開城を祝って大聖堂で荘厳ミサが歌われ、ジョヴァンニ・オリヴィエーリがリーミニの教会に対する忠誠の誓いを受ける。
この後すぐ、リーミニは教皇アレクサンデル6世に使節を送り、パンドルフォ4世・マラテスタからの解放を感謝する。
別表記
ジョヴァンニ・オリビエーリ
外部リンク
Catholic-Hierarchy
GCatholic.com
Wikipedia
参考文献
アレッシオ・チェラドーニ Alessio Celadoni di Celadonia
- 生没
- 14??年~1517年
- 没地
- モルフェッタ
概要
アレッシオ・チェラドーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ガッリーポリ司教 1494年~1508年
モルフェッタ司教 1508年6月7日~1517年
外部リンク
シルヴェストロ・デ・ジーリ Silvestro de' Gigli
- 生没
- 14??年~1521年4月16日
- 出身
- ルッカ
概要
シルヴェストロ・デ・ジーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。ローマ駐在イングランド王使節。
在位
ウスター司教 1498年12月24日~1521年4月16日
年表
1501年12月23日(木)
イッポーリト・デステ枢機卿のローマ入場に同行。
外部リンク
参考文献
パリーデ・グラッシ Paride Grassi
- 生没
- 14??年~1528年6月10日
- 出身
- ボローニャ
- 没地
- ローマ
概要
パリーデ・グラッシは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
教皇庁儀典長 1504年~1528年
ペーザロ司教 1513年~1528年
年表
1450~1460年頃
ボローニャにて、生。
外部リンク
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
ヤコポ・ペーザロ Jacopo Pesaro

- 生没
- 1460年~1547年
概要
ヤコポ・ペーザロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
パフォス司教 1495年?~1547年
年表
1495年7月3日?
パフォス司教に就任(1498年4月25日)。

1497年9月6日(水)
朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂でナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを、枢機卿団と共に迎える。
1501年5月
ヤコポ・ペーザロはスペイン軍とともにダーダネルス海峡まで進軍し、フランス軍はミティレーニを包囲。
1501年5月13日
ブダ条約:ヴェネツィア共和国は、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォ及び教皇アレクサンデル6世と同盟を結ぶ。ダルマチア防衛に対する軍事支援と引き換えに、ハンガリーに年間14万ドゥカートの支払いが定められる。
1502年
ヴェネツィア共和国がオスマン・トルコと和平することを恐れた教皇アレクサンデル6世により、ガレー船20隻(13隻)の指揮を任される。
1502年8月30日
サンタ・マウラの戦いで、教皇軍とヴェネツィア共和国軍がオスマン・トルコ軍に勝利(1502年6月28日)。
1503年8月18日(金)
アレクサンデル6世、死。
1506年
ヴェネツィア到着。
1542年
遺言書を作成。故アレクサンデル6世の魂に捧げるミサを行うためのお金を残す。
肖像
埋葬地
別表記
Giacomo Pesaro、Jacopo Pisauro、episcopus Paphensis
外部リンク
Catholic-Hierarchy
Google Books
Google Books
参考文献
『ルネッサンスの光と闇』
スオール・コロンバ Suor Colomba
- 生没
- 1467年2月2日~1501年5月20日
- 出身
- リエーティ
- 没地
- 教皇領ペルージア
概要
スオール・コロンバは、15世紀から16世紀の女性。
年表
1488年
ペルージア到着。
別表記
Colomba da Rieti
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『The Life of Cesare Borgia』
トンマーゾ・インギラーミ Tommaso Inghirami
- 生没
- 1470年~1516年9月5日
- 出身
- ヴォルテッラ
- 没地
- ローマ
概要
トンマーゾ・インギラーミは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1498年1月16日
