フランシスカ・マルティ Francisca Marti
- 生没
- 1???年~1370年頃
- 出身
- ヴァレンシア
- 没地
- ヴァレンシア
- 夫
- ドミンゴ・デ・ボルハ・イ・ドンセル
- 子
- カリストゥス3世
イサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ
カテリーナ・デ・ボルハ
概要
フランシスカ・マルティは、14世紀頃のスペインの男性。
別表記
Francisca Marti Llançol、Francina
外部リンク
Famille de Carné
JDA's Family Tree
参考文献
エシメン・ペレス・ロイス・デ・コレリャ Eiximèn Peres Roíç de Corella i de Santacoloma

- 生没
- 1396年~1457年
- 父
- ジョアン・ロイス・デ・コレリャ
- 母
- イサベル・リャンソル?
- 妻
- ベアトリウ・リャンソル
- 子
- ミケル・ロイス・デ・コレリャ
ジョアン・ロイス・デ・コレリャ
クリストフォル・ロイス・デ・コレリャ
ヘクトル・ペレス・ロイス・デ・コレリャ
概要
エシメン・ペレス・ロイス・デ・コレリャは、14世紀から15世紀のスペインの男性。
在位
第1代コセンタイナ伯爵 1448年~1457年
年表
別表記
Eiximèn Peris de Corella、Ximén Pérez de Corella、Roís de Corella、Jimeno Pérez de Corella
外部リンク
Geneanet
RACO.cat
RACO.cat
Revistas Científicas Complutenses
Viquipèdia
イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサ Íñigo López de Mendoza
- 生没
- 1398年8月19日~1458年3月25日
- 出身
- Carrión de los Condes
- 没地
- グアダラハラ
- 子
- ペドロ・ゴンサレス・デ・メンドーサ
概要
イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサは、14世紀から15世紀の男性、人文主義者、詩人、サンティリャーナ侯爵。
在位
第1代サンティリャーナ侯
年表
1398年
スペインのCarrión de los Condesにて、生。
1458年3月25日
スペイン中部グアダラハラにて、死。
別表記
イニゴ
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジョアン・ロイス・デ・コレリャ Joan Roíç de Corella i Llançol de Romaní

- 生没
- 1419年~1478年
- 父
- エシメン・ペレス・ロイス・デ・コレリャ
- 母
- ベアトリウ・リャンソル
- 妻
- ベアトリウ・センテリェス
フランセスカ・デ・モンカーダ - 子
- ジョアン・ロイス・デ・コレリャ
ロデリク・ロイス・デ・コレリャ
概要
ジョアン・ロイス・デ・コレリャは、15世紀のスペインの男性。
在位
第2代コセンタイナ伯爵 1457年~1478年
年表
1419年
生(1417年頃)。
1478年
死(1479年)。
別表記
Juan Ruiz de Corella
外部リンク
Geneanet
RACO.cat
RACO.cat
Enciclopèdia.cat
Revistas Científicas Complutenses
Universidad de Alicante
Viquipèdia
ディエゴ・ロペス・デ・アロー Diego López de Haro
- 生没
- 1438年頃~1525年12月18日
- 没地
- コルドバ?
