Clero

聖職者

バルバラ Santa Barbara

生没
2??年~
ディアスコロス

概要

 聖バルバラは、3世紀頃の女性、聖人。

持ち物

 3つの窓をもつ塔、棕櫚の枝、孔雀の羽根、剣、聖杯、稲妻、本

守護対象

 建築家、石工、砲手、消防士、鉱夫、囚人

題材作品

別表記

 聖バルバラ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

セバスティアヌス Sebastianus

生没
2??年~287年1月20日
祝日
1月20日
守護都市
カゼルタ

概要

 セバスティアヌスは、3世紀の男性、聖人、殉教者。

守護対象

 兵士、黒死病。

題材作品

外部リンク

 ウィキペディア

アンブロジウス Ambrosius

生没
340年?~397年4月4日
祝日
12月7日
守護都市
ミラノ

概要

 アンブロジウスは、4世紀の男性、四大ラテン教父の1人。

肖像

別表記

 アンブロシウス、アンブロジュウス、アンブロジオ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

ベネディクトゥス Benedictus de Nursia

生没
480年3月2日~547年3月21日
出身
ノルシア
没地
モンテカッシーノ
祝日
3月21日

概要

 ベネディクトゥスは、キリスト教の聖人で、西欧最古の修道会であるベネディクト会の創立者。

題材作品

外部リンク

 ウィキペディア

ピエール・アベラール Pierre Abélard

生没
1079年~1142年4月21日
エロイーズ

概要

 ピエール・アベラールは、11世紀~12世紀の男性。

関連項目

 The Borgias: 103, 106

外部リンク

 THE BORGIAS wiki
 ウィキペディア

ウバルド・バルダッシーニ Ubaldo Baldassini

生没
1084年~1160年5月16日
出身
グッビオ
没地
グッビオ

概要

 ウバルド・バルダッシーニは、11世紀から12世紀のイタリアの男性、聖職者。1192年列聖される。

在位

 グッビオ司教

外部リンク

 Wikipedia

フランチェスコ・ダッシジ San Francesco d'Assisi

生没
1181/82年~1226年10月3日

概要

 フランチェスコ・ダッシジは、12世紀~13世紀の男性。

年表

1219年

第5次十字軍が駐留するエジプトに到着。

供を1人連れただけでスルタンのメレク・アル=カーミルと会見。この席でフランチェスコ・ダッシジはイスラム法学者との対決を望み、神明裁判を持ちかける。すなわち、燃え盛る炎の上を歩いてどちらに神の庇護があるかを競おうという火の試練である。フランチェスコ・ダッシジは先に自分が渡って無事であったらキリスト教へ改宗するようスルタンに迫るが、スルタンがこれを拒否したため、誰も渡らず。

肖像

別表記

 聖フランチェスコ、アッシジのフランチェスコ

外部リンク

 ウィキペディア
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『修道院』
 『服飾の中世』
 『マキアヴェリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『Lucretia Borgia

カテリーナ・ダ・シエナ Caterina da Siena

生没
1347年3月25日~1380年4月29日
出身
シエナ
没地
ローマ

概要

 カテリーナ・ダ・シエナは、14世紀のイタリアの女性。

埋葬地

別表記

 聖女カテリーナ、St. Catherine of SienaCaterina di Jacopo di Benincasa

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『快楽の中世史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルネサンスの歴史』
 『Lucretia Borgia

ヴィンチェンツォ・フェッレーリ Vincenzo Ferreri

生没
1350年1月23日~1419年4月5日
出身
ヴァレンシア

概要

 ヴィンチェンツォ・フェッレーリは、14世紀から15世紀の男性、ドミニコ会修道士。

年表

1455年6月3日

サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂で、カリストゥス3世により列聖される。

肖像

別表記

 フェルレーリ、ウィンケンティウス・フェレリウス、ビセンテ・フェレール

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ベルナルディーノ・ダ・シエナ Bernardino da Siena

生没
1380年9月8日~1444年5月20日
出身
マッサ・マリッティマ
没地
ラクイラ

概要

 ベルナルディーノ・ダ・シエナは、14世紀から15世紀の男性、聖職者。1450年5月24日、教皇ニコラウス5世により列聖。

題材作品

外部リンク

 Wikipedia

ジョヴァンニ・カピストラーノ Giovanni Capistrano

生没
1386年~1456年10月23日

概要

 フランシスコ会修道士、説教師、神学者。

年表

1456年7月14日~7月21/22日

ハンガリー制圧を狙ってNándor Fehérvár(現ベオグラード)を襲撃してきたマホメッド2世指揮のオスマン・トルコの大軍に対し、教皇使節である自身らの呼びかけに応じて結集した貧農、貧民、学生らからなる大軍が、フニャディ・ヤーノシュ指揮の教会軍と共に十字軍を構成して勝利を収め、ハンガリーを防衛。

