ピエトロ・ファルネーゼ Pietro Farnese

- 生没
- 1350年頃~1415年
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 妻
- ペンテジーレア・ドルチ
- 子
- ジョヴァンニ・ファルネーゼ
ペーポ・ファルネーゼ
ラヌッチョ・ファルネーゼ
シアッラ・ファルネーゼ
エミーリア・ファルネーゼ
バルトロメオ・ファルネーゼ
概要
ピエトロ・ファルネーゼは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
モンタルト、ラーテラ、ファルネーゼ、ヴァレンターノ、イスキア、チェッレーレ領主
外部リンク
ラヌッチョ・ファルネーゼ Ranuccio Farnese

- 生没
- 1390年頃~1450年7月2日
- 出身
- イスキア・ディ・カストロ
- 没地
- イスキア・ディ・カストロ
- 父
- ピエトロ・ファルネーゼ
- 母
- ペンテジーレア・ドルチ
- 妻
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 子
- ガブリエーレ・フランチェスコ・ファルネーゼ
ルクレツィア・ファルネーゼ
アンジェロ・ファルネーゼ
ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
ピエトロ・ファルネーゼ
アニェーゼ・ファルネーゼ
エウジェーニア・ファルネーゼ
ペンタジレア・ファルネーゼ
フランチェスカ・ファルネーゼ
ジューリア・ファルネーゼ
概要
ラヌッチョ・ファルネーゼは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

年表
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
バルトロメオ・ファルネーゼ Bartolomeo Farnese

- 生没
- 1395年頃~1461年
- 出身
- イスキア・ディ・カストロ
- 没地
- ラーテラ
- 父
- ピエトロ・ファルネーゼ
- 母
- ペンテジーレア・ドルチ
- 妻
- ヨランダ・モナルデスキ
- 子
- イザベッラ・ファルネーゼ
チェチーリア・ファルネーゼ
ピエル・ベルトルド・ファルネーゼ
コスタンツァ・ファルネーゼ
概要
バルトロメオ・ファルネーゼは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
年表
1461年
ラーテラにて、死(1460年)。
外部リンク
ガブリエーレ・フランチェスコ・ファルネーゼ Gabriele Francesco Farnese

- 生没
- 1420年~1475年
- 没地
- ヴィテルボ
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 妻
- イザベッラ・オルシーニ
- 子
- カテリーナ・ファルネーゼ
ラヌッチョ・ファルネーゼ
ピエルパオロ・ファルネーゼ
アニェーゼ・ファルネーゼ
概要
ガブリエーレ・フランチェスコ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの男性。
年表
別表記
Gian Francesco
外部リンク
ルクレツィア・ファルネーゼ Lucrezia Farnese

- 生没
- 1430年頃~1487年
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 夫
- フランチェスコ・デッラングイッラーラ
- 子
- ヴァンノーラ・デッラングイッラーラ
バッティスティーナ・デッラングイッラーラ
概要
ルクレツィア・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1445年頃
外部リンク
アンジェロ・ファルネーゼ Angelo Farnese

- 生没
- 1432年~1463年
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 妻
- コスタンツァ・マラテスタ
- 子
- フランチェスカ・ファルネーゼ
概要
アンジェロ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1432年
生(1433年)。
外部リンク
ピエル・ルイジ・ファルネーゼ Pier Luigi Farnese

- 生没
- 1435年頃~1487年頃
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 妻
- ジョヴァンナ・カエターニ
- 子
- アンジェロ・ファルネーゼ
ジローラマ・ファルネーゼ
パウルス3世
バルトロメオ・ファルネーゼ
ジューリア・ファルネーゼ
概要
ピエル・ルイジ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1487年頃
死(1489年)。
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
アニェーゼ・ファルネーゼ Agnese Farnese

- 生没
- 1421年?~1475年
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 夫
- パオロ・サヴェッリ
- 子
- アウレリア・サヴェッリ
概要
アニェーゼ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1443年
パオロ・サヴェッリと結婚。
外部リンク
エウジェーニア・ファルネーゼ Eugenia Farnese

- 生没
- 14??年~
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 夫
- ステファノ・コロンナ
- 子
- フランチェスコ・コロンナ
ジョヴァンニ・コロンナ
ジョルダーノ・コロンナ
ピエトロ・コロンナ
概要
エウジェーニア・ファルネーゼは、15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1455年
ステファノ・コロンナと結婚。
外部リンク
ピエル・ベルトルド・ファルネーゼ Pier Bertoldo Farnese

- 生没
- 1458年~1516年
- 父
- バルトロメオ・ファルネーゼ
- 母
- ヨランダ・モナルデスキ
- 妻
- バッティスティーナ・デッラングイッラーラ
- 子
- ガレアッツォ・ファルネーゼ
フェルディナンド・ファルネーゼ
カテリーナ・ファルネーゼ
ヨランダ・ファルネーゼ
アンジェロ・ファルネーゼ
ベアトリーチェ・ファルネーゼ
概要
ピエル・ベルトルド・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ラヌッチョ・ファルネーゼ Ranuccio Farnese

- 生没
- 1456年~1495年7月6日
- 父
- ガブリエーレ・フランチェスコ・ファルネーゼ
- 母
- イザベッラ・オルシーニ
- 妻
- イッポーリタ・パッラヴィチーニ
- 子
- フェデリーコ・ファルネーゼ
ガブリエーレ・ファルネーゼ
カミッラ・ファルネーゼ
概要
ラヌッチョ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
戦歴
フォルノーヴォの戦い:ヴェネツィア同盟軍
年表
1491年1月21日
ヴァレンターノにて、ヴィルジーニオ・オルシーニ宛てに手紙をしたためる。
1491年2月17日
ヴァレンターノにて、ヴィルジーニオ・オルシーニ宛てに手紙をしたためる。
1491年4月16日
ヴァレンターノにて、ヴィルジーニオ・オルシーニ宛てに手紙をしたためる。
1491年4月23日
ヴァレンターノにて、ヴィルジーニオ・オルシーニ宛てに手紙をしたためる。
別表記
リヌッチョ・ダ・ファルネーゼ、Ranutyus da Farnesio
外部リンク
世界帝王事典
Condottieri di ventura
Genealogy.EU
Geneanet
Google Books
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
ピエルパオロ・ファルネーゼ Pierpaolo Farnese

- 生没
- 1458年~1491年5月以降
- 没地
- ローマ
- 父
- ガブリエーレ・フランチェスコ・ファルネーゼ
- 母
- イザベッラ・オルシーニ
概要
ピエルパオロ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの男性、教会首席書記官。
年表
別表記
Paolo Pietro
外部リンク
アニェーゼ・ファルネーゼ Agnese Farnese

