バルトロメオ・カラーファ Bartolomeo Carafa

- 生没
- 1???年~1362年12月7日
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- バルトロメオ・カラーファ
- 母
- テオドーラ・デル・ガウディオ
- 妻
- マビーリア
- 子
- アンドレア・カラーファ
バルトロメオ・カラーファ
ピエトロ・カラーファ
ニコラ・カラーファ
リゴーリオ・カラーファ
トンマーゾ・カラーファ
ヤコポ・カラーファ
マリーノ・カラーファ
ミータ・カラーファ
概要
バルトロメオ・カラーファは、13~14世紀のイタリアの男性。
外部リンク
アンドレア・カラーファ Andrea Carafa

- 父
- バルトロメオ・カラーファ
- 母
- マビーリア
- 妻
- マリーア・デ・コルナイ
- 子
- ヤコポ・カラーファ
ガレオット・カラーファ
カルロ・カラーファ
バルトロメオ・カラーファ
ピエトロ・カラーファ
ロレンツォ・カラーファ
ニッコロ・カラーファ
カテリーナ・カラーファ
ヴェリテッラ・カラーファ
アンドリエッラ・カラーファ
概要
アンドレア・カラーファは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
トンマーゾ・カラーファ Tommaso Carafa

- 父
- バルトロメオ・カラーファ
- 母
- マビーリア
- 子
-
ジョヴァンニ・カラーファ
ヤコポ・カラーファ
概要
トンマーゾ・カラーファは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ヤコポ・カラーファ Jacopo Carafa

- 父
- アンドレア・カラーファ
- 母
- マリーア・デ・コルナイ
- 妻
- チェッカレッラ・カンテルモ
- 子
- オノフリオ・カラーファ
ピエトロ・カラーファ
概要
ヤコポ・カラーファは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ジョヴァンニ・カラーファ Giovanni Carafa

- 父
- トンマーゾ・カラーファ
- 妻
- マリエッラ・マリスカルコ
- 子
- アントーニオ・カラーファ
グレッロ・カラーファ
ニコラ・カラーファ
トンマーゾ・カラーファ
概要
ジョヴァンニ・カラーファは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
オノフリオ・カラーファ Onofrio Carafa

- 生没
- 1???年~14??年
- 父
- ヤコポ・カラーファ
- 母
- チェッカレッラ・カンテルモ
- 妻
- カテリーナ・カラーファ
- 子
- ヤコポ・カラーファ
概要
オノフリオ・カラーファは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
アントーニオ・カラーファ Antonio Carafa

- 生没
- 1373年以前~1437年10月10日
- 父
- ジョヴァンニ・カラーファ
- 母
- マリエッラ・マリスカルコ
- 妻
- カテリーナ・ファラファッラ
- 子
- カルロ・カラーファ
フランチェスコ・カラーファ
トンマーゾ・カラーファ
アントーニオ・カラーファ
グレッロ・カラーファ
ジャンバッティスタ・カラーファ
ディオメーデ・カラーファ
カテリーナ・カラーファ
イサベッラ・カラーファ
概要
アントーニオ・カラーファは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
トンマーゾ・カラーファ Tommaso Carafa

- 生没
- 13??年~14??年
- 父
- ジョヴァンニ・カラーファ
- 母
- マリエッラ・マリスカルコ
- 妻
- サンチャ・ダクイーノ
- 子
- ジャナントーニオ・カラーファ
パスクアーレ・カラーファ
ドメニコ・カラーファ
アントーニオ・カラーファ
ジョヴァンニ・カラーファ
ファブリツィオ・カラーファ
概要
トンマーゾ・カラーファは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ヤコポ・カラーファ Jacopo Carafa

- 生没
- 1???年~1489年6月8日
- 父
- オノフリオ・カラーファ
- 母
- カテリーナ・カラーファ
- 妻
- アントネッラ・ディ・モリーゼ
- 子
- ヴィンチェンツォ1世・カラーファ
フランチェスカ・カラーファ
ジョヴァンニ・カラーファ
概要
ヤコポ・カラーファは、15世紀のイタリアの男性。
別表記
Giacomo Carafa
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
フランチェスコ・カラーファ Francesco Carafa

- 生没
- 1412年~1496年
- 父
- アントーニオ・カラーファ
- 母
- カテリーナ・ファラファッラ
- 妻
- マリーア・オリーリア
ヴィオランテ・コンティ - 子
- オリヴィエーロ・カラーファ
カルロ・カラーファ
アレッサンドロ・カラーファ
エリザベッタ・カラーファ
ファブリツィオ・カラーファ
カテリーナ・カラーファ
パオロ・カラーファ
ヤコポ・カラーファ
エットーレ・カラーファ
概要
フランチェスコ・カラーファは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1423年9月10日
マリーア・オリーリアと結婚。
埋葬地
サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂、十字架礼拝堂
外部リンク
グレッロ・カラーファ Gurello Carafa

- 生没
- 1???年~1453年
- 父
- アントーニオ・カラーファ
- 母
- カテリーナ・ファラファッラ
- 妻
- コスタンツァ・ピニャテッリ
- 子
- ガレオット・カラーファ
ベルリンギエーリ・カラーファ
ジューリオ・カラーファ
概要
グレッロ・カラーファは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
ディオメーデ・カラーファ Diomede Carafa

- 生没
- 14??年~1487年8月17日
- 父
- アントーニオ・カラーファ
- 母
- カテリーナ・ファラファッラ
- 妻
- マリーア・カラッチオーロ
スヴェヴァ・サンセヴェリーノ - 子
- ジャントンマーゾ・カラーファ
ジャナントーニオ・カラーファ
ディアーナ・カラーファ
アンドレア・カラーファ
概要
ディオメーデ・カラーファは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1446年
マリーア・カラッチオーロと結婚。
1457年
妻マリーア・カラッチオーロ、死。
14??年
スヴェヴァ・サンセヴェリーノと結婚。
1480年3月6日
フェッランテ・ダラゴーナとロレンツォ・イル・マニーフィコが和平を結ぶ。
ディオメーデ・カラーファはこの同盟に尽力。
外部リンク
イサベッラ・カラーファ Isabella Carafa