- 父
- フアン・アロンソ・デ・アロー
- 母
- アルドンサ・デ・メンドーサ
- 妻
- ジネブラ・アクーニャ
概要
ディエゴ・ロペス・デ・アローは、15世紀頃のスペインの男性。
年表
別表記
ディエゴ・ロペツ・デ・ハロウ、デ・ハーロ
外部リンク
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ゴンサロ・フェルナンデス・デ・エレディア Gonzalo Fernández de Heredia
- 生没
- 1450年頃~1511年11月21日
- 出身
- アラゴン王国モラ・デ・ルビオルス
- 没地
- アル・カム、ヴァイス
概要
ゴンサロ・フェルナンデス・デ・エレディアは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。フアン2世・デ・アラゴン及びフェルナンド2世・デ・アラゴンのローマ駐在大使を務めた他、1500年までイタリア諸国にも断続的に派遣された。教皇アレクサンデル6世の常に食卓を共にする側近。
在位
バルセロナ司教 1478年~1490年
タラゴナ大司教 1490年~1511年
カタルーニャ政府主席 1504年~1506年
年表
1492年
教皇アレクサンデル6世を選出したコンクラーヴェでは、ヴァティカン宮殿の警備隊長を務める。
1492年
バレンシア司教区の大司教区昇格に伴ってカルタヘナ及びマヨルカが編入され、タラゴナ大司教は縮小される。
1498年~1499年
印刷業者ローゼンバッハに依頼し、タラゴナ教会のために「聖務日課書」「昼課本」「ミサ典書」「聖歌集」を印刷させる。
1500年以降
エスコルナルボウ修道院に常住。
外部リンク
ゴンザロ・デ・コルドバ Gonzalo de Córdoba
- 生没
- 1453年9月1日~1515年12月2日
- 出身
- モンティーリャ
- 父
- ペドロ・フェルナンデス・デ・コルドバ
- 母
- エルビラ・デ・エレーラ
- 妻
- イサベル・デ・モンテマヨール
マリア・マンリケ・デ・ララ - 子
- ベアトリス・フェルナンデス・デ・コルドバ
エルビラ・フェルナンデス・デ・コルドバ
フィゲロア・フェルナンデス・デ・コルドバ
概要
ゴンザロ・デ・コルドバは、15世紀から16世紀の男性。
在位
第1代セッサ公 1507年~1515年
先代:フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス→スペイン領
戦歴
ガリリャーノの戦い:スペイン王国、勝利
年表
1492年1月2日
フェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャは、スペインにおけるイスラム教徒の拠点グラナダ王国を、ゴンザロ・デ・コルドバ指揮の軍を用いて制圧。イスラム勢力の攻撃による西ゴート王国の滅亡(711年)以来の国土回復運動、レコンキスタ完了。
1495年5月
スペインのフェルナンド2世・デ・アラゴン・イサベル1世・デ・カスティーリャ両王の命により、スペイン軍を指揮しフェッランディーノ・ダラゴーナのためナポリ奪回の戦いを開始。
1495年5月26日
セミナラの戦い:スペイン・ナポリ連合軍を指揮し、フランス軍とセミナラで交戦。
1496年春
カラブリア到着。
1496年7月20/21日
シャルル8世のナポリ総督モンパンシエ公ジルベール・ド・ブルボンは、アテッラでゴンザロ・デ・コルドバに降伏し、シャルル8世の残留軍はナポリより撤退。フェッランディーノ・ダラゴーナは、スペイン軍やヴェネツィア艦隊の支援を得てナポリ全土をほぼ回復。但しナポリ奪還の戦いに加わったヴェネツィアは、アドリア海沿岸のナポリ領5都市を占拠し続ける。
1497年
1501年7月5日?~9月初旬
ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍、カラブリアのトロペーアに上陸。ナポリ分割のグラナダ条約の存在を知らなかったナポリ王フェデリーコ・ダラゴーナは、カラブリアの城塞を開けさせ、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍を歓迎させる。フェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、2ヶ月足らずでカラブリアを制圧。フェデリーコ・ダラゴーナの長子でカラブリア公フェルディナンド・ダラゴーナ(1488年~1559年)は捕らえられてスペインに送られる。
1503年4月28日
ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、チェリニョーラでルイ12世軍に完勝。ルイ12世軍は完全に孤立。
1503年5月13日
ナポリに入城(1503年5月14日、1503年5月16日)。
1503年12月28日
ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、ガリリャーノの戦いでルイ12世に完勝。
1504年1月1日
すでにガエタニ押し込まれていたルイ12世軍は、ゴンザロ・デ・コルドバから帰国の安全を保障するとの撤退条件を提示されて受諾し、ナポリにおける最後の拠点であるこの力惨憺たる状態で帰国の途につく。ナポリは事実上、フェルナンド2世・デ・アラゴンの手に入る。
1504年4月28日
ナポリに着いたチェーザレ・ボルジアを歓迎する。
1504年5月25日
チェーザレ・ボルジアを逮捕、監禁する。
1505年春
この頃?、フェルナンド2世・デ・アラゴンの指示によると称してゴンザロ・デ・コルドバがピサ支援のため派遣した軍隊、ピオンビーノに上陸。
1505年5月4日
フィレンツェは、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガを傭兵隊長に雇うべく侯のもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣して交渉するが失敗に終わる。
この頃?、ロベルト・アッチャイウオリ(1467年~1547年)をナポリのゴンザロ・デ・コルドバのもとに派遣してバルトロメオ・ダルヴィアーノを支援せぬよう工作し了承を得るが、彼からピサ攻撃を中止するよう求められる。
1506年9月4日
この日?、フェルナンド2世・デ・アラゴン、ゴンザロ・デ・コルドバの国際的名声と威信に懸念と嫉妬を抱き、その動向に疑いありとしてバルセロナから海路ナポリの彼のもとに向かう。
1506年10月末
フェルナンド2世・デ・アラゴン、ナポリに到着し、ゴンザロ・デ・コルドバの軍指揮権を、スペインで重職を与えることを約しつつ取り上げる。
1507年6月4日
フェルナンド2世・デ・アラゴン、ゴンザロ・デ・コルドバを同道してナポリを出発し、海路帰国の途につく。会見を希望してオスティアで待機していたユリウス2世を無視し、ジェノヴァを経てサヴォーナに向かう。
1515年12月2日
グラナダで死。
別表記
ゴンサルヴォ・コルドヴァ、ゴンサルヴェ・デ・コルドヴァ、ゴンザーロ・フェルナンデス・ダ・コルドーバ、コンサルヴォ・エルナンデス・アヒラール・ダ・コルドヴァ、コンサルヴォ・ディ・コルドヴァ、フェルナンデス・デ・アグイラル・コンサロ、コンサロ・フェルナンデス・デ・アグイラル、ゴンサーロ・フェルナンデス・デ・コルドバ、Consalvo Hernandez、Consalvo di Cordova、Férnandez de Aguilar Consalvo、Consalo Fernandez de Aguilar、Gonzalo Fernándes de Córdoba、Gonzalo Fernández de Córdoba、el Gran Capitán、de Cordoba
外部リンク
ウィキペディア
チェーザレ・ボルジアとその周辺
Google Books
参考文献
『イタリア史』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ラモン・デ・カルドナ Ramon Folc de Cardona
- 生没
- 1467年~1523年3月10日
- 父
- アントニ1世・デ・カルドナ
- 母
- カステラナ・デ・レケゼンス
- 妻
- イザベル・デ・レケゼンス
- 子
- カテリナ・デ・カルドナ
フェラン1世・デ・カルドナ
アントニ・デ・カルドナ
概要
ラモン・デ・カルドナは、15世紀から16世紀の男性。
在位
シチリア総督 1507年~1509年
ナポリ総督 1509年~1522年
年表
1511年10月4日
対フランス神聖同盟。教会防衛、フェッラーラ、ボローニャなど教会領の確保を狙うユリウス2世、北イタリア各地の確保を狙うヴェネツィア、イタリアにおけるフランスの優位の排斥とルイ12世の配下からのナヴァーラ王国の奪取を狙うフェルナンド2世・デ・アラゴン、蛮族排斥をスローガンに対フランス同盟を締結し、翌1511年10月5日公表。1511年11月17日ヘンリー8世が加盟し、間もなくスイス連邦も加盟。マクシミリアン1世は態度を保留。
フェルナンド2世・デ・アラゴンは、ナポリに新たな軍を送り、総督ラモン・デ・カルドナ(?~1522年)にこれを率いてロマーニャで教皇軍、ヴェネツィア軍と合流するよう指示。
1511年12月半ば
この頃、フェルナンド2世・デ・アラゴンのナポリ総督ラモン・デ・カルドナ指揮の軍、フォルリに到着し、ユリウス2世軍と合流してボローニャ及びフェッラーラの包囲を目指す。
1512年1月26日
ラモン・デ・カルドナ指揮の神聖同盟軍(フェルナンド2世・デ・アラゴン軍及び教皇代理ジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿と傭兵隊長マルカントーニオ・コロンナ(1450~1460年~1520年)、ファブリツィオ1世・コロンナらを含むユリウス2世軍)、ボローニャを包囲。