ナヴォーナ広場のサン・ヤコポ・デリ・スパニョーリ教会にて、インファンテ・ロマーノのために演説を行う。
別表記
フェードラ・インギラミ、Phaedra、Phaedrus、Fedra
外部リンク
Google Books - Contemporaries of Erasmus
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
ゴーロ・ゲーリ Goro Gheri
- 生没
- 1470年頃~1528年
- 出身
- ピストイア
- 没地
- ボローニャ
概要
ゴーロ・ゲーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ファーノ司教 1518年~1528年
別表記
Gregorio Ghieri、Gieri
外部リンク
参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『メディチ家』
ジョヴァンニ・ネローニ Giovanni Neroni
- 生没
- 1???年~1473年7月18日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ローマ
- 父
- ネローネ・ネローニ
- 母
- レオナルダ・クレーシ
概要
ジョヴァンニ・ネローニは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者。
在位
ヴォルテッラ司教 1450年~1461年
フィレンツェ大司教 1462年~1473年7月18日
別表記
ジョヴァンニ・ネッロ
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
コズメ・デ・モンセラート Cosme de Montserrat
- 生没
- 14??年~1473年
- 出身
- ラ・セルヴァ・デル・カンプ
概要
コズメ・デ・モンセラートは、15世紀のカタルーニャ出身の男性、聖職者。教皇カリストゥス3世の時代にヴァティカン図書館司書として、目録を作成し、拡大し、改善した。
在位
ジローナ司教 1458年~1459年
ヴィク司教 1459年~1464年、1472年~1473年
年表
1451年
オイバルの戦いで捕虜となったヴィアナ公カルロス・デ・トラスタマラを擁護し、釈放時に同行。
1455年4月4日
アルフォンス・デ・ボルジャ枢機卿の側近と共にヴァティカンに到着。
1461年9月23日
ヴィアナ公カルロス・デ・トラスタマラがバルセロナにて死。
聖性を主張。
1462年6月
カンプはコズメ・デ・モンセラートの指導の下にフアン2世・デ・アラゴンに反乱し、対抗することを宣言し、王と大司教の支配から脱する。
1462年9月
カンプが王国軍に敗れて占拠され、大司教の支配下に置かれる。
別表記
コジモ・デ・モントセラト、コシモ
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
ジェンティーレ・ベッキ Gentile Becchi
- 生没
- 14??年~1497年
- 出身
- ウルビーノ
- 没地
- アレッツォ
概要
ジェンティーレ・ベッキはロレンツォ・イル・マニーフィコの5歳の頃からの家庭教師、後に外交官に転ずる。
在位
アレッツォ司教 1473年10月20日~1497年
著作
『フィレンツェ司教会議』
年表
1478年11月4日
カファッジョーロでフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの書記であるフェデリーコ・ガッリ宛書簡をしたためる。フィレンツェ共和国は被害者なのであり、初めに仕掛けたのはこちら側ではないと主張する。
外部リンク
GCatholic.com
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ルネッサンス夜話』
『メディチ家』
『フィレンツェ史』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
バルトロメオ・フローレス Bartolomeo Flores
- 生没
- 14??年~1498年7月23日
概要
バルトロメオ・フローレスは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ネピ・ストリ司教 1489年8月21日~1495年8月4日
コゼンツァ大司教 1495年8月4日~1497年9月14日
年表
1489年9月8日
司教。
1497年9月14日
教皇アレクサンデル6世により、教皇秘書官の召使3人と共に20の小勅書を捏造したとして、サンタンジェロ城に投獄される。
死ぬまで暗い部屋で、ランプの油とパンと水が与えられた。
1497年10月
カンポ・デ・フィオーリ広場にて、3人の召使が火刑にされる。
別表記