- 生没
- 14??年~
- 父
- アントーニオ・カラーファ
- 母
- カテリーナ・ファラファッラ
- 夫
- フランチェスコ・ツールロ
グリエルモ・サンセヴェリーノ
概要
イサベッラ・カラーファは、15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1460年頃
グリエルモ・サンセヴェリーノと結婚。
外部リンク
ジャナントーニオ・カラーファ Gianantonio Carafa

- 生没
- 1???年~1486年12月25日
- 父
- トンマーゾ・カラーファ
- 母
- サンチャ・ダクイーノ
- 妻
- カテリーナ・デッラーハ
- 子
- ドメニコ・カラーファ
ジャンヴィンチェンツォ・カラーファ
ヴィンチェンツォ・カラーファ
ジョヴァンニ・カラーファ
クラニーツァ・カラーファ
サンチャ・カラーファ
メニーカ・カラーファ?
オルシーナ・カラーファ
概要
ジャナントーニオ・カラーファは、15世紀頃のイタリアの男性。
別表記
Giovanni Antonio
外部リンク
ヴィンチェンツォ1世・カラーファ Vincenzo I Carafa

- 生没
- 14??年~1526年9月5日
- 父
- ヤコポ・カラーファ
- 母
- アントネッラ・ディ・モリーゼ
- 妻
- ベルナルディーナ・シスカーラ
- 子
- ジューリア・カラーファ
ジャンバッティスタ・カラーファ
フランチェスカ・カラーファ
概要
ヴィンチェンツォ1世・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1488年
ベルナルディーナ・シスカーラと結婚。
外部リンク
オリヴィエーロ・カラーファ Oliviero Carafa