1512年4月11日
ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍とアルフォンソ1世・デステ指揮のフェッラーラ軍、ラヴェンナ近郊でイタリア史上稀に見る大激戦の末ラモン・デ・カルドナ指揮の神聖同盟軍を破り、翌1512年4月12日、ラヴェンナに入城。軍、未曾有の略奪、暴行、虐殺を欲しいままにする。
完敗した同盟軍はラモン・デ・カルドナがチェゼーナへ、マルカントーニオ・コロンナはリーミニへ逃げ、ジョヴァンニ・デ・メディチはフランス軍の、ファブリツィオ1世・コロンナはフェッラーラ軍の捕虜となり、完勝したルイ12世軍もガストン・ド・フォワを戦死させた(1489年~)他、軍に多大の損失を被る。
ラヴェンナ占領におけるルイ12世軍の実態に対する恐怖広まり、イーモラ、ファエンツァ、フォルリ、チェゼーナ、リーミニなど次々にルイ12世軍に降伏し、数日でロマーニャのほぼ全域が支配下に入る。
ナヴァーラの領有を目論むフェルナンド2世・デ・アラゴンは、ガストン・ド・フォワの死により、その姉である自分の妻ジェルメーヌ・ド・フォワにナヴァーラの王位請求権が生じたと主張。
1513年2月20~21日
数日前から病床についていたユリウス2世、死。
フェルナンド2世・デ・アラゴンとマクシミリアン1世は、前年8月のマントヴァ会議でユリウス2世がパルマ、ピアチェンツァをも得たことに不満を抱いていたが、フェルナンド2世・デ・アラゴンのナポリ総督でミラノに陣を敷いていたラモン・デ・カルドナが、ユリウス2世の死を機として軍を率いて両市を襲い、ミラノ公マッシミリアーノ・スフォルツァへの服従を誓わせる。
アルフォンソ1世・デステ、ユリウス2世に奪われたチェント、ルーゴ、バニャカヴァッロなど自領を奪回し、レッジョをも奪回しようとするが内部に自分を迎える動き生じず、撤退。
1513年
この頃?、レオ10世、ルイ12世とヴェネツィアのブロワ協定及びそれによって釈放されたバルトロメオ・ダルヴィアーノを指揮官とするヴェネツィア軍の強化などを挙げてマッシミリアーノ・スフォルツァを脅かし、ラモン・デ・カルドナが彼に服従させたパルマ、ピアチェンツァを取り上げる。
1513年6月6日
ルイ12世は、ノヴァーラで大激戦の末ミラノ側のスイス連邦軍に完敗するなど、各地で敗退。バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍もローディでラモン・デ・カルドナ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍に阻まれてルイ12世軍を支援できず。ルイ12世軍は、間もなくイタリアから撤退。
1513年6月17日
オッタヴィアーノ・フレゴーソ(1470年~1524年)、ラモン・デ・カルドナから与えられた軍を率いてジェノヴァに入り、ルイ12世の総督Antoniotto Adornoを追放してドージェに就任。
1513年9月17日
ラモン・デ・カルドナ、ヴェネツィアを全面的に屈服させるべく神聖同盟軍を率いてヴェローナを出、パドヴァを攻撃し、その周辺地域で略奪、放火を欲しいままにすると共にヴェネツィア市内をも砲撃するが、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍に阻まれて撤退。
1513年10月7日
ラモン・デ・カルドナ指揮の神聖同盟軍が、ヴィチェンツァ近郊Olmoでバルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍を大激戦の末、破る。ヴェネツィア軍総指揮官ジャンパオロ・バリオーニなど捕虜となる。
ラモン・デ・カルドナはなおパドヴァを攻撃し続け、ヴェネツィアは戦闘態勢を再整備。
1515年10月13日
マリニャーノの戦におけるフランソワ1世の勝利後直ちにカルロ・ディ・サヴォイアを介してフランソワ1世との和平協定締結を策していたレオ10世、彼と、メディチ家のフィレンツェ支配の承認、ウルビーノなど教会領の奪回に際しての彼の中立、自ら制圧しているパルマ、ピアチェンツァの彼への返還などを協定。
ラモン・デ・カルドナ、レオ10世にこの協定について異議を述べるが無視される。
1522年3月10日
ラモン・デ・カルドナ、死。彼に代わってCharles de Lannoy(1488年?~)、カール5世のナポリ総督となる。
1512年8月下旬
ボローニャに結集していたラモン・デ・カルドナ指揮のスペイン軍は、ジョヴァンニ・デ・メディチ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟らを伴って南下。市民軍の結集していたフィオレンツオーラを避け、1512年8月21日バルベリーノ・ディ・ムジェッロに到着。
1512年8月26日