1456年8月11日

フニャディ・ヤーノシュ、ペストで死。

1456年10月23日

ペストで死。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『イタリア・ルネサンスの文化』

アントニーノ・ピエロッツィ Antonino Pierozzi

生没
1389年3月1日~1459年5月2日
出身
フィレンツェ
没地
モントゥーギ

概要

 アントニーノ・ピエロッツィは14世紀~15世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ドミニコ会総長 1433年~1443年
 フィレンツェ大司教 1446年~1459年5月2日

年表

1437年

コジモ・イル・ヴェッキオの大きな協力を得てサン・マルコ修道院の修築を始める。

1444年

アントニーノ・ピエロッツィは、コジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援の下、コジモ・イル・ヴェッキオが指定し雇ったミケロッツォ(1396年~)の設計、指揮により、サン・マルコ修道院・聖堂を再建。

1458年7月2日~7月31日

メディチ家に対抗心を燃やしながらもコジモ・イル・ヴェッキオの威勢に服しているルカ・ピッティは、1458年7月~8月の正義の旗手に就くや直ちに共和政の事実上の変改を試み続けるがジローラモ・マキアヴェッリらの強い反対で斥けられる。

この間、かねてからコジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援を受けてきたサン・マルコ修道院のアントニーノ・ピエロッツィは、敢然として自ら筆を取って国法遵守誓約違反及び共和政変改を非難する文書を書き、主要教会に張り出す。

1459年5月2日

ドミニコ会総長(1433年~1444年)でこの年までにSumma teologiae(別名Summa moralis:(倫理)神学大全)を完成させた(1440年~)アントニーノ・ピエロッツィ、フィレンツェで死(1389年~)。(1523年聖人に列せされ、Sant'Antoninoと通称される)

1477年

アントニーノ・ピエロッツィの遺作Summa teologiae(別名Summa moralis:(倫理)神学大全)、ヴェネツィアとドイツ・シュパイアーで刊。以後15年の間にこの作、ヴェネツィアで次々と版を重ねた他スイス・バーゼルでも版を重ねて刊。

1484年

アントニーノ・ピエロッツィの遺作Chronicon(年代記(別名Summa historialis:歴史大全)、ニュルンベルクで刊。以後この作、1491年バーゼルで刊の他1517年以降リヨンで版を重ねて刊。

1523年

聖アントニヌスとして列聖される。

外部リンク

 Catholic Encyclopedia
 EWTN
 GCatholic.com
 Saints.SQPN.com
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

マリアーノ・ダ・ジェナッツァーノ Mariano da Genazzano

生没
1412年~1498年12月14日
出身
ジェナッツァーノ
没地
セッサ

概要

 マリアーノ・ダ・ジェナッツァーノは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、アウグスティーノ会修道士。
 仲間であるアウレリオ・ブランドリーニと共に当時の最も優れた説教者の1人と見なされ、その雄弁さと博学さから、アンジェロ・ポリツィアーノから賞賛される。1482年からレッチェトの会衆と繋がりがあり、修道会内で戒律厳守と公益に尽力することへの回帰を提唱し、祈りと典礼の実践を通じて野心と個性から逃れることを提唱した戒律主義の改革の代表者である。
 ジローラモ・サヴォナローラの時代、修道会の副総長としてフィレンツェメディチ家側に付き、ドミニコ会修道士に対抗。アウグスティーノ修道会に報いるために、ロレンツォ・イル・マニーフィコはサン・ガッロ教会に修道院を建てたと考えられている。
 1497年5月、修道会総本部から総長に任命され、大胆な改革計画を立てるも、最初はロンバルディアの会衆の反対によって、そして彼の死によって頓挫した。実際、1498年12月14日にナポリへの旅行中にセッサ・アウンカで亡くなった。

年表

1491年10月

フェッラーラのサンタンドレア修道院に自分の独房が建設され、それを監督。

1491年10月

エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。ジルフレード・デ・カバッリを殺し有罪判決を受けたニッコロ・ダ・ヴェローナを、悔悛して修道士になることを希望しているため赦免するよう嘆願。