- 生没
- 1430年3月10日~1511年1月22日
- 没地
- ローマ
- 父
- フランチェスコ・カラーファ
- 母
- マリーア・オリーリア
概要
オリヴィエーロ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
芸術と学問の庇護者
芸術や学問の庇護者で、ローマにおける初期の印刷業者、ヴィテルボ出身の学者ジョヴァンニ・バッティスタ・アルマディアーノや人文主義者アンドレア・ブレンタなどを庇護し、学識ある聖職者と交流を持ち、多くの者から著作を献呈された。
ローマとナポリへの貢献
ローマおよびナポリの両都市において、教会、病院、修道院を建設し、多大な貢献を果たした。
ナポリ
では、サン・ベネデット修道院があった場所に避病院を建設し、後にそれを司教区の財産に組み入れた。
また、サンティ・セヴェリーノ・エ・ソッシオ教会
の近くに一族の宮殿を建設し、
ナポリ
大司教宮殿の修復も行った。
父
フランチェスコ・カラーファ
を
サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂の
十字架礼拝堂に埋葬し、装飾を施し、記念碑を設置させた。
甥ジャン・ピエトロ・カラーファの聖職への導き
後に教皇パウルス4世となる甥ジャンピエトロ・カラーファを聖職者の道へと導いた。
在位
ナポリ大司教 1458年11月18日~1484年9月20日
枢機卿 1467年9月18日~1511年1月22日
サンティ・マルチェッリーノ・エ・ピエトロ司祭枢機卿 1467年12月3日~1470年9月5日
サンタ・マリア・ディ・カドッサ名誉修道院長 1469年1月1日~1499年1月1日
サンテウセービオ司祭枢機卿 1470年9月5日~1476年7月24日
サンテウセービオ名誉司祭枢機卿 1476年7月24日~1511年1月22日
アルバーノ司教枢機卿 1476年7月24日~1483年1月31日
枢機卿団のカメルレンゴ 1477年1月15日~1478年1月9日
サビーナ司教枢機卿 1483年1月31日~1503年11月29日
カーヴァ教区長 1485年10月17日~1497年4月15日
サンティッシマ・トリニタ修道院長 1485年10月17日~1497年4月15日
モンテヴェルジネ名誉修道院長 1486年~1511年1月22日
サラマンカ教区長 1491年11月16日~1494年6月23日
首席枢機卿 1492年8月11日~1511年1月22日
カディス教区長 1495年1月6日~1511年1月22日
アルヘシラス教区長 1495年1月6日~1511年1月22日
リーミニ教区長 1495年10月3日~1497年9月13日
キエーティ教区長 1500年2月2日~1501年12月20日
ナポリ教区長 1503年8月4日~1505年4月1日
オスティアとヴェッレトリ司教枢機卿 1503年11月29日~1511年1月22日
ヴェッレトリ知事 1503年11月29日~1511年1月22日
ジェラーチェ司教 1505年~1505年
オッピド・マメルティーナ司教 1505年~1505年
カイアッツォ教区長 1506年1月1日~1507年7月9日
テッラチーナ教区長 1507年8月20日~1510年5月13日
プリヴェルノ教区長 1507年8月20日~1510年5月13日
セッツェ教区長 1507年8月20日~1510年5月13日
セーニ教区長 1507年10月27日~1511年1月22日
トリカーリコ教区長 1510年5月13日~1511年1月22日
年表
1430年3月10日
生。
1437年
7歳でナポリ大聖堂の参事会員となる。
14??年
アレッサンドロ・タルターニャを師として学ぶ。
ナポリの学校で学位を取得。
1458年11月18日
フェッランテ・ダラゴーナ の要請と推薦により、 ナポリ大司教に就任。
1458年12月29日
トッレ・デル・グレーコにて、ノーラ司教レオーネ・デ・シモーネの主司式により司教叙階を受ける。補佐司教はアチェッラ司教レオーネ・コルテーゼ、及びドラゴナーラ司教ベネデット。
1459年1月13日
司教座を掌握。
1465年
ナポリ王国の次席公証人及び王国参議会の議長に任命される。
1467年9月18日
ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナの要請により、枢機卿に昇任。教皇パウルス2世により、枢機卿に選出される。
1467年9月19日
サン・マルコ・エヴァンジェリスタ・アル・カンピドリオ聖堂で枢機卿の発表がされたが、不在。
1467年12月3日
ローマへ到着。
サン・マルコ・エヴァンジェリスタ・アル・カンピドリオ聖堂にて、赤帽とサンティ・マルチェッリーノ・エ・ピエトロ司祭枢機卿を授与される。
1467年
コンラート・シュヴァインハイムとアルノルド・パナルツがローマに移り、印刷業を開始。
彼らの支援者となる。
1471年
1471年12月22日
新教皇シクストゥス4世により、フェッランテ・ダラゴーナのもとへ派遣される教皇特使に任命され、枢機卿自身が指揮を執る艦隊の編成への協力を求めることとなる。
1472年5月28日
聖体祭。ローマを出発する前、サン・ピエトロ大聖堂でシクストゥス4世及び教皇庁の面前でミサを執り行う。
1472年
オスティアに到着し、乗船して、18隻のガレー船からなるキリスト教艦隊の提督として指揮を執る。
1472年6月6日
ナポリに到着。教皇特使であり、ナポリ大司教であり、さらに教皇艦隊の提督として盛大な歓迎を受ける。
1472年
教皇艦隊がナポリ王国艦隊24隻及びピエトロ・モチェニーゴ指揮下のヴェネツィア共和国艦隊約40隻と合流。
計約80隻のガレー船はロードス島に寄港し、さらに2隻を加える。
ケファロニア島とサルノ岬を回った後、小アジア沿岸のセタリアを攻撃するために進軍。
港を封鎖していた鎖が破壊されると、オリヴィエーロ・カラーファの指揮する艦隊は港内に突入し、都市を砲撃して港湾倉庫や郊外に損害を与えたものの、要塞にはほとんど影響を及ぼさなかった。間もなくナポリ王国艦隊は本国へ帰還。イスラム勢力の重要拠点スミルナをヴェネツィア共和国軍が攻略し略奪したことがシクストゥス4世の反発を招く。
冬の到来を前に、18隻の三段櫂船は、帰還の途につく。
ロードス島に寄港して騎士団内の紛争解決に尽力。
147?年
ナポリに到着。
1473年1月23日
トルコ人捕虜25人と駱駝12頭を戦利品としてローマへ凱旋し、枢機卿会議でシクストゥス4世の歓迎を受ける。
セタリア港の鎖の一部をサン・ピエトロ大聖堂の門に掛ける。鎖は現在も同大聖堂に保存されている。
1473年6月5日
他の枢機卿らと共にローマ市外数キロの地点まで出向いて、エレオノーラ・ダラゴーナを迎える。
エレオノーラ・ダラゴーナのために、豪華な宴や盛大な祝祭が催される。
1476年6月10日
ローマで発生したペストの流行を避けるため、他の4人の枢機卿と共にシクストゥス4世に同行し、ヴィテルボ、カンパニャーノ、ヴェトラッラ、最後にフォリーニョに移動。
1476年9月中旬
ナポリに行き、ベアトリーチェ・ダラゴーナとマティアス・コルヴィヌスの代理結婚式を執り行う。
インコロナータ広場にて、新ハンガリー王妃の戴冠式を行う。
1478年
ドミニコ会の保護者の職を引き受け、死ぬまで保持。
オトラントのサン・ニコラ・ディ・カゾーレ名誉修道院長に就任。
1479年
フォッジャのサン・ジョヴァンニ・イン・ラミス名誉修道院長に就任。
1482年~1484年
フェッラーラ戦争勃発。
シクストゥス4世とフェッランテ・ダラゴーナの和解に尽力し、ローマ元老院から感謝を受ける。
1484年
コンクラーヴェに参加。インノケンティウス8世が選出される。
1484年10月20日
フェッラーラからナポリに戻る途中のカラブリア公アルフォンソ・ダラゴーナが、ローマに到着。サンタ・マリア・デル・ポポロ門で5名の枢機卿と共に迎え、ヴァティカン宮殿まで案内。
アルフォンソ・ダラゴーナがベネヴェント、テッラチーナ、ポンテコルヴォの総督職を求めたが、インノケンティウス8世は拒絶。
1485年10月17日
ジョヴァンニ・ダラゴーナ枢機卿、死。
1485年
ジョヴァンニ・ダラゴーナ枢機卿の葬儀の準備と執行を主導し、サン・ピエトロ大聖堂やサンタ・サビーナ教会で複数のミサを執り行う。
1486年8月30日
サン・ロレンツォ門でナポリ王国使節アントニオ・ディ・アレッサンドロを迎え、ヴァティカン宮殿で行われた和平のインノケンティウス8世による批准の場に証人として立ち会う。
1486年10月
この時には、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂の袖廊に隣接する家を購入。
その土地をカラーファ礼拝堂の建設に利用。
その装飾のために、フィリッピーノ・リッピをローマに招く。
1492年8月6日~1492年8月11日
1492年
ローマを離れる。
1493年5月
サン・マルコ修道院の代表団アントーニオ・リヌッチーニとドメニコ・ブオンヴィチーニが、ローマに到着。
ドメニコ会士アントーニオ・リヌッチーニとドメニコ・ブオンヴィチーニから、サン・マルコ修道院をロンバルディア管区の管轄から分離し、オリヴィエーロ・カラーファ及び修道会総長の直接管理下に置くことを求められる。
1493年夏
アレクサンデル6世の息子ホフレ・ボルジアとフェッランテ・ダラゴーナの庶子サンチャ・ダラゴーナとの婚約を成立させる。