領内に侵攻してきたラモン・デ・カルドナのもとへ使節を派遣し、フェルナンド2世・デ・アラゴンの要求は可能な限り受け入れることを伝える。しかしラモン・デ・カルドナからは神聖同盟全体の要求としてピエロ・ソデリーニの解任、メディチ家の復帰を求められる。第2点は承諾し、第1点は拒否。
1512年9月3日
ラモン・デ・カルドナのもとへBaldassarre Carducci(1456年~)、Ormannozzo Deti(1464年~1531年以降)、Niccolò del Nero、ニッコロ・ヴァローリ、コジモ・デ・パッツィ、ヤコポ・サルヴィアーティ、パオロ・ヴェットーリを送り、メディチ家とその郎党の私人としての市内復帰、神聖同盟への加入、フェルナンド2世・デ・アラゴン及びラモン・デ・カルドナへの献金、ラモン・デ・カルドナの占領したフィレンツェ領の返還と彼の軍の撤退について合意すると共に、フェルナンド2世・デ・アラゴンとの相互防衛協定を結んで彼の傭兵200名分の賃金の支払いを引き受ける。
1512年9月14日
ジョヴァンニ・デ・メディチ、ラモン・デ・カルドナの指揮するフェルナンド2世・デ・アラゴン軍に守られて市内に入る。メディチ家は、他の市民と同等の政治的権利を有する私人として公式に復帰。
1512年9月19日
軍資金を受け取ったラモン・デ・カルドナは、軍を従えてフィレンツェを離れ、ロンバルディアに向かう。
別表記
ライモンド・ディ・カルドーナ、ライモンド・ダ・コルドーナ、Raimondo di Cardona
外部リンク
参考文献
『君主論』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの華』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
アロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコ Alonso Pimentel y Pacheco
- 生没
- 1470年頃~1530年
- 出身
- ベナヴェンテ
- 父
- ロドリゴ・アロンソ・ピメンテル
- 母
- マリーア・パチェーコ・イ・ポルトカッレロ
- 妻
- イネス・エンリケス・デ・メンドーサ
アナ・デ・ヴェラスコ・イ・エッレーラ - 子
- マリーア・ピメンテル・イ・メンドーサ
アントーニオ・アロンソ・ピメンテル・イ・ヴェラスコ
概要
アロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコは、15世紀から16世紀のスペインの男性。次男。
在位
ベナヴェンテ公 1499年~
年表
1470年頃
ベナヴェンテにて、生。
14??年
領地を相続する予定ではなかったため、若年時は軍人としてイサベル1世・デ・カスティーリャに仕える。
1497年9月27日
長兄ルイス・ピメンテル、死。
1499年
アロンソ・ピメンテルがベナヴェンテの第5代伯爵、第2代公爵となる。
1???年
イネス・エンリケス・デ・メンドーサとの間にマリーア・ピメンテル・イ・メンドーサが生まれる。
イネス・エンリケス・デ・メンドーサとの結婚が無効となる。イネス・エンリケス・デ・メンドーサは娘マリーア・ピメンテル・イ・メンドーサと共に実家に帰る。
1501年
アナ・デ・ヴェラスコ・イ・エッレーラと結婚。この結婚により、アロンソ・ピメンテルは最も裕福な貴族の1人となる。
1502年
フェリペ1世の城塞に居住。
1504年11月26日
1506年
フェリペ1世とフアナ1世・デ・トラスタマラがアロンソ・ピメンテルの邸宅に滞在。
1506年9月
フェルナンド2世・デ・アラゴンが、ナポリへ向かいバルセロナ出発。
1506年
アロンソ・ピメンテルは、メディナ・デル・カンポのモタ城に幽閉されているチェーザレ・ボルジアを訪問。
1506年9月25日
フェリペ1世、死。
外部リンク
世界帝王事典
Cesar Borgia – – AUT CAESAR AUT NIHIL –
Genealogy
Geneanet
Google Books
Google Books
Real Academia de la Historia
Wikipedia - Ducado de Benavente
ガスパール・デ・プロシタ Gaspar de Pròixita i de Vives Boil
- 生没
- 1476年~1533年
- 父
- ジョアン・フランセスク・デ・プロシタ
- 母
- ベアトリウ・ヴィヴェス
- 妻
- カテリーナ・デル・ミラ
- 子
- フェラン・デ・プロシタ
イザベル・デ・プロシタ
ガスパール・デ・プロシタ
概要
ガスパール・デ・プロシタは、15世紀から16世紀の男性。
在位
第4代アルメナーラ伯 1511年~1533年
年表
1491年4月30日