1494年

四旬節フェッラーラ大聖堂で説教。ユダヤ人の金貸しに反対。

1497年5月

アウグスティーノ修道会総本部により、総長に任命される。

1498年12月14日

ナポリへの途上、セッサにて死。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ブランダ・カスティリオーネ Branda Castiglione

生没
1415年~1487年7月16日
出身
ミラノ
没地
ローマ
ヤコポ・カスティリオーネ

概要

 ブランダ・カスティリオーネは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者。

在位

 コモ司教 1466年10月8日~1487年7月16日

年表

1487年7月16日

ローマにて、死(1487年7月15日)。

別表記

 ブランダ・カスティリオーニ、Branda da CastiglioneCastiglioni

外部リンク

 GCatholic.com
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『April Blood

ステファノ・バニョーネ Stefano da Bagnone

生没
1418年~1479年
ニッコロ・ピオヴァーノ・ダ・バニョーネ

概要

 ステファノ・バニョーネは、15世紀のイタリアの男性。

別表記

 ステーファノ・ダ・バリョーネ

外部リンク

 The Assassin's Creed Wiki
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

アントーニオ・マッフェイ Antonio Maffei

生没
1450年~1478年
ゲラルド・マッフェイ

概要

 アントーニオ・マッフェイは、15世紀のイタリアの男性。

別表記

 フラーテ・アントーニオ、アントーニオ・デ・マックェイ

外部リンク

 The Assassin's Creed Wiki
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

フアン・ロドリゲス・デ・フォンセカ Juan Rodríguez de Fonseca

生没
1451年~1524年3月4日

概要

 フアン・ロドリゲス・デ・フォンセカは、15世紀から16世紀の男性。

関連項目

 The Borgias: 108

外部リンク

 Wikipedia

ジョヴァンニ・オリヴィエーリ Giovanni Olivieri

生没
14??年~1510年

概要

 ジョヴァンニ・オリヴィエーリは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。

在位

 イゼルニア司教 1500年4月8日~1510年

年表

1500年10月

パンドルフォ4世・マラテスタリーミニ出発の日、チェーザレ・ボルジアによる無血開城を祝って大聖堂で荘厳ミサが歌われ、ジョヴァンニ・オリヴィエーリがリーミニの教会に対する忠誠の誓いを受ける。

この後すぐ、リーミニは教皇アレクサンデル6世に使節を送り、パンドルフォ4世・マラテスタからの解放を感謝する。

別表記

 ジョヴァンニ・オリビエーリ

外部リンク

 Catholic-Hierarchy
 GCatholic.com
 Wikipedia

参考文献

 『The Life of Cesare Borgia

アレッシオ・チェラドーニ Alessio Celadoni di Celadonia

生没
14??年~1517年
没地
モルフェッタ

概要

 アレッシオ・チェラドーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ガッリーポリ司教 1494年~1508年
 モルフェッタ司教 1508年6月7日~1517年

外部リンク

 Wikipedia

シルヴェストロ・デ・ジーリ Silvestro de' Gigli

生没
14??年~1521年4月16日
出身
ルッカ

概要

 シルヴェストロ・デ・ジーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。ローマ駐在イングランド王使節。

在位

 ウスター司教 1498年12月24日~1521年4月16日

年表

1501年12月23日(木)

イッポーリト・デステ枢機卿のローマ入場に同行。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ヨハン・ブルカルトの日記

パリーデ・グラッシ Paride Grassi

生没
14??年~1528年6月10日
出身
ボローニャ
没地
ローマ

概要

 パリーデ・グラッシは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 教皇庁儀典長 1504年~1528年
 ペーザロ司教 1513年~1528年

年表

1450~1460年頃

ボローニャにて、生。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ヤコポ・ペーザロ Jacopo Pesaro

生没
1460年~1547年

概要

 ヤコポ・ペーザロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 パフォス司教 1495年?~1547年

年表

1495年7月3日?