サン・マルコ修道院をロンバルディア管区から分離する許可をアレクサンデル6世から得ることに成功。
1493年
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂のカラーファ礼拝堂が完成。
アレクサンデル6世がカラーファ礼拝堂を訪れ、完全赦免の特典を与えたことが、記念碑に刻まれている。
1494年1月25日
フェッランテ・ダラゴーナ、死。
1494年12月25日
フランス軍がローマの門前に迫る中、アレクサンデル6世がフェッランディーノ・ダラゴーナにカラブリア公国を授封。
オリヴィエーロ・カラーファは、その授封式の後に行われた騎馬行列に参加。
1494年12月31日
1495年1月7日
他の5人の枢機卿と共に、サンタンジェロ城に避難するアレクサンデル6世に付き従う。
1495年1月15日
アレクサンデル6世とシャルル8世、協定成立。ただし、この合意ではナポリ問題については一切触れられず。
1495年
ナポリ王国にいる多くの家族を保護するために、国王へ3万スクードを献じたという。
149?年
1480年に発見された聖ヤヌアリウスの聖遺物を、名誉修道院長を務めるモンテヴェルジネ修道院からナポリ大聖堂へ移送する許可をアレクサンデル6世から得る。
1495年9月8日
アレクサンデル6世がジローラモ・サヴォナローラに説教を禁止する命令を下す。
149?年
ジローラモ・サヴォナローラの説教禁止命令に介入し、口頭での許可という形でアレクサンデル6世に再開を認めさせる。
1497年1月13日
兄弟のナポリ大司教アレッサンドロ・カラーファが、聖ヤヌアリウスの聖遺物を移す儀式を執り行う。
1497年6月19日
アレクサンデル6世が、枢機卿会議において教会改革のための委員会を設置することを決定。この委員会は、霊的な問題だけでなく世俗的な問題にも関わり、高位聖職者だけでなく下級聖職者や信徒にも影響を及ぼすものであった。オリヴィエーロ・カラーファもこの委員会の一員となり、他に5人の枢機卿、2人のロータ審理官、1人の司教、その他の協力者が加わる。
教会改革委員会の活動は、「6人の枢機卿の指示に基づいて作成された準備作業の記録」Vat. lat. 3881及び「改革案の本文を含む文書」Vat. lat. 3884によって伝えられている。これらの文書から明らかなように、委員会は、教会と特に教皇庁を悩ませていた数々の不祥事を排除しようとする意志に動かされていた。特に、蔓延する聖職売買、枢機卿たちの贅沢、複数の役職を兼任する慣習に対する問題意識が強かった。しかし、こうした問題の解決策として、委員会は従来の状態へ回帰することを重視しており、根本的な改革や新しい思想の受容を目指すものではなかった。
Vat. lat. 3884の葉110-114には、オリヴィエーロ・カラーファが作成した報告書が記録されている。その中で彼は、教皇の親族であっても女性がヴァティカン宮殿に住むことはおろか立ち入ることさえ禁止する規則の制定を求め、また、誤った行為が制度全体に影響を及ぼすことを理由に、教皇庁の官僚の職務を厳格に監視するよう提言している。さらに、官職や聖職禄の売買に反対し、補佐司教の任命において継承権を与えることは不道徳であると指摘した。加えて、聖職売買を非難し、これを根絶するための単純な解決策として、過去の教会法の適用を徹底することを挙げている。この改革案の本質は、教会制度そのものへの異議申し立てではなく、アレクサンデル6世の方針や手法にに対する批判が込められていたと言えよう。
1496年11月7日
アレクサンデル6世が、トスカーナ・エミリア新修道会の創設を定めた教書を発布。
ジローラモ・サヴォナローラの改革運動の影響範囲拡大を意図して、オリヴィエーロ・カラーファが発案したものであったが、結果的にこの教書はジローラモ・サヴォナローラ弾圧の道具となってしまう。
1495年5月27日
アレクサンデル6世と共にローマを離れ、オルヴィエートへ向かう。
1497年4月
ドミニコ会士の保護者であったが、ジローラモ・サヴォナローラの弁護を辞退。
1497年5月13日
アレクサンデル6世が、ジローラモ・サヴォナローラを破門する小勅書をフィレンツェのシニョーリア及び市内の各教会に宛て発す。
周囲からの要請があったにもかかわらず、赦免を得るための働きかけを一切せず。
1497年10月~1506年
聖ヤヌアリウスの聖遺物を安置するため、ナポリ大聖堂の地下に礼拝堂を建設させる。
1497年11月
教会改革勅書の作成を担当する6名の枢機卿委員会の議長に就任。
1498年4月
ローマを離れナポリへ向かい、盛大な歓迎を受ける(1498年7月)。
1498年4月27日
2隻のガレー船でナポリに到着。フェッランテ・ダラゴーナに温かく迎えられ、卵城に宿泊。
1499年1月29日
ローマに帰還。サン・パオロ門で複数の枢機卿や高位聖職者たちによって出迎えられる。
1499年11月11日
ルクレツィア・ボルジアの息子ロドリゴ・ダラゴーナの洗礼式に列席。
1501年2月8日
十字軍の財政を管理する3名の枢機卿委員会の一員に任命される。
1501年
ローマにおいて終生居住していた、現ブラスキ宮殿にあったフランチェスコ・オルシーニ宮殿の角に、パスクイーノと呼ばれる古代彫刻群の有名な断片を設置させ、その基部には設置年と枢機卿の名前を記した碑文が据えられる。
1503年8月18日(金)
アレクサンデル6世、死。
1503年
チェーザレ・ボルジアは13人の枢機卿を引き連れ、ヴァティカン宮殿に立てこもったのに対し、オリヴィエーロ・カラーファを中心とする他の枢機卿団はサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂に集結。
1503年9月16日~1503年9月22日
当初、教皇選出を遅らせるべきだと主張し、聖座の空位を維持することが望ましいと訴えたが、自身を親フランス派と見なしていたゴンザロ・デ・コルドバの決定的な反対に遭う。
1503年10月18日
教皇ピウス3世、死。
1503年10月31日~1503年11月1日
1503年11月
ユリウス2世により、コロンナ家とオルシーニ家の和解を目的とした委員会の一員に任命される。
1504年9月22日
フランス王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、ブルゴーニュ公フェリペ1世の3者、ユリウス2世の指示の下にブロワで協定を締結。
1506年8月26日
ユリウス2世がブロワで締結された協定を背景に、ベンティヴォーリオ家を追放してロマーニャ地方を教会領へと回復しようとボローニャへ進軍。
この遠征に同行することを免除され、他の数名の枢機卿と共にローマに留まり、代理として務める。
1507年
ローマのサピエンツァ大学を手本とした学術機関をナポリに設立。
この試みは失敗し、最終的にクララ会の修道院へと転換された。
1508~1509年
異母兄弟エットーレ・カラーファのために、ルーヴォ・ディ・プーリア伯領を購入。
1509年3月12日
遺言書を作成。相続人として、兄弟のアイローラ伯カルロ・カラーファとエットーレ・カラーファ、甥アントーニオ・フランチェスコ・カラーファとヤコポ・カラーファを指名。
1509年5月14日
アニャデッロの戦いで、フランス王国軍にヴェネツィア共和国軍が敗北。
1509年7月7日
和平交渉のためローマに派遣されたヴェネツィア共和国使節団を邸宅に迎える。ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿と共に交渉を開始する任務を担う。
1509年10月
ヴェネツィア共和国軍がマクシミリアン1世軍からパドヴァを守り抜く。
1510年2月24日
1510年8月17日
フランス軍によるボローニャ奪還を阻止するため、ユリウス2世がローマ出発。
1510年8月
高齢のため、枢機卿団が召集されたヴィテルボへの赴任を免除される。
1511年1月22日
ローマにて、死(1511年1月19日、1511年1月20日)。
彼の意思に従い、遺体は一時的にサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ礼拝堂に埋葬され、 その後最終的にナポリ大聖堂のカラファ礼拝堂に移された。 サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂 の右側翼廊にある、彼自身が建立した 聖トマス礼拝堂に埋葬される。
蔵書は、 サンタ・マリア・デッラ・パーチェ修道院に遺贈される。 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会 の参事会員が 古美術収集品と共に受け継いだものの、 現存せず。
15??年
別荘
クイリナーレの丘にヴィーニャ・ディ・ナポリとして知られる別荘を所有。庭園には、珍しい植物や古代の彫像、碑文で溢れていたという。
肖像
埋葬地
別表記
オリヴィエーリ・カラファ、ウルヴィエリ・カラッファ、Ulvieri Caraffa、Cardinal of Naples
外部リンク
GCatholic.com
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ボルジア家の黄金の血』
『メディチ家』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『The Life of Cesare Borgia』
カルロ・カラーファ Carlo Carafa

