
- 生没
- 1422年6月7日~1482年9月10日
- 出身
- ウルビーノ公国グッビオ
- 没地
- フェッラーラ
- 父
- グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロ?
- 妻
- ジェンティーレ・ブランカレオーニ
バッティスタ・スフォルツァ - 子
- ボンコンテ・ダ・モンテフェルトロ
アントーニオ・ダ・モンテフェルトロ
エリザベッタ・ダ・モンテフェルトロ
ジェンティーレ・ダ・モンテフェルトロ
コスタンツァ・ダ・モンテフェルトロ
アウラ・ダ・モンテフェルトロ
ジローラマ・ダ・モンテフェルトロ
ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロ
エリザベッタ・ダ・モンテフェルトロ
コスタンツァ・ダ・モンテフェルトロ
ヴィオランテ・ダ・モンテフェルトロ
キアラ・ダ・モンテフェルトロ
アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロ
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ
概要
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
ウルビーノ公 1444年~1482年
教会の旗手 1462年~1468年、1474年~1482年
教養
10代の頃、ヴィットリーノ・ダ・フェルトレの学校に学ぶ。
年表
1422年6月7日
グッビオにて、生。グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロとエリザベッタ・デリ・アッコマンドゥッチの間にペトロイア城で、又はルドヴィーカ・ウバルディーニとの間に生まれたとする説あり。ベルナルディーノ・ウバルディーニとアウラ・ダ・モンテフェルトロを両親とし、養子に出されたとする説あり。
1440年
ジェンティーレ・ブランカレオーニと結婚。
1444年7月22日
弟のウルビーノ伯オッダントーニオ・ダ・モンテフェルトロが殺害される。ウルビーノ伯となる。
1444年8月
グッビオに行く。
1450年
フランチェスコ1世・スフォルツァがミラノ公に就任したことを祝う馬上槍試合にて、鼻の付け根と右目を負傷。
以降、肖像画には左の横顔のみ描かせることになる。
1459年
妻ジェンティーレ・ブランカレオーニが亡くなる。
1460年7月22/27日
この日頃、フランチェスコ1世・スフォルツァの弟アレッサンドロ・スフォルツァ及びウルビーノ・モンフェッラート伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの指揮するフェッランテ・ダラゴーナ軍と傭兵隊長ヤコポ・ピッチニーノ指揮のジャン・ダンジュー軍、ナポリ領北部アブルッツォのジュリアノーヴァ近郊サン・ファブリアーノで激戦を交わす。勝敗の決着着かぬまま、フェッランテ・ダラゴーナ軍退却。
間もなく、ジャン・ダンジュー軍の総指揮官ヤコポ・ピッチニーノは教会領攻撃に向かい、ローマ近郊リエティに到着。ローマに不安、募る。
1460年
バッティスタ・スフォルツァと結婚。
1462年8月14日
アンジュー陣営の支援にナポリに出撃しようとしたシジスモンド・マラテスタ、自領セニガッリアの近くでフェッランテ・ダラゴーナ陣営のフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ軍に襲撃され、完敗。
1463年9月25/26日
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮の教皇軍の攻撃を受けていたシジスモンド・マラテスタ、ファーノを攻略される。
この後セニガッリアなども奪われ、リーミニのみを辛うじて保持するだけになった彼は、ヴェネツィアに保護を求める。
教皇と戦うシジスモンド・マラテスタを利用して教会領を侵そうと密かに彼を支援してきたヴェネツィアは求めに応じ、使節を送ってピウス2世にシジスモンド・マラテスタの免罪を要請。
1467年1月4日
バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍のフィレンツェ攻撃態勢を支援し続けるヴェネツィアに対し、フィレンツェ、ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナ及びミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、25年間の防衛同盟を結ぶ。
間もなくこの防衛同盟は、最高指揮官にフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロを据える。以後、フェッランテ・ダラゴーナは援軍を送り、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは自ら軍を率いて戦陣に加わる。
1467年7月23日
バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮のフィレンツェ・フェッランテ・ダラゴーナ・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ同盟軍は、イーモラ領モリネッラの近郊で激戦を交わすが決着せず。以後、両軍の戦闘、断続的に続く(1467年~68年)。
1469年7月
アレッサンドロ・スフォルツァ指揮の教皇軍・ヴェネツィア軍、リーミニ周辺に進撃。
これに対し、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、フェッランテ・ダラゴーナ及びフィレンツェ、ロベルト・マラテスタに援軍を送る。
1469年8月下旬
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ率いるロベルト・マラテスタ陣営軍、アレッサンドロ・スフォルツァ指揮の教皇軍・ヴェネツィア軍をリーミニ近郊で破る。
1472年5月14日
ヴォルテッラの武力鎮圧を目指すフィレンツェにシクストゥス4世、フェッランテ・ダラゴーナ、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが支援の姿勢を取り、この日、フェッランテ・ダラゴーナの派遣したフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロをフィレンツェは鎮圧軍の指揮官に任命。
1472年5月15/16日
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮のフィレンツェ軍、この日頃からヴォルテッラを包囲し、そのコンタードを次々と攻略。
1472年6月18日
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮のフィレンツェ軍、ヴォルテッラに入城するや指揮官を先頭に略奪、暴行、虐殺の限りを尽くす。
この平定後フィレンツェは、70を越える有力家門を追放してヴォルテッラを自領に併合すると共に、明礬鉱の所有権を独占。以後この鉱からの収益は、メディチ家及びフィレンツェの富の源泉となる。
1472年6月18日
ヴォルテッラに入城するや指揮官を先頭に兵士たちは略奪、暴行、強姦、虐殺の限りを尽くす。
ユダヤ商人メナヘム・ベン・アーロンが所有していたヘブライ語写本の膨大なコレクションを没収し、自分の書庫に加える。
1472年7月7日
妻バッティスタ・スフォルツァが亡くなる。
1474年7月29日
ナポリでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。チッタ・ディ・カステッロに関して誠実に解決策を見出すべきだと伝えた。
1474年8月21日
サン・ピエトロ大聖堂で教皇シクストゥス4世により公爵に叙任される。参列者はジローラモ・リアリオ、ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレ、他枢機卿など。
1474年8月23日
シクストゥス4世によりニッコロ・ヴィテッリ排除の軍の指揮官に任命される。
1474年8月31日
チッタ・ディ・カステッロへ向けて進軍。
1474年8月末
シクストゥス4世、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの令名と威勢によりニッコロ・ヴィテッリをチッタ・ディ・カステッロからようやく排除。しかしロレンツォ・イル・マニーフィコらを支援者とするニッコロ・ヴィテッリを厳罰には処せず。ニッコロ・ヴィテッリはフィレンツェに保護される。
1474年10月
イングランド王エドワード4世から、ガーター勲章を授与される。
1474年12月30日
ウルビーノでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。ロレンツォ・イル・マニーフィコからフィレンツェの馬上槍試合のために馬を1頭貸してくれないかと頼まれるが、すでにパッツィ家に貸してしまったと断る。
1476年7月13日
購入した綴れ織連作「トロイア戦争の物語」11枚の代金の3分の1をパスキエ・グルニエの息子ジャン・グルニエに支払う。
1477年1月25日(土)
フォッソンブローネでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。未払いの傭兵契約料について。
1477年4月17日
ウルビーノでミラノ公宛書簡をしたためる。ジェノヴァの反乱について。
1477年4月半ば
ボーナ・ディ・サヴォイア宛信書をしたためる。実際には4月30日のことだったが、この時すでにジェノヴァの反乱を鎮圧したことを祝う内容。
1477年5月24日
グッビオでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。未払いの傭兵契約料について。
1477年6月3日