Bartholomeo Florido
外部リンク
Catholic-Hierarchy
GCatholic.com
Treccani
参考文献
フェルナンド・デ・アルメイダ Fernando de Almeida
- 生没
- 14??年~1500年1月7日
概要
フェルナンド・デ・アルメイダは、15世紀のポルトガル人男性、聖職者。
在位
セウタ(スペイン)司教 1493年7月19年~1499年6月19日
ヌヴェール(フランス)司教 1499年6月19年~1500年1月7日以前
性格
野心家で貪欲な甚だいかがわしい人物。
年表
1499年
シャルロット・ダルブレとの結婚話に際して、どんな代償によってかは不明であるが、チェーザレ・ボルジアを援助。
1500年1月7日
ロマーニャのチェーザレ・ボルジアの野営地での自身の部屋で死。
別表記
フェルディナンド・ダルメイダ
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ペドロ・デ・アランダ Pedro de Aranda
- 生没
- 14??年~1500年8月8日
- 没地
- ローマ
概要
ペドロ・デ・アランダは、14世紀のスペイン出身の男性、聖職者。
在位
カラホラ・カルサーダ司教 1477年~1494年
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
ジローラモ・ポルカリ Girolamo Porcari
- 生没
- 14??年~1503年
- 父
- ドメニコ・ポルカリ
- 母
- ジョヴァンナ・デッラ・ヴァッレ
概要
ジローラモ・ポルカリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
アンドリア司教 1495年~1503年
年表
1492年
アレクサンデル6世により、教皇庁控訴院院長に任命される。
1493年9月18日
Commentarius Porciusをローマで出版。スペイン王と王妃に献呈。この中で、教皇に即位したアレクサンデル6世と、彼に忠節を誓うイタリア各国の大使について書いている。
著作
『Commentarius Porcius』
別表記
Geronimo Porcari、Hieronymus Porcius
外部リンク
GCatholic.com
Google Books
Google Books
参考文献
ジョヴァンニ・サッコ Giovanni Sacco
- 生没
- 14??年~1505年
概要
ジョヴァンニ・サッコは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ラグサ大司教 1490年8月29日~1505年
アンコーナ・ヌマーナ教区長 1502年7月15日~1505年
年表
1501年12月23日(木)
イッポーリト・デステのローマ入場を出迎える。
別表記
Giovanni de Sacchis
外部リンク
レオネッロ・キエリカート Leonello Chiericato
- 生没
- 14??年~1506年8月19日
概要
レオネッロ・キエリカートは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
アルバ司教 1472年1月8日~1484年1月19日
トロギル司教 1484年1月19日~1488年10月22日
コンコルディア司教 1488年10月22日~1506年8月19日
外部リンク
参考文献
フアン・ルイス・デ・メディナ Juan Ruiz de Medina
- 生没
- 14??年~1507年1月30日
- 出身
- メディナ・デル・カンポ
- 没地
- セゴヴィア
概要
フアン・ルイス・デ・メディナは、15世紀から16世紀のスペインの男性、聖職者。
在位
アストルガ司教 1489年~1493年3月27日
バダホス司教 1493年3月27日~1495年2月20日
カルタヘナ司教 1495年2月20日~1502年
セゴヴィア司教 1502年~1507年1月30日
年表
1501年12月23日(木)
体調不良のフアン・デ・ボルハ枢機卿に代わって、ミルヴィオ橋の外側までイッポーリト・デステ枢機卿を出迎える。
外部リンク
ベルナルディーノ・ボンジョヴァンニ Bernardino Bongiovanni
- 生没
- 14??年~1509年
概要
ベルナルディーノ・ボンジョヴァンニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ヴェローナ司教 1501年6月14日~1509年
外部リンク
参考文献
アンジェロ・レオニーニ Angelo Leonini
- 生没
- 14??年~1517年
概要
アンジェロ・レオニーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ティヴォリ司教 1499年10月2日~1509年8月3日