パフォス司教に就任(1498年4月25日)。

1497年9月6日(水)

朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂ナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを、枢機卿団と共に迎える。

1501年5月

ヤコポ・ペーザロはスペイン軍とともにダーダネルス海峡まで進軍し、フランス軍はミティレーニを包囲。

1501年5月13日

ブダ条約:ヴェネツィア共和国は、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォ及び教皇アレクサンデル6世と同盟を結ぶ。ダルマチア防衛に対する軍事支援と引き換えに、ハンガリーに年間14万ドゥカートの支払いが定められる。

1502年

ヴェネツィア共和国がオスマン・トルコと和平することを恐れた教皇アレクサンデル6世により、ガレー船20隻(13隻)の指揮を任される。

1502年8月30日

サンタ・マウラの戦いで、教皇軍とヴェネツィア共和国軍がオスマン・トルコ軍に勝利(1502年6月28日)。

1503年8月18日(金)

アレクサンデル6世、死。

1506年

ヴェネツィア到着。

1542年

遺言書を作成。故アレクサンデル6世の魂に捧げるミサを行うためのお金を残す。

肖像

埋葬地

別表記

 Giacomo PesaroJacopo Pisauroepiscopus Paphensis

外部リンク

 Catholic-Hierarchy
 Google Books
 Google Books

参考文献

 『ルネッサンスの光と闇』

スオール・コロンバ Suor Colomba

生没
1467年2月2日~1501年5月20日
出身
リエーティ
没地
教皇領ペルージア

概要

 スオール・コロンバは、15世紀から16世紀の女性。

年表

1488年

ペルージア到着。

別表記

 Colomba da Rieti

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『The Life of Cesare Borgia

トンマーゾ・インギラーミ Tommaso Inghirami

生没
1470年~1516年9月5日
出身
ヴォルテッラ
没地
ローマ

概要

 トンマーゾ・インギラーミは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1498年1月16日

ナヴォーナ広場のサン・ヤコポ・デリ・スパニョーリ教会にて、インファンテ・ロマーノのために演説を行う。

別表記

 フェードラ・インギラミ、PhaedraPhaedrusFedra

外部リンク

 Google Books - Contemporaries of Erasmus
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『Lucretia Borgia

ゴーロ・ゲーリ Goro Gheri

生没
1470年頃~1528年
出身
ピストイア
没地
ボローニャ

概要

 ゴーロ・ゲーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ファーノ司教 1518年~1528年

別表記

 Gregorio GhieriGieri

外部リンク

 GCatholic.com
 Treccani

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『メディチ家』

ジョヴァンニ・ネローニ Giovanni Neroni

生没
1???年~1473年7月18日
出身
フィレンツェ
没地
ローマ
ネローネ・ネローニ
レオナルダ・クレーシ

概要

 ジョヴァンニ・ネローニは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ヴォルテッラ司教 1450年~1461年
 フィレンツェ大司教 1462年~1473年7月18日

別表記

 ジョヴァンニ・ネッロ

外部リンク

 GCatholic.com
 Treccani

参考文献

 『メディチ家の人びと』

コズメ・デ・モンセラート Cosme de Montserrat

生没
14??年~1473年
出身
ラ・セルヴァ・デル・カンプ

概要

 コズメ・デ・モンセラートは、15世紀のカタルーニャ出身の男性、聖職者。教皇カリストゥス3世の時代にヴァティカン図書館司書として、目録を作成し、拡大し、改善した。

在位

 ジローナ司教 1458年~1459年
 ヴィク司教 1459年~1464年、1472年~1473年

年表

1451年

オイバルの戦いで捕虜となったヴィアナ公カルロス・デ・トラスタマラを擁護し、釈放時に同行。

1455年4月4日

アルフォンス・デ・ボルジャ枢機卿の側近と共にヴァティカンに到着。

1461年9月23日

ヴィアナ公カルロス・デ・トラスタマラがバルセロナにて死。

聖性を主張。

1462年6月

カンプはコズメ・デ・モンセラートの指導の下にフアン2世・デ・アラゴンに反乱し、対抗することを宣言し、王と大司教の支配から脱する。

1462年9月

カンプが王国軍に敗れて占拠され、大司教の支配下に置かれる。

別表記

 コジモ・デ・モントセラト、コシモ

外部リンク

 GCatholic.com
 Viquipèdia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ジェンティーレ・ベッキ Gentile Becchi

生没
14??年~1497年
出身
ウルビーノ
没地
アレッツォ

概要

 ジェンティーレ・ベッキはロレンツォ・イル・マニーフィコの5歳の頃からの家庭教師、後に外交官に転ずる。

在位

 アレッツォ司教 1473年10月20日~1497年

著作

 『フィレンツェ司教会議』

年表

1478年11月4日

カファッジョーロでフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの書記であるフェデリーコ・ガッリ宛書簡をしたためる。フィレンツェ共和国は被害者なのであり、初めに仕掛けたのはこちら側ではないと主張する。