- 生没
- 1460年頃~1509年10月23日
- 出身
- イスキア
- 没地
- シエナ
- 父
- ガブリエーレ・フランチェスコ・ファルネーゼ
- 母
- イザベッラ・オルシーニ
- 夫
- アンドレア・ピッコローミニ
- 子
- ジョヴァンニ・ピッコローミニ
モンタニーナ・ピッコローミニ
ピエル・フランチェスコ・ピッコローミニ
アレッサンドロ・ピッコローミニ
アレッサンドロ・ピッコローミニ
カテリーナ・ピッコローミニ
ヴィットーリア・ピッコローミニ
概要
アニェーゼ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1475年1月
シエナにてアンドレア・ピッコローミニと結婚。
外部リンク
アンジェロ・ファルネーゼ Angelo Farnese

- 生没
- 1465年~1494年
- 出身
- カニーノ
- 没地
- カポディモンテ
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジョヴァンナ・カエターニ
- 妻
- アンジェラ・オルシーニ
- 子
- フランチェスカ・ファルネーゼ
概要
アンジェロ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1465年
カニーノで生。
1488年5月11日
ヴァレンターノでアンジェラ・オルシーニと結婚。
1493年10月23日
カポディモンテにて、義弟プッチョ・プッチ宛てに手紙をしたため、妹ジローラマ・ファルネーゼをカポディモンテに連れてくるように頼む。
1494年
カポディモンテで死。
別表記
Angiolo
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
世界帝王事典
Famille de Carné
Genealogy.EU
Google Books
JDA's Family Tree
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
ジローラマ・ファルネーゼ Girolama Farnese

- 生没
- 1466年頃~1504年11月1日
- 出身
- カニーノ
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジョヴァンナ・カエターニ
- 夫
- プッチョ・プッチ
ジュリアーノ・デッラングイッラーラ - 子
- イザベッラ・デッラングイッラーラ
概要
ジローラマ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀の女性。
年表
1466~1467年
カニーノで生。
1483年11月10日
カポディモンテにて、プッチョ・プッチと、代理人を立てた結婚。フィレンツェ人の公証人ツァーノビ・ボルジャンニが契約書作成。持参金は2千7百ドゥカート。
1486年10月
息子を死産。
1493年7月~1493年8月
1493年9月
罹患し、フィレンツェに戻る。
1493年10月
病気から全快。
妹ジューリア・ファルネーゼや、義母アドリアーナ・デル・ミラなどに手紙をしたため、義弟ロレンツォ・プッチの出世を働きかける。
1493年10月18日
教皇アレクサンデル6世宛てに手紙をしたため、感謝を伝える。
1493年10月21日
カジニャーノにて夫プッチョ・プッチ宛てに手紙をしたためる。「この手紙が届くよりも早くフィレンツェからの手紙を受け取るでしょう。ロレンツォ・プッチにもたらされた恩恵と、ジューリア・ファルネーゼが彼に確保してくれたことです。きっとお喜びになるでしょう」
1493年10月末頃
母ジョヴァンナ・カエターニがカポディモンテ邸で家族全員で集まり、教皇アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジア枢機卿も招待することを計画。
里帰りできるように、義兄ロレンツォ・プッチとジャンノッツォ・プッチを頼る。
兄アンジェロ・ファルネーゼはファエンツァでコッミッサーリオとしてまだ忙しいプッチョ・プッチに手紙を送って、反対していた彼を説得。
1493年12月21日
ペストが流行するローマから出発したロレンツォ・プッチと共にファルネーゼの領地であるマルタに到着。
1494年8月31日
夫プッチョ・プッチ、死。
1494年
ジローラマ・ファルネーゼは妊娠していたが、その事実を知ることなく遺言書が作成されていたため、ロレンツォ・プッチが子供が相続するように変更。しかし、流産。
1494年10月5日
ロレンツォ・プッチが、ジャンノッツォ・プッチを相続人に指名。
1494年11月27日
弟アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿のいるヴィテルボへ向かい、妹ジューリア・ファルネーゼ、義母アドリアーナ・デル・ミラと共にカポディモンテの城を出発。少し行ったところでイヴ・ダレーグル以下フランス騎兵隊と遭遇。25人から30人の従者も共に、捕虜としてモンテフィアスコーネへ連れていかれる。
1494年12月1日
解放され、ローマ到着。
1495年2月15日
ローマにて、ジュリアーノ・デッラングイッラーラと結婚。
1495年
スタッビア城に住む。
1497年
スタッビアにて、イザベッラ・デッラングイッラーラを出産。
1504年11月1日
継子ジャンバッティスタ・デッラングイッラーラに斬り殺される(1504年11月16日、1505年11月1日)。
妹ジューリア・ファルネーゼがヴァザネッロに埋葬する。
外部リンク
Farnese Provincia di Viterbo
Genealogy.EU
Google Books
Google Books
Google Books
Treccani
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
バルトロメオ・ファルネーゼ Bartolomeo Farnese

- 生没
- 1470年頃~
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジョヴァンナ・カエターニ
概要
バルトロメオ・ファルネーゼは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
ジューリア・ファルネーゼ Giulia Farnese