- 生没
- 14??年~1515年
- 父
- フランチェスコ・カラーファ
- 母
- マリーア・オリーリア
概要
カルロ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
アイローラ伯
外部リンク
アレッサンドロ・カラーファ Alessandro Carafa

- 生没
- 1430年頃~1503年7月31日
- 出身
- ナポリ
- 没地
- ローマ
- 父
- フランチェスコ・カラーファ
- 母
- マリーア・オリーリア
概要
アレッサンドロ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ナポリ大司教 1484年9月20日~1503年7月31日
年表
1484年9月20日
教皇インノケンティウス8世により、大司教に叙階される。
1494年
アルフォンソ・ダラゴーナにより、大使としてローマに派遣される。
1494年3月14日
1494年5月6日(火)
ナポリにて、ルドヴィーコ・ダラゴーナを剃髪。
1497年1月13日
聖ヤヌアリウスの聖遺物を、モンテヴェルジネ修道院からナポリ大聖堂へ正式に移す儀式を執り行う。
外部リンク
ファブリツィオ・カラーファ Fabrizio Carafa

- 生没
- 14??年~1513年7月31日
- 没地
- ローマ
- 父
- フランチェスコ・カラーファ
- 母
- マリーア・オリーリア
- 妻
- アウレリア・デ・トロメイ
- 子
- アントーニオ・フランチェスコ・カラーファ
ヤコポ・カラーファ
ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カラーファ
フェリチアーナ・カラーファ
フランチェスコ・カラーファ
概要
ファブリツィオ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、ナポリ王国の貴族。
在位
トーレ・デル・グレコ、ヴァレンツァーノ、サンテーラモ領主
カラブリア公の献酌官
マッツァーラ知事 1455年~
カタンツァーロのカピターノ及び城主 1463年4月14日~
年表
1465年
アウレリア・デ・トロメイスと結婚。
1520年8月3日
妻アウレリア・デ・トロメイスがサンテーラモを相続。
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
アントーニオ・フランチェスコ・カラーファ Antonio Francesco Carafa
- 生没
- 出身
- 没地
- 父
- ファブリツィオ・カラーファ
- 母
- アウレリア・デ・トロメイ
- 妻
- 子
概要
アントーニオ・フランチェスコ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ヤコポ・カラーファ Jacopo Carafa
- 生没
- 出身
- 没地
- 父
- ファブリツィオ・カラーファ
- 母
- アウレリア・デ・トロメイ
- 妻
- 子
概要
ヤコポ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カラーファ Giovanni Vincenzo Carafa
- 生没
- 出身
- 没地
- 父
- ファブリツィオ・カラーファ
- 母
- アウレリア・デ・トロメイ
- 妻
- 子
概要
ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
エットーレ・カラーファ Ettore Carafa