ルクレツィア・ボルジアとの婚姻契約書が、カミッロ・ベネイムベネの手で作成される。代理人は、父方の従弟ジョフレ・リャンソル、ヤコポ・セラ、マッテオ・キュシア。父ロドリゴ・ボルジアの費用でヴァレンシアに向かう予定。ケルビ・フアン・デ・サンテーリャスとの婚約があるため、契約書のこの日付には疑問が残る。
1492年8月11日
婚約者の父ロドリゴ・ボルジアが教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗る。
1492年10月31日
ジョヴァンニ・スフォルツァがローマに到着。
1492年11月5日
この日までには、父ジョアン・フランセスク・デ・プロシタと共にローマに到着しており、アレクサンデル6世から婚約辞退を求められているが、二重婚約に激しく抗議。
1492年11月9日
1492年8月11日のルクレツィア・ボルジアとの婚約延期書が、カミッロ・ベネイムベネの手で作成される。
「状況が好適となった時に」ルクレツィア・ボルジアとの結婚式を挙げることができるように、向こう1年間は結婚しないこと。
1492年12月9日
マントヴァ大使Fioravante Brognoloがマントヴァ侯妃イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。「かの貴族ジョヴァンニ・スフォルツァの一件は、まだ落着しておりません。あのスペイン貴族は教皇の姪(ルクレツィア・ボルジアのこと)を諦めていないようです。彼はスペインで多くの支持者を持っており、したがって、教皇はこの事態をなるに任せ、強引に結論を押し付けはしない傾向にあります」
1493年2月2日
慰謝料として3千ドゥカートが支払われる。
1494年
カテリーナ・デル・ミラと結婚。
1498年
ルクレツィア・ボルジアがジョヴァンニ・スフォルツァと離婚したため、再び求婚。
別表記
ガスパーレ・ダ・プロチダ、ガスパーレ・ダヴェルサ、Gaspare d'Aversa、Gasparo、Gaspar de Pròixita y de Vives Boil
外部リンク
Ajuntament d´Almenara
enciclopedia.cat
Geneanet
Google Books
Google Books
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
ペドロ・カルデロン Pedro Calderon
- 生没
- 14??年~1498年2月
- 没地
- ローマ
概要
ペドロ・カルデロンは、15世紀の男性。
年表
1498年2月
テヴェレ川で溺死。
別表記
カルデス、イル・ペロット、Caldes、Perotto
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界悪女大全』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
フアン・セルヴィロン Juan Cervillon
- 生没
- 1???年~1499年12月22日
概要
フアン・セルヴィロンは、アラゴン家に親しいスペイン人隊長。
性格
思うところを率直に語ることを恐れない。気丈で勇敢。
年表
1499年
ボルジア家の内情に通暁しており、サンチャ・ダラゴーナの振る舞いを公然と非難し、チェーザレ・ボルジアとの醜聞にも言及したらしい。
1499年12月
ローマを去って、妻子の待つナポリへ帰り、フェデリーコ・ダラゴーナに仕えるようにしたいと、教皇アレクサンデル6世に願い出、不承不承許可される。
1499年12月22日
甥のテゼオ・ピニャテッリのところで夕食を終えた時に、自身は剣を抜く暇もなく、斬り殺される。
1499年12月23日
未明、死体の検分もされず、ボルゴ・ヌオーヴォのサンタ・マリア・イン・トラスポンティーナ教会の墓地に埋葬される。
別表記
Giovanni
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
ロデリク・ロイス・デ・コレリャ Roderic Roíç de Corella i Montcada

- 生没
- 14??年~1536年
- 父
- ジョアン・ロイス・デ・コレリャ
- 母
- フランセスカ・デ・モンカーダ
- 妻
- アンジェラ・デ・ボルジャ
- 子
- ギリェム・ロイス・デ・コレリャ
概要
ロデリク・ロイス・デ・コレリャは、15世紀から16世紀のスペインの男性。
在位
第4代コセンタイナ伯爵 1519年~1536年
年表
1494年3月以前
ローマ到着。
1498年7月21日
ローマで行われたルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ・ダラゴーナの結婚式に出席。
1???年
ベルヴェデーレ庭園で教皇アレクサンデル6世や他の家族と散歩していた時に突然ライオンが現れ、教皇とロデリク・ロイス・デ・コレリャ以外の全員が逃げたものの、彼は剣を手にして教皇を守った。ライオンは別の方向に去り、召使いが来て状況を収拾した。