外部リンク

 GCatholic.com
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネッサンス夜話』
 『メディチ家』
 『フィレンツェ史』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

バルトロメオ・フローレス Bartolomeo Flores

生没
14??年~1498年7月23日

概要

 バルトロメオ・フローレスは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ネピ・ストリ司教 1489年8月21日~1495年8月4日
 コゼンツァ大司教 1495年8月4日~1497年9月14日

年表

1489年9月8日

司教。

1497年9月14日

教皇アレクサンデル6世により、教皇秘書官の召使3人と共に20の小勅書を捏造したとして、サンタンジェロ城に投獄される。

死ぬまで暗い部屋で、ランプの油とパンと水が与えられた。

1497年10月

カンポ・デ・フィオーリ広場にて、3人の召使が火刑にされる。

別表記

 Bartholomeo Florido

外部リンク

 Catholic-Hierarchy
 GCatholic.com
 Treccani

参考文献

 『ヨハン・ブルカルトの日記
 『The Life of Cesare Borgia

フェルナンド・デ・アルメイダ Fernando de Almeida

生没
14??年~1500年1月7日

概要

 フェルナンド・デ・アルメイダは、15世紀のポルトガル人男性、聖職者。

在位

 セウタ(スペイン)司教 1493年7月19年~1499年6月19日
 ヌヴェール(フランス)司教 1499年6月19年~1500年1月7日以前

性格

 野心家で貪欲な甚だいかがわしい人物。

年表

1499年

シャルロット・ダルブレとの結婚話に際して、どんな代償によってかは不明であるが、チェーザレ・ボルジアを援助。

1500年1月7日

ロマーニャのチェーザレ・ボルジアの野営地での自身の部屋で死。

別表記

 フェルディナンド・ダルメイダ

外部リンク

 GCatholic.com

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ペドロ・デ・アランダ Pedro de Aranda

生没
14??年~1500年8月8日
没地
ローマ

概要

 ペドロ・デ・アランダは、14世紀のスペイン出身の男性、聖職者。

在位

 カラホラ・カルサーダ司教 1477年~1494年

外部リンク

 GCatholic.org
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ジローラモ・ポルカリ Girolamo Porcari

生没
14??年~1503年
ドメニコ・ポルカリ
ジョヴァンナ・デッラ・ヴァッレ

概要

 ジローラモ・ポルカリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 アンドリア司教 1495年~1503年

年表

1492年

アレクサンデル6世により、教皇庁控訴院院長に任命される。

1493年9月18日

Commentarius Porciusローマで出版。スペイン王と王妃に献呈。この中で、教皇に即位したアレクサンデル6世と、彼に忠節を誓うイタリア各国の大使について書いている。

著作

 『Commentarius Porcius

別表記

 Geronimo PorcariHieronymus Porcius

外部リンク

 GCatholic.com
 Google Books
 Google Books

参考文献

 『ヨハン・ブルカルトの日記
 『Lucretia Borgia

ジョヴァンニ・サッコ Giovanni Sacco

生没
14??年~1505年

概要

 ジョヴァンニ・サッコは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ラグサ大司教 1490年8月29日~1505年
 アンコーナ・ヌマーナ教区長 1502年7月15日~1505年

年表

1501年12月23日(木)

イッポーリト・デステローマ入場を出迎える。

別表記

 Giovanni de Sacchis

外部リンク

 Catholic-Hierarchy
 GCatholic.com

レオネッロ・キエリカート Leonello Chiericato

生没
14??年~1506年8月19日

概要

 レオネッロ・キエリカートは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 アルバ司教 1472年1月8日~1484年1月19日
 トロギル司教 1484年1月19日~1488年10月22日
 コンコルディア司教 1488年10月22日~1506年8月19日

外部リンク

 GCatholic.com
 Treccani

参考文献

 『Lucretia Borgia

フアン・ルイス・デ・メディナ Juan Ruiz de Medina

生没
14??年~1507年1月30日
出身
メディナ・デル・カンポ
没地
セゴヴィア

概要

 フアン・ルイス・デ・メディナは、15世紀から16世紀のスペインの男性、聖職者。

在位

 アストルガ司教 1489年~1493年3月27日
 バダホス司教 1493年3月27日~1495年2月20日
 カルタヘナ司教 1495年2月20日~1502年
 セゴヴィア司教 1502年~1507年1月30日