サッサーリ大司教 1509年8月3日~1515年
外部リンク
マルコ・コッポラ Marco Coppola
- 生没
- 14??年~1527年
- 父
- フランチェスコ・コッポラ
概要
マルコ・コッポラは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。
在位
モンテペローゾ司教 1498年11月26日~1527年
年表
1486年8月13日
ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナの孫マリーア・ピッコローミニとの結婚のためカステル・ヌオーヴォに赴くが、大広間に花嫁の代わりに兵を連れて入って来たフェッランテ・ダラゴーナにより、男爵たちの陰謀に加担したとして父フランチェスコ・コッポラと共に逮捕され投獄される。
1491年4月
釈放される。
1491年4月24日
修道士になる。
1498年11月26日
モンテペローゾ司教に任命される。
1527年
死。
別表記
Marco Copula
外部リンク
ルカ・リナルディ Luca Rinaldi
- 生没
- 14??年~15??年
概要
ルカ・リナルディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
トリエステ司教 1500年~1501年
外部リンク
参考文献
『君主論』
ラウラ・ボイアルド Laura Boiardo

- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ジューリオ・アスカーニオ・ボイアルド
- 母
- コルネーリア・タッデア・ピオ
概要
ラウラ・ボイアルドは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、スカンディアーノ伯爵令嬢、聖職者。
年表
14??年
生。
1???年~1510年
1511年3月
訪問したベルナルディーノ・デ・プロスペリにイザベッラ・デステから贈られてきた男性の帽子用飾り5つを渡し、金細工師エルコーレ・デイ・フェデーリへの修理の仕方の指示を伝える。
1514年頃
サン・ベルナルディーノ修道院長となる。
15??年
死。
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
イグナティウス・デ・ロヨラ Ignatius de Loyola
- 生没
- 1491年12月24日~1556年7月31日
- 出身
- ロヨラ
- 没地
- ローマ
概要
イグナティウス・デ・ロヨラは、15世紀から16世紀の男性、イエズス会創立者。
年表
1491年12月24日
スペイン北部バスコンガーダス バスク地方ギプスコアのアスペイティア近郊ロヨラ城に生(1491年頃)。
1521年5月20日
フランソワ1世のNavarra攻撃に対してPampelona城塞を守備していたイグナティウス・デ・ロヨラが負傷。その療養中、回心し、「神の騎士」となることを期する。
この頃?、レオ10世は、フランソワ1世のジェノヴァ支配を打倒すべく、ジェノヴァから追放されているアドルノ家などにカール5世から借りた軍を与えてジェノヴァを攻撃させるが、攻撃を察知して防備を固めていたオッタヴィアーノ・フレゴーソ指揮の軍に撃退される。
1534年8月15日
1528年以来パリ大学の学んでいたイグナティウス・デ・ロヨラ、同志F. Xavier、Petrus Faber(Pierre Favre (Lefèvre):1506年~1546年)、Nicolaus Bobadilla(1511年~1590年)、Diego Laynez((Lainez), Jacobus Laynez:1512年~1565年)、Alfonso Salmerón(1515年~1585年)、Simão (de Azevedo) Rodriguez(?~1585年)と共にパリのモンマルトルの丘で清貧、貞潔、聖地巡礼、教皇への絶対服従、救霊事業への献身の誓願を立て、新たな修道会の基を築く。
1537年6月24日
イグナティウス・デ・ロヨラとその同志5名、パウルス3世の格別な計らいと認可により、通常は10年を要する叙任過程を2週間で完了し、司祭に叙任される。
1537年9/10月
パリのモンマルトルにおける誓願(1534年)に従い聖地巡礼に向かうべく1537年1月ヴェネツィアで会したイグナティウス・デ・ロヨラとその同志9名、ヴェネツィア・トルコ両軍の対峙により巡礼船出航が不可能となったため、1年間イタリア各地で使徒活動に従事することに方針を変更すると共にサークルの名称をイエズス信徒会(Compañia de Jesús)と決める。
1539年9月3日
イグナティウス・デ・ロヨラらのイエズス信徒会、正式の修道会としての許可を得るべく、枢機卿G. Contariniを介して5か条からなる会掟草案をパウルス3世に提出。