1519年6月18日
兄ジョアン・ロイス・デ・コレリャ、死。
1536年11月22日
遺言書を作成。
1536年
死(1522年)。
1536年12月20日
遺言書を公表。
別表記
Rodrigo de Corella y Moncada
外部リンク
エルビラ・デ・エレーラ Elvira de Herrera
- 生没
- 14??年~1???年
- 父
- ペドロ・ヌニェス・デ・エレーラ
- 母
- ブランカ・エンリケス
- 夫
- ペドロ・フェルナンデス・デ・コルドバ
- 子
- ゴンザロ・デ・コルドバ
概要
エルビラ・デ・エレーラは、15世紀頃のスペインの女性。
年表
1453年9月1日
モンティーリャにて、ゴンザロ・デ・コルドバを出産。
ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ Garcilaso de la Vega
- 生没
- 1503年頃~1536年10月13日
- 出身
- トレード
- 没地
- ニース
概要
ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガは、16世紀の男性、詩人。
年表
1503年
この年頃、スペイン、マドリード近郊トレードに生。
1536年10月13日
ニースで死(1536年10月14日)。
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
レオノール・デ・カストロ・イ・メロ Leonor de Castro
- 生没
- 1512年~1546年3月27日
- 出身
- リスボン
- 没地
- リスボン
- 父
- アルヴァーロ・デ・カストロ
- 母
- イザベル・デ・メロ
- 夫
- フランシスコ・デ・ボルハ
- 子
- カルロス・デ・ボルハ
イザベル・デ・ボルハ
フアン・デ・ボルハ・イ・カストロ
アルヴァロ・デ・ボルハ
フアナ・デ・ボルハ
フェルナンド・デ・ボルハ
概要
レオノール・デ・カストロは、16世紀のスペインの女性。
別表記
エレアノーラ
外部リンク
Famille de Carné
Généalogie Online
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『Lucretia Borgia』
フェラン・デ・プロシタ Ferran de Pròixita i de Milà
- 生没
- 1???年~1574年
- 父
- ガスパール・デ・プロシタ
- 母
- カテリーナ・デル・ミラ
- 妻
- アンジェラ・デル・ミラ
マグダレーナ・クララ・デ・ボルジャ - 子
- フランセスク・デ・プロシタ
ガスパール・デ・プロシタ
ジョゼプ・デ・プロシタ
ジョアン・デ・プロシタ
エリザベト・デ・プロシタ
エリオノール・デ・プロシタ
マリーア・デ・プロシタ
アンナ・デ・プロシタ
概要
フェラン・デ・プロシタは、16世紀のスペインの男性。
在位
第5代アルメナーラ伯 1536年~1574年
別表記
Fernando de Próxita
外部リンク
enciclopedia.cat
Google Books
Google Books
参考文献
マリーア・フランシスカ・デ・カストロ María Francisca de Castro
- 生没
- 1???年~1576年
- 没地
- ヴァレンシア
- 父
- フランシスコ・デ・カストロ
- 母
- レオノール・デ・カストロ
- 夫
- フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス
- 子
- ジェロニ・デ・ボルジャ
マグダレーナ・クララ・デ・ボルジャ
ディダク・デ・ボルジャ
フェリペ・マヌエル・デ・ボルハ
ペレ・リュイス・ガルセラン・デ・ボルジャ
ロデリク・デ・ボルジャ
トマス・デ・ボルジャ
エリオノル・デ・ボルジャ
マルガリダ・デ・ボルジャ
概要
マリーア・フランシスカ・デ・カストロは、16世紀頃の女性。
年表
1520年
1528年
ソゴルブにて、ペレ・ルイース・ガルセラン・デ・ボルジャを出産。
1530年頃
フェリペ・マヌエル・デ・ボルハを出産。
1536年
マグダレーナ・クララ・デ・ボルジャを出産(1537年)。
外部リンク
参考文献
カタリナ・デ・ロリス Catalina Jáfer de Lloris
- 生没
- 1???年~15??年
- 父
- ペドロ・デ・ロリス
- 母
- イサベル・デ・ボルハ・イ・ナヴァッロ
- 夫
- ガルセラン・デ・ボルハ
概要
カタリナ・デ・ロリスは、16世紀頃のスペインの女性。
年表
1518年
母方のいとこガルセラン・デ・ボルハと結婚。
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2025年2月11日