- 生没
- 1474年~1524年3月23日
- 出身
- カニーノ
- 没地
- ローマ
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジョヴァンナ・カエターニ
- 夫
- オルシーノ・ミリオラーティ
ジョヴァンニ・マリーア・カペーチェ・ボッツート - 子
- ラウラ・ミリオラーティ
概要
ジューリア・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。アレクサンデル6世の愛人。その美貌が一地方貴族にすぎなかったファルネーゼ家を名家へとのし上げた。
容姿
褐色の肌、黒い目、丸い顔、金髪。
年表
1474年
生。
1489年5月20日
ボルジア宮殿(現スフォルツァ・チェザリーニ宮殿)の星の間でオルシーノ・ミリオラーティと婚姻契約。証人は、きょうだいではアンジェロ・ファルネーゼ、おじニコラ・カエターニ、おじの教皇庁首席書記官ヤコポ・カエターニ、バルトロメ・マルティ、その他高位聖職者、ローマの貴族ら。婚姻契約書は公証人カミッロ・ベネイムベネによって書かれ、教皇庁副尚書院長ロドリゴ・ボルジア枢機卿が第1証人で、持参金は3千フィオリーノ。
1489年5月21日
オルシーノ・ミリオラーティと結婚。ボルジア宮殿で行われたこの式には、ロドリゴ・ボルジア、サンタ・マリア・イン・ポルティコの枢機卿ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼノ、ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿、フィレンツェ大司教リナルド・オルシーニ、その他の高位聖職者、商人、オルシーニ、ボルジア各家の親類などが列席。
1492年11月30日
娘ラウラ・ミリオラーティを出産。
1493年6月12日
ルクレツィア・ボルジアとジョヴァンニ・スフォルツァのヴァティカン宮殿での結婚式に参列。
1493年11月
この頃には教皇アレクサンデル6世のほぼ公然たる愛妾となる。
1493年
この頃?、サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿にルクレツィア・ボルジア、アドリアーナ・デル・ミラと共に住む。夫のオルシーノ・ミリオラーティはヴァザネッロ城に住む。
1494年春
ルクレツィア・ボルジアらと共にペーザロへ赴く。
1494年6月8日
ペーザロ到着。
1494年6月
ペーザロにて、アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。「私の唯1人の殿御に」ルクレツィア・ボルジアは幸せな妻として暮らしており、遺漏なく振舞っているし、ペーザロはフォリーニョよりもずっとひらけた町であり、誰もがスフォルツァ家に心服しているので、教皇様にもご安堵頂きたい。たえず、踊ったり、歌ったり、音楽界を開いたり、仮面舞踏会を催したりしている。しかし、だからと言って、私とアドリアーナ・デル・ミラが楽しんでいるとは、教皇様にお考え頂きたくない。悲しいことに、「聖下はいらっしゃらないし、私の全ての幸せも喜びも聖下次第なのですから、どんな楽しみもありませんし、そういう楽しみを味わう喜びというものも持てないのです。私の宝のいられるところに、私の心もあるのですから。聖下のお膝元にいる時の他は、何もかも空しいのです。そうでないと言う人がいたら、その人はよほどどうかしているのです。聖下におかれては、私たちをお忘れになりませんことを、そして、ここに閉じ込められた私たちを程なく呼び戻してくださいますことを。そして、時々はお便りを下さり、心からお仕えする私のことを思い出してくださいますことを」。兄弟のアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿に新たに与えられた愛顧について教皇に感謝を述べる。「聖下を煩わさないために」、そこで手紙を結ぶ。
1494年7月12日
長兄アンジェロ・ファルネーゼが臨終の床にあることを知り、この日未明、アドリアーナ・デル・ミラ、フランチェスコ・ガセット、それに少人数の供を従え、ペーザロを出発し、カポディモンテに見舞いに行く。
1494年11月27日
兄アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿のいるヴィテルボへ向かい、アドリアーナ・デル・ミラと姉ジローラマ・ファルネーゼと共にカポディモンテの城を出発。少し行ったところでイヴ・ダレーグル以下フランス騎兵隊と遭遇。25人から30人の従者も共に、捕虜としてモンテフィアスコーネへ連れていかれる(1494年11月29日)。
好待遇を受けていること、身代金を送って欲しいという内容でローマに手紙を書く。
1494年12月1日
夜、4百名のフランス兵に護衛され、アドリアーナ・デル・ミラとジローラマ・ファルネーゼと共にローマに帰還。門のところで教皇の侍従フアン・マラデスに出迎えられる。
1504年
姉ジローラマ・ファルネーゼをヴァザネッロに埋葬する(1505年11月1日)。
この時には、ヴァザネッロ城に、オルシーノ・ミリオラーティと共に住む。
1505年
ローマに、オルシーノ・ミリオラーティと離れて住む。
1505年11月
ヴァティカンにて、娘ラウラ・ミリオラーティがニッコロ・フランチオッティと結婚。
1509年2月20日
ジョヴァンニ・マリーア・カペーチェ・ボッツートと結婚。
1524年3月14日
遺言書を作成。
1524年3月23日
ローマで死。
肖像
関連項目
The Borgias: 102, 103, 104, 105, 106, 107, 108, 109, 201
外部リンク
ウィキペディア
ボルジア解体新書
Famille de Carné
Find A Grave
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
RootsWeb.com
THE BORGIAS wiki
Treccani.it
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ボルジア家の黄金の血』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ガレアッツォ・ファルネーゼ Galeazzo Farnese

- 生没
- 1477年?~1540年
- 父
- ピエル・ベルトルド・ファルネーゼ
- 母
- バッティスティーナ・デッラングイッラーラ
- 妻
- エルシーリア・コロンナ
イザベッラ・デッラングイッラーラ - 子
- フェッランテ・ファルネーゼ
ベルトルド・ファルネーゼ
バッティスティーナ・ファルネーゼ
ジャンフランチェスコ・ファルネーゼ
ファビオ・ファルネーゼ
ジローラマ・ファルネーゼ
ジューリア・ファルネーゼ
ヴィオランテ・ファルネーゼ
概要
ガレアッツォ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
外部リンク
フェルディナンド・ファルネーゼ Ferdinando Farnese

- 生没
- 1478年~1501年4月
- 没地
- ファエンツァ
- 父
- ピエル・ベルトルド・ファルネーゼ
- 母
- バッティスティーナ・デッラングイッラーラ
概要
フェルディナンド・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1478年
生(1479年)。
1498年5月~6月
コロンナ家と敵対するオルシーニ家に与し、キアラヴァッレを攻撃。
1499年
ピサ征服を目指すフィレンツェ共和国軍のパオロ・ヴィテッリ配下に入る。
1499年10月
パオロ・ヴィテッリが処刑された後も、フィレンツェ共和国に雇われ続ける。
1500年10月1日
ロマーニャ攻略に向かうチェーザレ・ボルジアの護衛隊として、ローマを出発。
1501年4月
ファエンツァ攻囲戦にて、戦死。
別表記
Ferrante Farnese
外部リンク
Condottieri di ventura
Genealogy.EU
参考文献
フェデリーコ・ファルネーゼ Federico Farnese

- 生没
- 1480年~1511年
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- イッポーリタ・パッラヴィチーニ
- 妻
- イッポーリタ・スフォルツァ
概要
フェデリーコ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1499年4月2日
ローマのファルネーゼ宮殿で、ラウラ・ミリオラーティとの婚姻契約書が作成される。出席者は母ジューリア・ファルネーゼ、父オルシーノ・ミリオラーティ、伯父アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿。カミッロ・ベネイムベネが作成。
1504年
イッポーリタ・スフォルツァと結婚。
外部リンク
カミッラ・ファルネーゼ Camilla Farnese

- 生没
- 1482年~1550年
- 没地
- ローマ
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- イッポーリタ・パッラヴィチーニ
- 夫
- ヤコポ・サヴェッリ
- 子
- ジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリ
概要
カミッラ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
外部リンク
フランチェスカ・ファルネーゼ Francesca Farnese