年表

1501年12月23日(木)

体調不良のフアン・デ・ボルハ枢機卿に代わって、ミルヴィオ橋の外側までイッポーリト・デステ枢機卿を出迎える。

外部リンク

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 Wikipedia

ベルナルディーノ・ボンジョヴァンニ Bernardino Bongiovanni

生没
14??年~1509年

概要

 ベルナルディーノ・ボンジョヴァンニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ヴェローナ司教 1501年6月14日~1509年

外部リンク

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参考文献

 『Lucretia Borgia

アンジェロ・レオニーニ Angelo Leonini

生没
14??年~1517年

概要

 アンジェロ・レオニーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ティヴォリ司教 1499年10月2日~1509年8月3日
 サッサーリ大司教 1509年8月3日~1515年

外部リンク

 Catholic-Hierarchy
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 Treccani

マルコ・コッポラ Marco Coppola

生没
14??年~1527年
フランチェスコ・コッポラ

概要

 マルコ・コッポラは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。

在位

 モンテペローゾ司教 1498年11月26日~1527年

年表

1486年8月13日

ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナの孫マリーア・ピッコローミニとの結婚のためカステル・ヌオーヴォに赴くが、大広間に花嫁の代わりに兵を連れて入って来たフェッランテ・ダラゴーナにより、男爵たちの陰謀に加担したとして父フランチェスコ・コッポラと共に逮捕され投獄される。

1491年4月

釈放される。

1491年4月24日

修道士になる。

1498年11月26日

モンテペローゾ司教に任命される。

1527年

死。

別表記

 Marco Copula

外部リンク

 Academia.edu
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ルカ・リナルディ Luca Rinaldi

生没
14??年~15??年

概要

 ルカ・リナルディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 トリエステ司教 1500年~1501年

外部リンク

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参考文献

 『君主論』

ラウラ・ボイアルド Laura Boiardo

生没
14??年~15??年
ジューリオ・アスカーニオ・ボイアルド
コルネーリア・タッデア・ピオ

概要

 ラウラ・ボイアルドは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、スカンディアーノ伯爵令嬢、聖職者。

年表

14??年

生。

1???年~1510年

コルプス・ドミニ修道院長。

1511年3月

訪問したベルナルディーノ・デ・プロスペリにイザベッラ・デステから贈られてきた男性の帽子用飾り5つを渡し、金細工師エルコーレ・デイ・フェデーリへの修理の仕方の指示を伝える。

1514年頃

サン・ベルナルディーノ修道院長となる。

15??年

死。

外部リンク

 Google Books

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

イグナティウス・デ・ロヨラ Ignatius de Loyola

生没
1491年12月24日~1556年7月31日
出身
ロヨラ
没地
ローマ

概要

 イグナティウス・デ・ロヨラは、15世紀から16世紀の男性、イエズス会創立者。

年表

1491年12月24日

スペイン北部バスコンガーダス バスク地方ギプスコアのアスペイティア近郊ロヨラ城に生(1491年頃)。

1521年5月20日

フランソワ1世Navarra攻撃に対してPampelona城塞を守備していたイグナティウス・デ・ロヨラが負傷。その療養中、回心し、「神の騎士」となることを期する。

この頃?、レオ10世は、フランソワ1世のジェノヴァ支配を打倒すべく、ジェノヴァから追放されているアドルノ家などにカール5世から借りた軍を与えてジェノヴァを攻撃させるが、攻撃を察知して防備を固めていたオッタヴィアーノ・フレゴーソ指揮の軍に撃退される。

1534年8月15日

1528年以来パリ大学の学んでいたイグナティウス・デ・ロヨラ、同志F. XavierPetrus FaberPierre Favre (Lefèvre):1506年~1546年)、Nicolaus Bobadilla(1511年~1590年)、Diego Laynez((Lainez), Jacobus Laynez:1512年~1565年)、Alfonso Salmerón(1515年~1585年)、Simão (de Azevedo) Rodriguez(?~1585年)と共にパリのモンマルトルの丘で清貧、貞潔、聖地巡礼、教皇への絶対服従、救霊事業への献身の誓願を立て、新たな修道会の基を築く。