- 生没
- 14??年~1515年
- 父
- フランチェスコ・カラーファ
概要
エットーレ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
外部リンク
ガレオット・カラーファ Galeotto Carafa

- 生没
- 14??年~1506年
- 父
- グレッロ・カラーファ
- 母
- コスタンツァ・ピニャテッリ
- 妻
- ヴィオランテ・カンテルモ
- 子
- ティベーリオ・カラーファ
グレッロ・カラーファ
ディオメーデ・カラーファ
オッタヴィアーノ・カラーファ
ジャンパオロ・カラーファ
フェルディナンド・カラーファ
アルベリーコ・カラーファ
ピエル・ルイジ・カラーファ
ルクレツィア・カラーファ
カテリーナ・カラーファ
ベアトリーチェ・カラーファ
概要
ガレオット・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ジャントンマーゾ・カラーファ Giantommaso Carafa

- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ディオメーデ・カラーファ
- 母
- マリーア・カラッチオーロ
- 妻
- ジューリア・サンセヴェリーノ
- 子
- ディオメーデ2世・カラーファ
ロベルト・カラーファ
ジョヴァンナ・カラーファ
イザベッラ・カラーファ
概要
ジャントンマーゾ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
第2代チェッレート伯、第2代マッダローニ伯、セスト、サッソ、ペンティーメ、ロッカピピロッツィ、フォルミコーラ領主 1487年以降~
カザルドゥーニ、フェッラーリジ領主 1457年1月8日~
ナポリ王国将軍 1487年5月25日~
ポルトラーノのマエストロ、テッラ・ディ・バーリのカピターノ 1491年10月11日~
アマルテア、カステッラーヴォ城主 1494年9月18日~
年表
1494年4月2?日
ナポリ王戴冠式のための教皇特使フアン・デ・ボルハ枢機卿一行を、フォンディで出迎える。
1495年5月27日
フランス王シャルル8世により、封土を承認される。
1496年12月19日
第2代チェッレート伯、第2代マッダローニ伯、セスト、サッソ、ペンティーメ、ロッカピピロッツィ、フォルミコーラ領主として承認される。
1520年9月20日
遺言書作成。
別表記
Giovanni Tommaso、Johannem Thomasium Caraffa
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
ジャナントーニオ・カラーファ Gianantonio Carafa

- 生没
- 14??年~1516年3月
- 没地
- フランドル
- 父
- ディオメーデ・カラーファ
- 母
- マリーア・カラッチオーロ
- 妻
- ヴィットーリア・カンポネスキ
- 子
- マリーア・ドミティッラ・カラーファ
ジャナルフォンソ・カラーファ
パウルス4世
ディアーナ・カラーファ
ディオメーデ・カラーファ
ジョヴァンナ・カラーファ
ベアトリーチェ・カラーファ
エリザベッタ・カラーファ
ヴィットーリア・カラーファ
概要
ジャナントーニオ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1467年頃
ヴィットーリア・カンポネスキと結婚。
別表記
Giovanni Antonio
外部リンク
オルシーナ・カラーファ Orsina Carafa

- 生没
- 14??年~
- 父
- ジャナントーニオ・カラーファ
- 夫
- マッテオ・ディ・マリーノ・ダッフリット
アントーニオ・ガッツェッラ - 子
- トルージア・ガッツェッラ
概要
オルシーナ・カラーファは、15世紀頃のイタリアの女性、庶子。父ジョヴァンニ・アントーニオ・カラーファから50オンスの持参金を与えられる。
年表
外部リンク
ジャンバッティスタ・カラーファ Giambattista Carafa

- 生没
- 1???年~1552年12月18日
- 父
- ヴィンチェンツォ1世・カラーファ
- 母
- ベルナルディーナ・シスカーラ
- 妻
- ルクレツィア・ボルジア
- 子
- フェルディナンド・カラーファ
ジローラモ・カラーファ
ポルツィア・カラーファ
概要
ジャンバッティスタ・カラーファは、16世紀頃のイタリアの男性。
年表
1525年
ルクレツィア・ボルジアと結婚(1526年)。
外部リンク
ティベーリオ・カラーファ Tiberio Carafa

- 生没
- 1???年~1521年12月25日以降
- 父
- ガレオット・カラーファ
- 母
- ヴィオランテ・カンテルモ
- 妻
- ジェロニマ・リャンソル
- 子
- フェルディナンド・カラーファ
チェーザレ・カラーファ
ヤコポ・カラーファ
バルトロメオ・カラーファ
フランチェスコ・カラーファ
ジョヴァンニ・カラーファ
ティベーリオ・カラーファ
ジロラーマ・カラーファ
ヴィットーリア・カラーファ
概要
ティベーリオ・カラーファは、16世紀頃のイタリアの男性。
年表
1507年
ジェロニマ・リャンソルと結婚。
外部リンク
イサベッラ・カラーファ Isabella Carafa

- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ジャントンマーゾ・カラーファ
- 母
- ジューリア・サンセヴェリーノ
- 夫
- プロスペロ・コロンナ
概要
イサベッラ・カラーファは、15~16世紀頃のイタリアの女性。
外部リンク
パウルス4世 Paulus IV