- 生没
- 1453年~1505年6月
- 没地
- サンタ・フィオーラ
- 父
- アンジェロ・ファルネーゼ
- 母
- アンジェラ・オルシーニ
- 夫
- グイド・スフォルツァ
- 子
- フェデリーコ1世・スフォルツァ
チェチーリア・スフォルツァ
ジューリア・スフォルツァ
マルツィア・スフォルツァ
アウレリア・スフォルツァ
ゼノービア・スフォルツァ
概要
フランチェスカ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
外部リンク
コスタンツァ・ファルネーゼ Costanza Farnese

- 生没
- 1500年?~1545年5月23日
- 没地
- ローマ
- 父
- パウルス3世
- 母
- シルヴィア・ルッフィーニ
- 夫
- ボジオ2世・スフォルツァ
- 子
- グイド・アスカーニオ・スフォルツァ
スフォルツァ・スフォルツァ
フランチェスカ・スフォルツァ
カルロ・スフォルツァ
ファウスティーナ・スフォルツァ
ジューリア・スフォルツァ
カミッラ・スフォルツァ
マリオ・スフォルツァ
ジュスティーナ・スフォルツァ
アレッサンドロ・スフォルツァ
パオロ・スフォルツァ
概要
コスタンツァ・ファルネーゼは、15~16世紀のイタリアの女性。
年表
1515年1月
ボジオ2世・スフォルツァと結婚(1515年2月)。
外部リンク
ピエル・ルイジ・ファルネーゼ Pier Luigi Farnese

- 生没
- 1503年11月19日~1547年9月10日
- 父
- パウルス3世
- 妻
- ジローラマ・オルシーニ
- 子
- アレッサンドロ・ファルネーゼ
ヴィットーリア・ファルネーゼ
オッタヴィオ・ファルネーゼ
ラヌッチオ・ファルネーゼ
オラツィオ・ファルネーゼ
概要
ピエル・ルイジ・ファルネーゼは、16世紀のイタリアの男性。
在位
教会の旗手 1537年2月1日~1547年
カストロ公 1537年~1545年
次代:オッタヴィオ・ファルネーゼ
パルマ公 1545年9月16日~1547年9月10日
ピアチェンツァ公 1545年~1547年
次代:オッタヴィオ・ファルネーゼ
年表
1537年1月31日
1537年3月14日
教皇パウルス3世により、新公国として、ネピとロンチリオーネを封ぜられる。
1537年10月31日
パウルス3世、長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼとその正統相続人のためにカストロ公国を創り、これを近くの都市ネピ、ロンチリオーネ、カプラローラと共に封与(1537年11月1日)。
1538年2月
カール5世、パウルス3世の長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼに、自身とパウルス3世の仲介者となることを期待してノヴァーラを封与。
1538年11月29日
パウルス3世、ピエル・ルイジ・ファルネーゼにその軍を率いてカメリーノを攻撃するよう指令。
1540年5月8日
パウルス3世がピエル・ルイジ・ファルネーゼ、アレッサンドロ・ヴィテッリ、ジローラモ・オルシーニらの指揮の下にペルージアに送った教皇軍とペルージア守備軍の衝突、戦闘、始まる。
1541年2月25日
パウルス3世、対オスマン・トルコ軍事費のためとして加重した塩税の納入を拒否していた(1537年~)コロンナ家の統領Ascanio Colonna(1490年代~1557年)に、3日以内に出頭しその未納について弁明するよう命令。
しかしAscanio Colonna、これを拒否しコジモ1世・デ・メディチに支援を求める。これに対しパウルス3世、直ちにピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍をローマに結集。
以後、ペドロ・デ・トレドがカール5世の特使としてローマに入って両者の仲介を、ヴィットーリア・コロンナもローマに帰り両者の交渉の進展を、それぞれ試みるが実らず。
1541年2月
ニッコロ・マキアヴェッリのClizia、ピエル・ルイジ・ファルネーゼの長子(パウルス3世の孫)・枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ邸(ローマ)で上演される。
1541年3月中旬
パウルス3世、ピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍にコロンナの家領を攻撃させ、主要地点を次々と陥落させる。
1543年6月12日
対フランソワ1世戦に対処するためスペインから海路イタリアに入り、アルフォンソ3世・ダヴァーロス、ピエル・ルイジ・ファルネーゼ、フランチェスコ3世・ゴンザーガ及びコジモ1世・デ・メディチらの表敬訪問を受けていたカール5世、この日パヴィアでコジモ1世・デ・メディチに、フィレンツェ領内の城塞を巨額の軍資金との引き換えで返還すると約束。1543年7月3日?、返還。
1545年8月12日
パウルス3世、枢機卿会議で、カメリーノとネピをオッタヴィオ・ファルネーゼから取り上げて教会直轄領とし、代わりに教会領のパルマとピアチェンツァを結合した上でピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与すること、オッタヴィオ・ファルネーゼにはカストロ公国を封与すること、などを、かねてから娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ・ピアチェンツァ封与を公然と希望していたカール5世側の枢機卿の猛反対を押して強引に議決。1545年8月26日付の勅書で公表。
パウルス3世のこの自家勢力拡大策(nepotismo)をカール5世、準備しつつあるプロテスタントとの戦にパウルス3世の指示を必要とすること、1545年8月27日娘マルゲリータ・ディ・パルマとオッタヴィオ・ファルネーゼの間に子供が生まれ、子供のないピエル・ルイジ・ファルネーゼへの1545年8月26日付の封与はこの新たな孫への継承の可能性を持つこと、から表面上、黙過。
1546年末
ジェノヴァやシエナのみならずパルマ・ピアチェンツァをも直接、支配下に収めようと企図し、後者の公ピエル・ルイジ・ファルネーゼの失脚を狙いながらもそのためにはパウルス3世の死を待つ他はないと考えるカール5世に、フェッランテ・ゴンザーガ、公の強力・苛烈な統治で伝来の封建的特権を制約され不満を強めている貴族を利用するよう提案。
1547年1月2日~1月3日
ジェノヴァの貴族Gian Luigi Fieschi (il Giovane)(1522年~)とその兄弟Gerolamo Fieschi、Ottobono Fieschi(?~1555年)、カール5世を背景にジェノヴァを事実上専制的に支配するアンドレア・ドーリア一族の放逐とフランソワ1世の庇護下でのBarnaba Adorno(?~1558年)による統治を目指し、市内の親フランス派貴族と結んで、武装蜂起。
市の城門を閉め、港に停泊中のアンドレア・ドーリア艦船を捕獲し、彼の後継者Giannettino Doriaを殺害するなど目的完遂かと思われたが、アンドレア・ドーリア自身には逃げられた上、Gian Luigi Fieschi (il Giovane)が艦船を乗り移る最中に海に落ちて溺死し、それと共に仲間が逃亡し、蜂起は失敗に終わる。
市内に戻ったアンドレア・ドーリア、Gerolamo Fieschi(?~)らを処刑するなど、蜂起勢力を厳しく処罰。
カール5世、ジェノヴァの蜂起にはピエル・ルイジ・ファルネーゼとパウルス3世が関与しているとしてパウルス3世の使節に抗議するが、否定され斥けられる。
1547年9月10日
フェッランテ・ゴンザーガ、カール5世の承認の下、ピエル・ルイジ・ファルネーゼに不満を強めているピアチェンツァの貴族と結び、この日、彼らにピエル・ルイジ・ファルネーゼを刺殺させる。
肖像
外部リンク
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参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
『Lucretia Borgia』
アレッサンドロ・ファルネーゼ Alessandro Farnese