1539年10/11月
イグナティウス・デ・ロヨラらイエズス信徒会メンバー、1538年と同じく1539年も聖地巡礼船の出航が不可能となったため、その活動の方向をパウルス3世の意に委ねることにし、その決定に従って世界各地での福音宣教に奉仕することを決める。
1541年4月19日~1541年4月23日
イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会初代総長に就任(在位~1556年)。
1548年7月31日
パウルス3世、イエズス会の活動の精神的源泉として自己の魂の浄化、意志の発見、神の意志への完全な献身を説くイグナティウス・デ・ロヨラのEjercicios espirtuales(心霊修業(霊操))を、全篇くまなく敬神の心と至誠に満ちた書だと絶賛し全信徒にこの書から学べと勧奨する勅書を発すると共に、直ちにこの書を刊行させる。
1549年
フランシスコ・ザビエル、日本への伝道開始。
1552年8月31日
自身の発案によるドイツ語圏の司祭の教育のためのCollegium Germanicum(ドイツ学院)の設立が、ユリウス3世により認可される。
1556年7月31日
ローマで死。
本名
Iñigo de Oñez y Loyola
別表記
イグナティウス・ロヨラ
外部リンク
参考文献
『新世紀ビジュアル大辞典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス百科事典』
『ローマ教皇検死録』
『Lucretia Borgia』
ヤコポ・シルヴェストリ Jacopo Silvestri
- 生没
- 14??年~1516年
概要
ヤコポ・シルヴェストリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
アラトリ司教 1493年4月15日~1516年
年表
1494年12月
マリアーノ・サヴェッリ宛てに手紙をしたためる。危険が切迫したことを痛感している人物の不安を示す、苛立ち乱れた文体で、ジューリア・ファルネーゼをできる限り早急にローマから遠ざけるよう努力すべしとの指令をアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿から受け取ったことを知らせる。ジューリア・ファルネーゼは、初めは動きたくないと「頑なに」言い張ったが、最後には勧告に従い、十分な数の馬と確かな護送隊が整い次第出発する用意であるとの意向を表明した。「そこで、早急にご夫人の意を満たしてくださるよう、閣下にお願いいたします。なぜなら、誰にとりましても名誉とはなり得ないことが起こりかねないこの地にジューリア・ファルネーゼが留まるのは嘆かわしいことに思われるからであります。このことはアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿も案じておられ、妹御がローマに留まっておられるのを懸念しておいでなのです。ジューリア・ファルネーゼに出発の手段を与えてくださるよう、心より閣下にお願いいたす次第です・・・・」。
この手紙は現在ヴァティカンの記録保管所にあるため、おそらく、教皇の手勢によって横取りされ、アレクサンデル6世に渡された。
間もなくして、ヤコポ・シルヴェストリはサンタンジェロ城に幽閉され、アレクサンデル6世が死ぬまで忘れ去られる。この手紙が直接の原因ではないかもしれないが、「ボルジア家に疑われたために」と、ある伝記作家は述べた。
別表記
ヤコベッロ・シルヴェストリ、Giacomo de Silvestri
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
フアン・マラデス Juan Marrades
- 生没
- 14??年~1499年
概要
フアン・マラデスは、15世紀頃の男性、聖職者。
在位
ソゴルブ・アルバラシン司教 1499年
別表記
ジョヴァンニ・マルラデス、Giovanni、Marradas
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
ラッツァーロ・スカランピ Lazzaro Scarampi
- 生没
- 1???年~1466年
概要
ラッツァーロ・スカランピは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者。
在位
コモ司教 1460年8月20日~1466年
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
フランチェスコ・ミネルベッティ Francesco Minerbetti
- 生没
- 1???年~15??年
- 父
- トンマーゾ・ミネルベッティ
概要
フランチェスコ・ミネルベッティは、16世紀頃のイタリアの男性、聖職者。
在位
サッサーリ大司教 1515年?~1525年以前