グッビオでミラノ公宛書簡をしたためる。ミラノ公のおじたちの不運を残念とし、彼らの反乱を乗り切ったチッコ・シモネッタの思慮深さと鋭い洞察力を褒め称えた。
1477年7月2日
グッビオでミラノのマッテオ・ベネデッティ宛書簡を口述、フェデリーコ・ガッリが書き留める。チッコ・シモネッタにロレンツォ・イル・マニーフィコを信頼することはできないと説明し、対メディチ家側に引き入れようとしている。
1477年8月初旬
モントーネに向け、ウルビーノを出発。
1477年10月初旬
ナポリの軍隊の騎兵大隊5個をトスカーナ南部のマレンマ湿地帯に招集した。当初、恐らく、その軍隊をフィレンツェに対して数週間ほど使う計画だったが、寒い季節が近づいてきたので、軍隊を解散させなければならなくなった。
1477年11月下旬
左の足と足首に重傷を負う。
1478年2月7日
ウルビーノでローマ駐在大使ピエロ・フェリーチ宛書簡をしたためる。傭兵契約に対するミラノ公爵夫人(チッコ・シモネッタ)の後ろ盾について伝えてくれたことを感謝している。
1478年2月11日
ピエロ・フェリーチ宛書簡をしたためる。1478年2月6日付ローマ発ウルビーノ公ローマ大使よりウルビーノ<公宛暗号書簡に対する返答。
1478年2月14日
朝、ウルビーノ公宮殿小書斎で、ロレンツォ・ジュスティーニと会合。
ピエロ・フェリーチ及びアゴスティーノ・スタッコーリ宛書簡をしたためる。中身はシクストゥス4世に届くよう意図。シクストゥス4世はパッツィ家の陰謀の成功、不成功にかかわらず、ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナと協調しておくべきであること、フィレンツェに近いシエナに軍隊の出動を要請するつもりであること、息子グイドバルド・ダ・モンテフェルトロへの首飾りの贈り物のお礼、軍事費の支払いが遅れがちだと不満を述べている。
1478年4月26日(日)
1478年5月1日
ウルビーノでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。ジュリアーノ・デ・メディチの死に対する悔やみ状。実際には事を荒立てるなというような脅迫的な内容。
1478年5月8日
ウルビーノでチッコ・シモネッタ宛書簡をしたためる。シクストゥス4世がロレンツォ・イル・マニーフィコの振る舞いについて不満を述べるのには十分な根拠があったはずで、ロレンツォ・イル・マニーフィコがチッタ・ディ・カステッロとモントーネの両方において、教会と都市国家との問題に干渉したことが原因だとしている。ロレンツォ・ジュスティーニに貸した歩兵は、チッタ・ディ・カステッロでの問題を片付けるための要請に応じただけである。
1478年6月12日
ウルビーノ聖書が完成。フィレンツェから送られてこないのではと懸念。
1478年6月21日
ウルビーノでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。ウルビーノ聖書が送られたことに礼を述べる。
1478年6月25日
この時点でもまだ足の怪我は癒えていない。乗馬用椅子を作らせて、怪我をした足を馬の首に回して乗ることができるようにしていた。
1478年
この頃、シクストゥス4世との傭兵契約がようやく成立して俸給の全額が支払われた。重騎兵4百名と歩兵4百名を指揮した報酬は7万7千ドゥカート。この現金はロレンツォ・ジュスティーニによって届けられた。重騎兵には15ドゥカート、歩兵には8ドゥカートを与えた。
1478年7月
1478年7月半ば
この頃までに、シクストゥス4世とフェッランテ・ダラゴーナは、フィレンツェに宣戦。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮の教会軍とカラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナ指揮のフェッランテ・ダラゴーナ軍、モンテプルシアーノ方面からフィレンツェ領内に侵攻。なお戦闘態勢の整わないフィレンツェ軍を圧して各地の城塞を占領。
1479年9月20~22日
シクストゥス4世、自陣の指揮官カラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナとフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロへの書簡で、ロレンツォ・イル・マニーフィコのフィレンツェからの追放をこれまでにも増して強く主張。
1479年11月13日
フィレンツェ共和国の主要な要塞の一つであるコッレ・ヴァル・デルサを何週間にもわたって砲火を浴びせた後、陥落させる。
1480年5月22日
ヴィテルボの群衆の前で演説。
1480年
1481年11月29日
フォッソンブローネでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。友好関係を結ぶことに同意。
1482年3月7日
シクストゥス4世との傭兵契約が切れる。更新されることはなかった。