- 生没
- 1520年9月27日~1589年3月2日
- 出身
- ヴァレンターノ
- 没地
- ローマ
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジローラマ・オルシーニ
- 子
- クレーリア・ファルネーゼ
概要
アレッサンドロ・ファルネーゼは、16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
パルマ教区長 1534年11月1日~1535年8月13日
枢機卿(任命パウルス3世) 1534年12月18日~1589年3月2日
サンタンジェロ・イン・ペスケリア助祭枢機卿 1534年12月18日~1535年8月13日
サン・ピエトロ大聖堂主席司祭 1535年?~?
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂主席司祭 1535年?~?
ハエン教区長 1535年7月30日~1537年7月6日
アヴィニョン教区長 1535年8月13日~1551年6月15日
サン・ロレンツォ・イン・ダマーソ助祭枢機卿 1535年8月13日~1564年4月14日
教皇庁副尚書院長 1535年8月13日~1589年3月2日
モンレアーレ教区長 1536年5月15日~1568年1月14日
ビトント教区長 1537年6月17日~1538年1月8日
マッサ・マリッティマ・エ・ポポロニア教区長 1538年11月15日~1547年4月22日
エルサレム総大司教 1539年8月27日~1550年
カヴァイヨン教区長 1540年7月16日~1541年7月20日
ビトント司教 1544年~1544年10月27日
ヴィゼウ教区長 1547年4月22日~1552年6月27日
トゥール教区長 1553年4月28日~1554年6月25日
ヴィヴィエ教区長 1554年6月25日~1554年11月12日
カオール教区長 1554年11月12日~1557年5月7日
スポレート教区長 1555年~1562年12月16日
ベネヴェント教区長 1556年11月22日~1560年1月16日
ヴィヴィエ教区長 1560年~1565年
ソラ教区長 1561年~1561年
サン・ロレンツォ・イン・ダマーソ司祭枢機卿 1564年4月14日~1564年5月12日
サビーナ司教枢機卿 1564年5月12日~1565年2月7日
サン・ロレンツォ・イン・ダマーソ名誉司祭枢機卿 1564年5月12日~1589年3月2日
フラスカーティ司教枢機卿 1565年2月7日~1578年7月9日
モンレアーレ大司教 1568年1月14日~1573年12月9日
モンテフィアスコーネ教区長 1571年~1572年8月22日
コルネート教区長 1571年~1572年8月22日
ポルト・エ・サンタ・ルフィーナ司教枢機卿 1578年7月9日~1580年12月5日
枢機卿団副長 1578年7月9日~1580年12月5日
オスティアとヴェッレトリ司教枢機卿 1580年12月5日~1589年3月2日
枢機卿団長 1580年12月5日~1589年3月2日
年表

1520年9月27日
ヴァレンターノにて、生(1520年10月7日)。
1541年2月
ニッコロ・マキアヴェッリのClizia、アレッサンドロ・ファルネーゼ邸(ローマ)で上演される。
1555年8月12日
奪ったガレー船の返還をスフォルツァ家になお強硬に命じながらも、教会領の南の境界におけるカール5世軍(スペイン軍)の動向を危惧せざるを得ない上ローマにおける兵力と資金の欠乏に悩むパウルス4世に対し、アンリ2世に与するアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿、一族を挙げて支援することを約すると共に、アンリ2世との同盟を勧奨。
1580年
ヴィッラ・ファルネジーナを購入。
肖像
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The Cardinals of the Holy Roman Church
ヴィットーリア・ファルネーゼ Vittoria Farnese

- 生没
- 1521年8月10日~1602年9月13日
- 出身
- ヴァレンターノ
- 没地
- ウルビーノ
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジローラマ・オルシーニ
- 夫
- グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ
- 子
- フランチェスコ・マリーア2世・デッラ・ローヴェレ
イザベッラ・デッラ・ローヴェレ
ラヴィーニア・デッラ・ローヴェレ
概要
ヴィットーリア・ファルネーゼは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。
年表
外部リンク
オッタヴィオ・ファルネーゼ Ottavio Farnese

- 生没
- 1524年10月9日~1586年9月18日
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジローラマ・オルシーニ
- 妻
- マルゲリータ・ディ・パルマ
- 子
- カルロ・ファルネーゼ
アレッサンドロ・ファルネーゼ
チェーザレ・ファルネーゼ
ヴィオランテ・ファルネーゼ
ラヴィーニア・ファルネーゼ
ジュリオ・オスティリオ・ファルネーゼ
エルシーリア・ファルネーゼ
イザベッラ・ファルネーゼ
概要
オッタヴィオ・ファルネーゼは、16世紀のイタリアの男性。
在位