- 生没
- 1476年6月28日~1559年8月18日
- 出身
- カプリリーア・イルピーナ
- 没地
- ローマ
- 父
- ジャナントーニオ・カラーファ
- 母
- ヴィットーリア・カンポネスキ
概要
ジャンピエトロ・カラーファは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、第223代教皇パウルス4世。
在位
キエーティ司教 1505年7月30日~1518年12月20日
キエーティ教区長 1518年12月20日~1524年8月24日
ブリンディジとオーリア大司教 1518年12月20日~1524年8月8日
枢機卿 1536年12月22日~1555年
サン・パンクラツィオ・フオーリ・レ・ムーラ司祭枢機卿 1537年1月15日~1537年9月24日
キエーティ大司教 1537年6月20日~1549年2月22日
サン・シスト司祭枢機卿 1537年9月24日~1541年7月6日
枢機卿団カメルレンゴ 1541年1月10日~1542年1月9日
サン・クレメンテ司祭枢機卿 1541年7月6日~1543年9月24日
検邪聖省長官 1542年7月21日~1555年5月23日
サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ司祭枢機卿 1543年9月24日~1544年10月17日
アルバーノ司教枢機卿 1544年10月17日~1546年10月8日
サビーナ司教枢機卿 1546年10月8日~1550年2月28日
ナポリ大司教 1549年2月23日~1555年5月23日
フラスカーティ司教枢機卿 1550年2月28日~1553年11月29日
ポルトとサンタ・ルフィーナ司教枢機卿 1553年11月29日~1553年12月11日
枢機卿副団長 1553年11月29日~1553年12月11日
オスティアとヴェッレトリ司教枢機卿 1553年12月11日~1555年5月23日
枢機卿団長 1553年12月11日~1555年5月23日
第223代教皇 1555年5月23日~1559年8月18日
年表