1537年6月24日

イグナティウス・デ・ロヨラとその同志5名、パウルス3世の格別な計らいと認可により、通常は10年を要する叙任過程を2週間で完了し、司祭に叙任される。

1537年9/10月

パリのモンマルトルにおける誓願(1534年)に従い聖地巡礼に向かうべく1537年1月ヴェネツィアで会したイグナティウス・デ・ロヨラとその同志9名、ヴェネツィア・トルコ両軍の対峙により巡礼船出航が不可能となったため、1年間イタリア各地で使徒活動に従事することに方針を変更すると共にサークルの名称をイエズス信徒会(Compañia de Jesús)と決める。

1539年9月3日

イグナティウス・デ・ロヨラらのイエズス信徒会、正式の修道会としての許可を得るべく、枢機卿G. Contariniを介して5か条からなる会掟草案をパウルス3世に提出。

1539年10/11月

イグナティウス・デ・ロヨラらイエズス信徒会メンバー、1538年と同じく1539年も聖地巡礼船の出航が不可能となったため、その活動の方向をパウルス3世の意に委ねることにし、その決定に従って世界各地での福音宣教に奉仕することを決める。

1541年4月19日~1541年4月23日

イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会初代総長に就任(在位~1556年)。

1548年7月31日

パウルス3世、イエズス会の活動の精神的源泉として自己の魂の浄化、意志の発見、神の意志への完全な献身を説くイグナティウス・デ・ロヨラのEjercicios espirtuales(心霊修業(霊操))を、全篇くまなく敬神の心と至誠に満ちた書だと絶賛し全信徒にこの書から学べと勧奨する勅書を発すると共に、直ちにこの書を刊行させる。

1549年

フランシスコ・ザビエル、日本への伝道開始。

1552年8月31日

自身の発案によるドイツ語圏の司祭の教育のためのCollegium Germanicum(ドイツ学院)の設立が、ユリウス3世により認可される。

1556年7月31日

ローマで死。

本名

 Iñigo de Oñez y Loyola

別表記

 イグナティウス・ロヨラ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『新世紀ビジュアル大辞典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス百科事典』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia

ヤコポ・シルヴェストリ Jacopo Silvestri

生没
14??年~1516年

概要

 ヤコポ・シルヴェストリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 アラトリ司教 1493年4月15日~1516年

年表

1494年12月

マリアーノ・サヴェッリ宛てに手紙をしたためる。危険が切迫したことを痛感している人物の不安を示す、苛立ち乱れた文体で、ジューリア・ファルネーゼをできる限り早急にローマから遠ざけるよう努力すべしとの指令をアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿から受け取ったことを知らせる。ジューリア・ファルネーゼは、初めは動きたくないと「頑なに」言い張ったが、最後には勧告に従い、十分な数の馬と確かな護送隊が整い次第出発する用意であるとの意向を表明した。「そこで、早急にご夫人の意を満たしてくださるよう、閣下にお願いいたします。なぜなら、誰にとりましても名誉とはなり得ないことが起こりかねないこの地にジューリア・ファルネーゼが留まるのは嘆かわしいことに思われるからであります。このことはアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿も案じておられ、妹御がローマに留まっておられるのを懸念しておいでなのです。ジューリア・ファルネーゼに出発の手段を与えてくださるよう、心より閣下にお願いいたす次第です・・・・」。

この手紙は現在ヴァティカンの記録保管所にあるため、おそらく、教皇の手勢によって横取りされ、アレクサンデル6世に渡された。

間もなくして、ヤコポ・シルヴェストリはサンタンジェロ城に幽閉され、アレクサンデル6世が死ぬまで忘れ去られる。この手紙が直接の原因ではないかもしれないが、「ボルジア家に疑われたために」と、ある伝記作家は述べた。

別表記

 ヤコベッロ・シルヴェストリ、Giacomo de Silvestri

外部リンク

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参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

フアン・マラデス Juan Marrades

生没
14??年~1499年

概要

 フアン・マラデスは、15世紀頃の男性、聖職者。

在位

 ソゴルブ・アルバラシン司教 1499年

別表記

 ジョヴァンニ・マルラデス、GiovanniMarradas

外部リンク

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参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

ラッツァーロ・スカランピ Lazzaro Scarampi

生没
1???年~1466年

概要

 ラッツァーロ・スカランピは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者。

在位

 コモ司教 1460年8月20日~1466年

外部リンク

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参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