カメリーノ公 1540年~1545年
先代:エルコーレ・ダ・ヴァラーノ
次代:教皇領
パルマ公 1547年11月9日~1586年9月15日
ピアチェンツァ公 1547年~1586年
教会の旗手 1547年~1551年、1567年~15??年
カストロ公 1553年7月18日~1586年9月18日
年表
1537年1月
ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの子・後継相続者グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(1514年~)とカメリーノの正統継承資格者の1人ジューリア・ダ・ヴァラーノ(1523年~?)、ジューリア・ダ・ヴァラーノを自分の孫オッタヴィオ・ファルネーゼと結婚させ、カメリーノを自家領としてウルビーノ公を押さえたいパウルス3世の妨害——(破門(1535年2月)、カメリーノでの聖務禁止(1535年3月)、カメリーノの封与(1535年5月))——に対してウルビーノ公の承認の下で結婚し、カメリーノを事実上、領有。
1537年9月30日
カール5世、パウルス3世を自陣に引き入れるべく、その申し出を受け入れて彼の孫オッタヴィオ・ファルネーゼにマルゲリータ・ディ・パルマを与えることを内心で決めると共に、かねてから彼女との結婚を求めていたコジモ1世・デ・メディチも自陣に確保しておくべく、慰撫策として彼にDuca(公)の称号を認める。(以後コジモ1世・デ・メディチ、フィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチとなる)。
1538年6月22日
パウルス3世とカール5世、ニースから同道でジェノヴァに到着。この地に滞在中、両者は、公会議の1539年4月6日までの延期、パウルス3世の孫オッタヴィオ・ファルネーゼとカール5世の庶出の娘、故アレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマの結婚、スペインにおける教会収入5年分のカール5世への付与について正式に合意。
1538年6月28日
パウルス3世、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。
フィレンツェのみならずパウルス3世をも自陣に引き寄せながら全イタリアに派遣を樹立しようと狙うカール5世懸案についてこの頃ジェノヴァで、マルゲリータ・ディ・パルマはオッタヴィオ・ファルネーゼに嫁がせると決定していること、フィレンツェの城塞はできる限り早期にコジモ1世・デ・メディチに返還すること、フィリッポ・ストロッツィはアレッサンドロ・ヴィテッリに代わるJuan de Lunaの下でアレッサンドロ・デ・メディチ殺害への関与について取り調べること、を公表。
1538年11月4日
3日前にパウルス3世からローマの総督に任命されたばかりのオッタヴィオ・ファルネーゼとマルゲリータ・ディ・パルマの結婚式が、コジモ1世・デ・メディチとの結婚を希望し続けるマルゲリータ・ディ・パルマの意を抑えて、ローマで盛大華麗に行われる。
1540年11月5日
パウルス3世、カメリーノをオッタヴィオ・ファルネーゼに封与。但しこの報、カメリーノには翌1541年7月12日に届く。
1543年6月22/23~24/25日
パウルス3世とカール5世、パウルス3世の申し込みによりパルマ近郊ブッセートで会見し、(1)ミラノ領有問題、(2)トレント公会議開催問題、などについて討議。しかし(1)についてはパウルス3世は自家ファルネーゼ家の威勢拡大を企図しながら自身の孫・カール5世の娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへの封与を提案し、カール5世は自身の子フェリペ2世による領有の現状維持を目論み、カール5世(2)についてパウルス3世はカール5世・フランソワ1世戦の終結までの延期を図り、カール5世は自身とフランソワ1世の間で中立を装うパウルス3世に不満を抱きながら自派の枢機卿の増員・トレントでの早期開催を主張するなど、懸案のいずれについても合意できずに終わる。
1545年8月12日
パウルス3世、枢機卿会議で、カメリーノとネピをオッタヴィオ・ファルネーゼから取り上げて教会直轄領とし、代わりに教会領のパルマとピアチェンツァを結合した上でピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与すること、オッタヴィオ・ファルネーゼにはカストロ公国を封与すること、などを、かねてから娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ・ピアチェンツァ封与を公然と希望していたカール5世側の枢機卿の猛反対を押して強引に議決。1545年8月26日付の勅書で公表。
パウルス3世のこの自家勢力拡大策(nepotismo)をカール5世、準備しつつあるプロテスタントとの戦にパウルス3世の指示を必要とすること、1545年8月27日娘マルゲリータ・ディ・パルマとオッタヴィオ・ファルネーゼの間に子供が生まれ、子供のないピエル・ルイジ・ファルネーゼへの1545年8月26日付の封与はこの新たな孫への継承の可能性を持つこと、から表面上、黙過。
1546年8月7日
カール5世軍、パウルス3世が派遣したオッタヴィオ・ファルネーゼ総指揮の大援軍とランツフートで合流することに成功。以後さらにコジモ1世・デ・メディチからリドルフォ・バリオーニ指揮の援軍、エルコーレ2世・デステからの援軍などをも加え、大幅に増強される。
1547年9月16日
子ピエル・ルイジ・ファルネーゼ暗殺・フェッランテ・ゴンザーガによるピアチェンツァ占領の報を逗留中のペルージアで受けたパウルス3世、この日までにアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の軍と共に故人の子オッタヴィオ・ファルネーゼをパルマに急派。同時に教会領内で全力を傾注して兵を集め、次々とパルマに送る。これによりパルマは辛うじてファルネーゼ家の配下に残る。以後パウルス3世、カール5世にピアチェンツァの返還を求め続ける。
1549年11月29日
教皇選出枢機卿会議、開催。新教皇にオッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ委譲と教会改革のための公会議の開催を義務付ける選挙協定を採択した後、教皇選出に入るが、それぞれ自派から新教皇を送りたいカール5世・アンリ2世両派の対立、激化。
1550年2月17日
ユリウス3世、教皇選出枢機卿会議における選挙協約に従い、オッタヴィオ・ファルネーゼにパルマを封与。1550年2月25日オッタヴィオ・ファルネーゼ、パルマに入る。
1551年5月22日
ユリウス3世、他の王侯を奉じあるいはその軍を招くことを1551年2月以来しばしば禁じてきたにもかかわらず、パルマをミラノに併合しようと狙うカール5世に抗すべくアンリ2世と同盟締結の協議を続けるオッタヴィオ・ファルネーゼに関し、この日の枢機卿会議で、叛徒とみなして教会の旗手の任を解き(1548年~)、封土パルマでの全権を剥奪することを決める。
1551年5月27日
オッタヴィオ・ファルネーゼ、アンリ2世と同盟を結んで軍資金と武器の援助を約束される。
これに憤激したカール5世、直ちにオッタヴィオ・ファルネーゼから、自らがその父ピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与した(1538年)ノヴァーラなどを取り上げ、ユリウス3世の甥Giovan Battista del Monteに封与。
1551年6月12日
オッタヴィオ・ファルネーゼ軍とフェッランテ・ゴンザーガ指揮のユリウス3世軍、戦闘を開始。ユリウス3世軍はすぐパルマを包囲するが、後ピエロ・ストロッツィ指揮のアンリ2世軍に解かれる。
1552年2月5日
アンリ2世の特使・枢機卿François de Tournon、ローマに入り、直ちにユリウス3世に和平条件——(1)パルマはオッタヴィオ・ファルネーゼのもとに残す、(2)2年間休戦する、(3)休戦期間経過後の協定についてはオッタヴィオ・ファルネーゼに一任する、など——を提示。
1552年4月29日
ユリウス3世、1552年2月に提示された条件を飲み、アンリ2世と休戦協定を結ぶ。両者、カール5世のこの協定への加入については彼自身の判断に任せる。これによりオッタヴィオ・ファルネーゼのパルマ領有、再確認される。
1556年6月27日
パウルス4世、フェリペ2世のナポリ王廃位を宣言する理由を探し始める。
これを察知したフェリペ2世、コジモ1世・デ・メディチとオッタヴィオ・ファルネーゼの支持を確保すべく工作を開始。
1556年9月15日
フェリペ2世、オッタヴィオ・ファルネーゼにピアチェンツァを返還。後ノヴァーラも返還。但し両地の城塞はなおスペイン軍の配下に置く。これによりオッタヴィオ・ファルネーゼ、パウルス4世・アンリ2世に対抗するフェリペ2世支持に大きく傾く。
1556年10月
オッタヴィオ・ファルネーゼ、フェリペ2世支持を明確化する。
1557年10月初旬
フェリペ2世、パウルス4世・アンリ2世同盟軍の総指揮官として敵対してきたエルコーレ2世・デステに復讐すべくオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮の軍を差し向ける。「Caveの和」から漏れた形のエルコーレ2世・デステ、孤立。
コジモ1世・デ・メディチなどからの援軍よりなるオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮のフェリペ2世軍、モンテッキオ、サン・ポーロ、カノッサ、スカンディアーノなどを次々と占領。これに対しエルコーレ2世・デステ軍も反撃し、パルマの市の城門にまで迫る。
1558年初旬
この頃?、エルコーレ2世・デステの長男アルフォンソ2世・デステ(1533年~1597年:フェッラーラ・モデナ・レッジョ公1559年~1597年)指揮の軍、1557年秋オッタヴィオ・ファルネーゼ軍に占領されたサン・ポーロ、カノッサ、グァルダゾーネとその城塞、などを奪回すると共に繰り返しパルマの市の城門に迫る。
これに対しオッタヴィオ・ファルネーゼ軍、ミラノのフェリペ2世陣営から軍を、コジモ1世・デ・メディチから戦費を得て反撃し、グァルダゾーネの城塞を取り戻す。
1559年8月20日
カール5世からのネーデルラント委譲の式典(1555年)以降ネーデルラントにあったフェリペ2世、ヨーロッパにおける覇権を目指すべくスペインに向かう。
ネーデルラントについてはフェリペ2世、異母姉マルゲリータ・ディ・パルマ(パルマ公・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼの妃)を摂政に任じ(在位~1567年)、警察・裁判、財務、国務の3顧問会議と王室顧問会議を設けて統治の実務に当たらせる。以後、王室顧問会議の最高顧問A. P. de Granvelle(在位~1564年)の過酷なプロテスタント弾圧に対する政治的・宗教的不満、高じ、反抗運動、芽生える。
1567年
1571年5月20日
対トルコ十字軍の理念を唱えるピウス5世を中心に、ヴェネツィア、フェリペ2世の三者、対オスマン・トルコ神聖同盟をローマで秘密裏に締結。
この神聖同盟とトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ、サヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、パルマ・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼ、ウルビーノ公グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ、ジェノヴァ、マルタ騎士団とが提携し、直ちに共に同盟軍の編成に着手。
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
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Treccani.it
参考文献
『ルネサンスの歴史』
『銀色のフィレンツェ』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『Lucretia Borgia』
アレッサンドロ・ファルネーゼ Alessandro Farnese