1517年
この年頃、ローマにローマ教会への信頼回復を目指すサークル「神愛オラトリオ会」が結成される。人文主義者・カトリック教会改革論者G. Contarini、聖職者ジャンピエトロ・カラーファら中心人物は後の反宗教改革の主な指導者となる。
1536年7月後半
パウルス3世、公会議に備えて、教会内の諸問題を検討し教会改革案を作成するための九人委員会(Commissione novemvirale)を設立し、Reginald Pole(1500年~)、枢機卿G. Contarini(在位1535年~)、I. Sadoleto、ジャンピエトロ・カラーファら9名を委員に任命。
1536年12月22日
パウルス3世、教会改革九人委員会のメンバーの内、Reginald Pole、I. Sadoleto、ジャンピエトロ・カラーファを枢機卿に叙任。
1542年7月21日
パウルス3世、ローマにジャンピエトロ・カラーファら6名の枢機卿からなるローマ及び世界異端審問所(Congregatio Momanae et universalis inquisitionis:のちの検邪聖省(Sanctum Officium))を、各キリスト教国にその代行機関をそれぞれ設置する勅書を発し、宗教改革運動排撃・反宗教改革の姿勢を明確に打ち出し始める。
1555年5月23日
枢機卿ジャンピエトロ・カラーファ、教皇に即位し、パウルス4世を名乗る。
1555年8月10日
カール5世陣営に与するサンタ・フィオーラのスフォルツァ家が、謀ってアンリ2世軍のガレー船2隻をチヴィタヴェッキアで奪い、ナポリに向けて出港させたのに対し、カール5世陣営の貴族の跳梁を抑制しようと企図していたパウルス4世、この日、甥の枢機卿Carlo Carafaを通じて、スフォルツァ家の当主・教皇代行枢機卿グイド・アスカーニオ・スフォルツァに、奪った船を3日以内にチヴィタヴェッキアに戻さなければ訴追すると通告。
これに対しグイド・アスカーニオ・スフォルツァ、夜、自宅にコロンナ家などカール5世陣営の貴族を集め、反パウルス4世を叫んで気勢を上げる。Marcantonio Colonna(1535年~1584年)は、すぐにも反パウルス4世暴動に決起する用意があると決意を表明。
1555年8月12日
奪ったガレー船の返還をスフォルツァ家になお強硬に命じながらも、教会領の南の境界におけるカール5世軍(スペイン軍)の動向を危惧せざるを得ない上ローマにおける兵力と資金の欠乏に悩むパウルス4世に対し、アンリ2世に与する枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ、一族を挙げて支援することを約すると共に、アンリ2世との同盟を勧奨。
1555年8月31日
パウルス4世、ガレー船の返還に応じないグイド・アスカーニオ・スフォルツァをサンタンジェロ城に連行させる。
1555年9月15日
スフォルツァ家に奪われたアンリ2世水軍のガレー船、チヴィタヴェッキアに帰還。
1555年9月19日
パウルス4世、グイド・アスカーニオ・スフォルツァを巨額の保釈金などと引き換えに釈放。
しかし教会領の南の境界で大規模な徴兵を続けるカール5世軍(スペイン軍)と、北の境界でアンリ2世軍の一掃を狙うカール5世陣営のコジモ1世・デ・メディチ軍とに囲まれたパウルス4世、恐怖を覚えつつスペイン=ハプスブルク帝国への反発・敵意を募らせる。
1555年12月15日
パウルス4世とアンリ2世、攻守同盟締結:パウルス4世、1555年11月20日、1555年11月22日と続いてローマに入ったアンリ2世の全権使節・枢機卿Charles de Guise(1524年~1574年:在位1547年~1574年)、François de Tournonと交渉を続けた末、(1)アンリ2世は戦費と軍を提供すると共にCarlo Carafaとその兄弟を庇護し、パウルス4世も軍を提供して相互に支援し合うこと、(2)戦端はナポリ又はフィレンツェに対して開くこと、(3)勝利の暁にはシエナを教会領とし、ナポリ及びミラノをアンリ2世の王太子以外の王子に統治させること、(4)同盟はピエモンテを除くイタリア全土に適用されること、などを約定。
これによってパウルス4世、反カール5世・反スペイン=ハプスブルク帝国の姿勢を鮮明に打ち出す。
1556年1月1日
パウルス4世、甥・モントーリオ伯Giovanni Carafa(?~1561年:在位1543年~1561年)をCapitano generale della Chiesaに任命(在位~1559年)。
1556年2月5日
アンリ2世とフェリペ2世のVaucellesでの休戦交渉(1555年~)、アンリ2世は(1)メス、トゥール、ヴェルダンの3司教領を領有、(2)オスマン・トルコやイタリアの君主を相手とする全ての同盟を維持、(3)ピエモンテの現状を維持、フェリペ2世は(1)北フランス・テルアーヌ、エダンを領有の上、5年間休戦、を約定し、フェリペ2世及びカール5世の実質的敗北裏に妥結(Vaucellesの休戦協定)。
これにより、カール5世の退位を機にイタリアをスペイン=ハプスブルク帝国から解放しようとのパウルス4世の企図、中断される。
1556年5月4日
パウルス4世、グイド・アスカーニオ・スフォルツァ及びMarcantonio Colonnaのコロンナ親子に破門及び財産没収の処分を下す。
1556年5月9/10日
パウルス4世、コロンナ家のパリアーノとその他の所領を甥Giovanni Carafaに封与し、パリアーノ公の称号を与える。
1556年6月27日
パウルス4世、フェリペ2世のナポリ王廃位を宣言する理由を探し始める。
これを察知したフェリペ2世、コジモ1世・デ・メディチとオッタヴィオ・ファルネーゼの支持を確保すべく工作を開始。
1556年6月27日
パウルス4世、1555年8月から教皇軍指揮官に取り立ててきた甥Antonio Carafa(?~1588年)にモンテベッロを封与し、その侯の称号を与える。
1556年9月1日
フェリペ2世のナポリ総督・アルバ公Fernando Álvares de Toledo(1507年~1582年)、パウルス4世が抱いているイタリアからの、とりわけナポリからのスペイン=ハプスブルク勢力駆逐の企図を砕くべく、大軍を率い、Marcantonio Colonnaら反パウルス4世の貴族も同道してナポリを発ち、教会領に向かう。
以後、1556年9月半ばまでにフロジノーネ、アラトリ、アナーニなどCampagna Romanaの教会領各地を次々と占領しローマに迫る。ローマ市内に包囲・劫掠の恐れ、強まる。
1556年9月12日
カール5世、パウルス4世を無視して神聖ローマ皇帝位(在位1519年~)と帝国版図を弟フェルディナンドに委譲。この委譲と、1556年1月のスペイン王位及びその領土・直轄地のフェリペ2世への委譲とにより、ハプスブルク家の分裂とそのスペイン王朝化、明白となる。
これに対しパウルス4世、教皇の承認なき帝位の委譲を無効とし、この旨を厳しく伝える書簡を選帝侯たちに送る。
1556年9月16日
フェリペ2世のナポリ総督Fernando Álvares de Toledo、占領した教会領各地は枢機卿会議の名で保有し、将来の教皇に返還すると声明。
これに対しパウルス4世、これらの地の全面返還がなされない限り一切の交渉を拒絶する意を固め、側近枢機卿たちの交渉促進の勧告を斥ける。
1556年11月13日
エルコーレ2世・デステ、パウルス4世・アンリ2世の攻守同盟(1555年)に加盟。
1557年3月3日
軍をロマーニャに進め、自らは1557年3月2日ローマに入ったFrançois I de Lorraine、この日からパウルス4世、Carlo Carafa、ピエロ・ストロッツィらと同盟軍の作戦会議を開く。しかし、パウルス4世はナポリ攻略を、François I de Lorraineはトスカーナ攻略を主張して結論が出ず、会議、延引。
1557年
マリア・エンリケス・デ・トレドに黄金の薔薇を授与。
1558年
エルコーレ2世・デステに祝福された剣を授与。
1559年1月
禁書目録の公表:パウルス4世、ローマの異端審問所を初めとする全ての異端審問所が全キリスト教徒を防衛するための、検閲及び刑罰の恐怖を与えるべき著者と書籍の目録(Index librorum prohibitorum(禁書目録))を公表。この中にエラスムスやニッコロ・マキアヴェッリの全作品などが登録される。
1559年8月半ば?~8月20日
パウルス4世が死に瀕する中、コロンナ家などパウルス4世に迫害されてきた貴族とその陣営の民衆、武器を手に異端審問所、監獄、政庁宮などを襲撃し、パウルス4世の彫像を引き倒してテヴェレ川に投げ捨てる。さらにカラーファ一族の殺害をも試みる。
1559年8月18日
反パウルス4世・カラーファ一族暴動の最中、パウルス4世死(1476年~:在位1555年~)。
埋葬地
本名
ジョヴァンニ・ピエトロ・カラーファ、Gian Pietro Carafa、Giovan Pietro Carafa
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
GCatholic.com
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Cardinals of the Holy Roman Church
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
ポルツィア・カラーファ Porzia Carafa

- 生没
- 15??年~
- 父
- ジャンバッティスタ・カラーファ
- 母
- ルクレツィア・ボルジア
- 夫
- ヴィンチェンツォ・マルッロ
- 子
- エレオノーラ・マルッリ
概要
ポルツィア・カラーファは、16世紀頃のイタリアの女性。
年表
1548年
ヴィンチェンツォ・マルッロと結婚。
別表記
Portia Carafa
外部リンク
Google Books
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
記載日
2021年4月27日
更新日
2025年1月26日