アレッツォ司教 1527年~1537年
年表
1523年
ジューリオ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事、市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇クレメンス7世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、フランチェスコ・ミネルベッティ、フランチェスコ・ヴェットーリ、ロレンツォ・モレッリ、ヤコポ・サルヴィアーティ、ジョヴァンニ・トルナブオーニ、ロレンツォ・ストロッツィ、パッラ・ルチェッライ、ロベルト・アッチャイウオリ、アントーニオ・デ・パッツィ、ガレオット・メディチ、アレッサンドロ・プッチの11名が選出される。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ボナヴェントゥーラ・テウリ Bonaventura Teuli
- 生没
- 1606年3月14日~1670年11月12日
- 出身
- ヴェッレトリ
- 没地
- ヴェッレトリ
概要
ボナヴェントゥーラ・テウリは、17世紀のイタリアの男性、聖職者、文筆家。
在位
ミュラ名義大司教 1655年8月3日~1670年11月12日
コンスタンティノープル教区長 1656年1月7日~1662年2月12日
著作
『歴史舞台ヴェッレトリ』Theatro historico di Velletri
『ローマ管区小フランシスコ会の概略』Aparato minoritico della Provincia Romana
『道徳神学者スコトゥス』Scotus Moralis
『聖ボナヴェントゥーラ学院の熾天使的勝利』Triumphus Seraphicus Collegii S. Bonaventurae
『聖書解釈者スコトゥス』Scotus scripturalis
『無原罪の御宿りの弁護におけるスコトゥスの十の論点』Decachordum Scoticum in difesa dell'Immacolata Concezione
『ギリシャ人の相違点』Diaphora Graecorum
年表
1596年3月14日
ヴェッレトリのサン・クレメンテ教区内で誕生。
1596年3月16日
ジョヴァンニ・バッティスタの名で洗礼を受ける。
1612年3月22日
16歳でコンヴェンツァル派フランシスコ会修道士に入会、ヴィテルボで修道服を着て、ボナヴェントゥーラを名乗る。
161?年
ウルビーノで哲学を、ボローニャで神学を学ぶ。
1620年9月19日
この日までに、司祭として説教と告解の許可を得る。
1626年
ペルージアで説教師及び学長を務める。
1627年
フェッラーラで説教師及び学長を務める。
1630年
『道徳神学者スコトゥス』執筆開始。
1635年
修道会の総会で総書記に選出される。
1638年4月28日
ローマ管区の管区長に任命される。
1638年6月21日
ローマ管区の総代理に任命される。
1643年5月28日
ローマのサンティ・ドーディチ・アポストリ修道院の聖ボナヴェントゥーラ学院院長に就任。
1644年
『歴史舞台ヴェッレトリ』出版。
1648年
『ローマ管区小フランシスコ会の概略』刊行。
1650年
修道会の顧問及び総補佐官となる。
1652年
『道徳神学者スコトゥス』出版。
1655年8月3日
ミュラ名義大司教及びイスタンブール教区長に選出される。
1655年8月19日
ローマのサンティ・ドーディチ・アポストリ大聖堂で司教叙階を受ける。
1655年8月31日
イスタンブールへの旅に出発。
1655年
『聖ボナヴェントゥーラ学院の熾天使的勝利』刊行。
『聖書解釈者スコトゥス』刊行。
1663年
病気と疲労のためイタリアに帰国。
ヴェッレトリのフランシスコ会修道院に隠遁。
『無原罪の御宿りの弁護におけるスコトゥスの十の論点』執筆。
1666年
彼の研究と宣教経験の成果として『ギリシャ人の相違点』刊行。
1670年11月12日
74歳で死。
別表記
Theuli
外部リンク
ジャンカルロ・アントネッリ Giovanni Carlo Antonelli
- 生没
- 1612年~1694年4月20日
- 出身
- 教皇領ヴェッレトリ
- 没地
- フェレンティーノ
概要
ジョヴァンニ・カルロ・アントネッリは、17世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
フェレンティーノ司教 1677年~1694年
年表
1635年7月29日
司教に叙階される。
1677年1月24日
ファブリツィオ・スパーダ枢機卿により、司教に叙階される。
別表記
Giovanni Carlo Antonelli
外部リンク
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2025年1月26日