- 生没
- 1545年8月27日~1592年12月3日
- 出身
- ローマ
- 没地
- アラス
- 父
- オッタヴィオ・ファルネーゼ
- 母
- マルゲリータ・ディ・パルマ
- 妻
- マリア・デ・アヴィシュ
- 子
- マルゲリータ・ファルネーゼ
ラヌッチョ1世・ファルネーゼ
オドアルド・ファルネーゼ
概要
アレッサンドロ・ファルネーゼは、16世紀のイタリアの男性。
在位
ネーデルラント総督 1578年~1586年
パルマ公 1586年9月15日~1592年12月3日
ピアチェンツァ公 1586年~1592年
年表
15??年
ボローニャ大学で、ウーゴ・ブオンコンパーニから法学を学ぶ。
1573年11月17日
1572年フェリペ2世によりネーデルラント総督に任命されたミラノ総督Luis de Requesens y Zúñiga(1528年~1576年)、この日ブリュッセルに到着。以後、騒乱対策委員会(血の法廷:1567年~)を廃止するなど、Fernando Álvares de Toledoの強圧策に代えて融和策を実施(在位~1576年)。
以後、融和主義者Luis de Requesens y Zúñigaの死(1576年3月)後のフェリペ2世軍の暴虐に抗してネーデルラント南北両部諸州、1576年11月8日平和協定を結んで団結(ヘントの和約)したものの、南部諸州は後任総督・(前摂政マルゲリータ・ディ・パルマの子)アレッサンドロ・ファルネーゼの工作に乗って、1579年1月6日フェリペ2世とカトリック擁護・フェリペ2世への服従を約定し(アラス同盟)、これに対して北部7州が1579年1月23日スペインへの抵抗を約定し(ユトレヒト同盟)、ネーデルラントは南北に分裂。
さらに北部7州は、1581年7月26日フェリペ2世への服従拒否・スペインからの独立を宣言し、ネーデルラント共和国(オランダ共和国)を創立。1648年10月国際的に承認される(ヴェストファーレン条約)。
1586年
シクストゥス5世から祝福された剣を拝受。
外部リンク
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Treccani.it
参考文献
『愛の年代記』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
マルゲリータ・ファルネーゼ Margherita Farnese

- 生没
- 1567年11月7日~1611年4月13日
- 出身
- パルマ
- 没地
- ピアチェンツァ
- 父
- アレッサンドロ・ファルネーゼ
- 母
- マリア・デ・アヴィシュ
- 夫
- ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
概要
マルゲリータ・ファルネーゼは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。ヴィンチェンツォ・ゴンザーガと結婚するが、恐らく処女膜強靭症だったのだろうか、何らかの身体的原因により性交することができなかった。子供の誕生が望めないため、離婚に至り、修道女となる。
年表
1567年11月7日
パルマで誕生。
1581年3月2日
ピアチェンツァでヴィンチェンツォ・ゴンザーガと結婚。
1581年4月30日
マントヴァに入城。
1583年5月26日
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガとの結婚解消。パルマに帰る。
1583年10月30日
マウラ・ルチェニア尼としてパルマのサン・パオロ修道院に入る。
1584年4月29日
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガがエレオノーラ・デ・メディチと再婚。
1611年4月13日
ピアチェンツァにて没。
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
Genealogy.EU
Journal Publishing Services - Pompeo Caccini and Euridice
kleio.org
Treccani.it
turismo.parma
Wikipedia
参考文献
『愛の年代記』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lost Girls』
『Pompeo Caccini and Euridice』
ラヌッチョ1世・ファルネーゼ Ranuccio I Farnese