フランチェスコ・ミネルベッティ Francesco Minerbetti

生没
1???年~15??年
トンマーゾ・ミネルベッティ

概要

 フランチェスコ・ミネルベッティは、16世紀頃のイタリアの男性、聖職者。

在位

 サッサーリ大司教 1515年?~1525年以前
 アレッツォ司教 1527年~1537年

年表

1523年

ジューリオ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事、市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。

新教皇クレメンス7世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、フランチェスコ・ミネルベッティ、フランチェスコ・ヴェットーリロレンツォ・モレッリヤコポ・サルヴィアーティ、ジョヴァンニ・トルナブオーニ、ロレンツォ・ストロッツィ、パッラ・ルチェッライロベルト・アッチャイウオリ、アントーニオ・デ・パッツィ、ガレオット・メディチ、アレッサンドロ・プッチの11名が選出される。

外部リンク

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参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ボナヴェントゥーラ・テウリ Bonaventura Teuli

生没
1606年3月14日~1670年11月12日
出身
ヴェッレトリ
没地
ヴェッレトリ

概要

 ボナヴェントゥーラ・テウリは、17世紀のイタリアの男性、聖職者、文筆家。

在位

 ミュラ名義大司教 1655年8月3日~1670年11月12日
 コンスタンティノープル教区長 1656年1月7日~1662年2月12日

著作

 『歴史舞台ヴェッレトリ』Theatro historico di Velletri
 『ローマ管区小フランシスコ会の概略』Aparato minoritico della Provincia Romana
 『道徳神学者スコトゥス』Scotus Moralis
 『聖ボナヴェントゥーラ学院の熾天使的勝利』Triumphus Seraphicus Collegii S. Bonaventurae
 『聖書解釈者スコトゥス』Scotus scripturalis
 『無原罪の御宿りの弁護におけるスコトゥスの十の論点』Decachordum Scoticum in difesa dell'Immacolata Concezione
 『ギリシャ人の相違点』Diaphora Graecorum

年表

1596年3月14日

ヴェッレトリのサン・クレメンテ教区内で誕生。

1596年3月16日

ジョヴァンニ・バッティスタの名で洗礼を受ける。

1612年3月22日

16歳でコンヴェンツァル派フランシスコ会修道士に入会、ヴィテルボで修道服を着て、ボナヴェントゥーラを名乗る。

161?年

ウルビーノで哲学を、ボローニャで神学を学ぶ。

1620年9月19日

この日までに、司祭として説教と告解の許可を得る。

1626年

ペルージアで説教師及び学長を務める。

1627年

フェッラーラで説教師及び学長を務める。

1630年

『道徳神学者スコトゥス』執筆開始。

1635年

修道会の総会で総書記に選出される。

1638年4月28日

ローマ管区の管区長に任命される。

1638年6月21日

ローマ管区の総代理に任命される。

1643年5月28日

ローマのサンティ・ドーディチ・アポストリ修道院の聖ボナヴェントゥーラ学院院長に就任。

1644年

『歴史舞台ヴェッレトリ』出版。

1648年

『ローマ管区小フランシスコ会の概略』刊行。

1650年

修道会の顧問及び総補佐官となる。

1652年

『道徳神学者スコトゥス』出版。

1655年8月3日

ミュラ名義大司教及びイスタンブール教区長に選出される。

1655年8月19日

ローマのサンティ・ドーディチ・アポストリ大聖堂で司教叙階を受ける。

1655年8月31日

イスタンブールへの旅に出発。

1655年

『聖ボナヴェントゥーラ学院の熾天使的勝利』刊行。

『聖書解釈者スコトゥス』刊行。

1663年

病気と疲労のためイタリアに帰国。

ヴェッレトリのフランシスコ会修道院に隠遁。

『無原罪の御宿りの弁護におけるスコトゥスの十の論点』執筆。

1666年

彼の研究と宣教経験の成果として『ギリシャ人の相違点』刊行。

1670年11月12日

74歳で死。

別表記

 Theuli

外部リンク

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 Google Books
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ジャンカルロ・アントネッリ Giovanni Carlo Antonelli

生没
1612年~1694年4月20日
出身
教皇領ヴェッレトリ
没地
フェレンティーノ

概要

 ジョヴァンニ・カルロ・アントネッリは、17世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 フェレンティーノ司教 1677年~1694年

年表

1635年7月29日

司教に叙階される。

1677年1月24日

ファブリツィオ・スパーダ枢機卿により、司教に叙階される。

別表記

 Giovanni Carlo Antonelli

外部リンク

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記載日

更新日

 2025年1月26日