- 生没
- 1569年5月28日~1622年3月5日
- 父
- アレッサンドロ・ファルネーゼ
- 母
- マリア・デ・アヴィシュ
- 妻
- マルゲリータ・アルドブランディーニ
- 子
- オッタヴィオ・ファルネーゼ
イザベッラ・ファルネーゼ
アレッサンドロ・ファルネーゼ
オドアルド1世・ファルネーゼ
マリーア・ファルネーゼ
ヴィットーリア・ファルネーゼ
フランチェスコ・マリーア・ファルネーゼ
概要
ラヌッチョ1世・ファルネーゼは、16世紀から17世紀のイタリアの男性。
在位
パルマ公 1592年~1622年
ピアチェンツァ公
外部リンク
オドアルド1世・ファルネーゼ Odoardo I Farnese

- 生没
- 1612年4月28日~1646年9月11日
- 父
- ラヌッチョ1世・ファルネーゼ
- 母
- マルゲリータ・アルドブランディーニ
- 妻
- マルゲリータ・デ・メディチ
- 子
- カテリーナ・ファルネーゼ
ラヌッチョ2世・ファルネーゼ
アレッサンドロ・ファルネーゼ
オラツィオ・ファルネーゼ
カテリーナ・ファルネーゼ
マリーア・マッダレーナ・ファルネーゼ
ピエトロ・ファルネーゼ
オッタヴィオ・ファルネーゼ
概要
オドアルド1世・ファルネーゼは、17世紀のイタリアの男性。
在位
パルマ公 1622年~1646年
ピアチェンツァ公
カストロ公
外部リンク
マリーア・ファルネーゼ Maria Caterina Farnese

- 生没
- 1615年2月18日~1646年7月25日
- 出身
- パルマ
- 没地
- サッスオーロ
- 父
- ラヌッチョ1世・ファルネーゼ
- 母
- マルゲリータ・アルドブランディーニ
- 夫
- フランチェスコ1世・デステ
- 子
- アルフォンソ・デステ
アルフォンソ4世・デステ
イザベッラ・デステ
エレオノーラ・デステ
アルメリコ・デステ
エレオノーラ・デステ
マリーア・デステ
テバルド・デステ
概要
マリーア・カテリーナ・ファルネーゼは、17世紀のイタリアの女性。
年表
1631年1月11日
パルマにて、フランチェスコ1世・デステと結婚。
1632年
アルフォンソ・デステを出産。
1634年2月2日
モデナにて、アルフォンソ4世・デステを出産。
1635年10月3日
1639年
エレオノーラ・デステを出産。
1641年5月8日
モデナにて、アルメリコ・デステを出産。
1643年
エレオノーラ・デステを出産。
1644年12月8日
マリーア・デステを出産。
1646年
テバルド・デステを出産。
外部リンク
ラヌッチョ2世・ファルネーゼ Ranuccio II Farnese

- 生没
- 1630年9月17日~1694年12月11日
- 父
- オドアルド1世・ファルネーゼ
- 母
- マルゲリータ・デ・メディチ
- 妻
- マルゲリータ・ヴィオランテ・ディ・サヴォイア
イザベッラ・デステ
マリーア・デステ - 子
- マルゲリータ・マリーア・ファルネーゼ
テレーザ・ファルネーゼ
オドアルド2世・ファルネーゼ
フランチェスコ・ファルネーゼ
アントーニオ・ファルネーゼ
概要
ラヌッチョ2世・ファルネーゼは、17世紀のイタリアの男性。
在位
パルマ公 1646年~1694年
ピアチェンツァ公
外部リンク
オドアルド2世・ファルネーゼ Odoardo II Farnese

- 生没
- 1666年8月12日~1693年9月6日
- 出身
- コロルノ
- 没地
- パルマ
- 父
- ラヌッチョ2世・ファルネーゼ
- 母
- イザベッラ・デステ
- 妻
- ドロテア・ゾフィア・フォン・プファルツ・ノイブルク
- 子
- アレッサンドロ・イニャーツィオ・ファルネーゼ
イサベル・ファルネシオ
概要
オドアルド2世・ファルネーゼは、17世紀のイタリアの男性。
外部リンク
イサベル・ファルネシオ Isabel Farnesio

- 生没
- 1692年10月22日~1766年7月11日
- 父
- オドアルド2世・ファルネーゼ
- 母
- ドロテア・ゾフィア・フォン・プファルツ・ノイブルク
- 夫
- フェリペ5世
- 子
- カルロス3世
マリアナ・ビクトリア・デ・ボルボーン
フィリッポ1世・ディ・ボルボーネ
マリー・テレーズ・アントワネット・ラファエル・ド・ブルボン
ルイス・アントニオ・デ・ボルボーン・イ・ファルネシオ
マリーア・アントニア・ディ・スパーニャ
概要
エリザベッタ・ファルネーゼは、17世紀~18世紀のイタリア出身の女性。
1700年、ハプスブルク朝スペインはカルロス2世がマドリードで亡くなった時に終わりを迎える。子供がいなかった彼の巨額の財産は、姉の子孫に渡ることになっていた。しかし、姉マリー・テレーズはフランスのルイ14世と結婚していた。ヨーロッパの最も強力な2つの国を単一の王の下に結びつけるという発想はあまりにも危険であると考えられていたので、ルイ14世とマリー・テレーズの孫の最年長ブルゴーニュ公ルイがフランス王を継承することが決定。最年少のアンジュー公フィリップはスペインの王となり、今日も王位に就いているスペインのボルボン王の血統が確立される。欧州、特にオーストリアとイングランドは、フランスに大きな権力を与えるため、そのような決定を受け入れるのは難しいと感じた。スペイン継承戦争は1701年に始まり12年間続く。1713年、ユトレヒト条約にてフランスとスペインが決して統一されないとの条件でフランスの継承を認める。
翌年、フェリペ5世の最初の妻マリア・ルイサ・デ・サボヤが25歳で亡くなった。スペインは新しい王妃を必要としたが、同じ政治的な理由から非常に慎重に選ばれなければならなかった。彼女はフランス人でもオーストリア人でもイングランド人でもいけない。カトリック教徒で、小国の王室の一員であることが好ましい。エリザベッタ・ファルネーゼは完璧な選択だった。彼女はパルマ公爵の娘で、その財産はやや少なかった。さらに、彼女の父親は死んでいて、叔父には息子がいなかったので、血統は断絶に近づいていた。彼女は22歳で、特別美貌というわけではなかったが、十分に美しかった。結婚は1714年8月25日にパルマで祝われた。
年表
別表記
Elisabetta Farnese
外部リンク
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年5月30日