1482年4月23日(火)
ウルビーノを出発。
1482年4月28日(日)
フィレンツェに到着。トルナブオーニ宮殿に迎えられ、裕福なフィレンツェ市民数名とロレンツォ・イル・マニーフィコと夕食を共にする。
1482年4月29日(月)
サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂を訪れた後で、フィレンツェを出発。カファッジュオーロにあるロレンツォ・イル・マニーフィコの壮大なヴィッラに1泊して、それから北に向かう。
1482年5月3日
フェッラーラ戦争:ヴェネツィアがフェッラーラに宣戦。ヴェネツィアにシクストゥス4世、リーミニのロベルト・マラテスタ、ジェノヴァなどが、フェッラーラにナポリのフェッランテ・ダラゴーナ、ミラノのルドヴィーコ・イル・モーロ、ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びフィレンツェが加勢し、ほぼイタリア全土に戦線が拡大する。
1482年5月4日
レーヴェレでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。できるだけ多くの歩兵をフェッラーラ公エルコーレ1世・デステに送ってくれるよう頼む。
1482年9月10日
マラリアで没する。死の床で、魂と身体をフランシスコ会の修道士に委ねて欲しいと頼んだ。亡骸はウルビーノの外れにあるサン・ベルナルディーノ教会に埋葬された。防腐処理を施した彼の亡骸は、少なくとも2世紀は主祭壇の下に見えていた。木の人形に似ており、肉が落ちて白い肌に覆われていた。深紅と緋色のサテンの優雅なローブに身を包み、横に剣が添えられている。
義理の息子ロベルト・マラテスタが没する。
子グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ、ウルビーノ公となる。
肖像
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロとオッタヴィアーノ・ウバルディーニの肖像 Ritratto di Federico da Montefeltro e Ottaviano Ubaldini della Carda
- 作者
- アンブロージョ・バロッチの工房
- 制作
- 1474年以降
- 媒材
- 石
- 寸法
- 縦50 cm×横110 cm×厚み12 cm
- 所蔵
- ウルビーノ公宮殿
- 番号
- inv. S 93


展示会
2022年グッビオ、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ生誕6百年展
外部リンク
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの肖像 Ritratto di Federico da Montefeltro
- 作者
- トスカーナの彫刻家
- 制作
- 1490年代
- 媒材
- 大理石
- 寸法
- 縦47 cm×横38.5 cm×厚み8.3 cm
- 所蔵
- ペーザロ市立美術館
- 番号
- inv. 4142

展示会
2022年グッビオ、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ生誕6百年展
外部リンク
ウルビーノ公フェデリーコの記章の陶板 Formelle con insegne federiciane
- 作者
- グッビオの工房
- 制作
- 1480~1482年頃
- 媒材
- テラコッタ
- 寸法
- 縦33.5 cm×横33.5 cm
- 所蔵
- グッビオ公宮殿


展示会
2022年グッビオ、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ生誕6百年展
外部リンク
Finestre sull'Arte
Mostra Federico da Montefeltro
1478年2月14日付書簡
- 日付
- 1478年2月14日、ウルビーノ
- 宛先
- ピエロ・フェリーチ、アゴスティーノ・スタッコーリ
- 寸法
- 縦215 mm×横290 mm
- 所蔵
- ウルビーノ、ウバルディーニ家文書館
- 番号
- b. 78, 1, 2






展示会
2022年グッビオ、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ生誕6百年展
暗号帳
- 所蔵
- ヴァティカン図書館


フィレンツェ史 Historia Florentina
- 著者
- ポッジョ・ブラッチョリーニ
- 作者
- フィレンツェの細密画家
- 制作
- 1472~1474年
- 寸法
- 縦324 mm×横224 mm
- 所蔵
- ヴァティカン図書館
- 番号
- Urb.lat.491
概要
ヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチによる印刷本『フィレンツェ史』を原本とした写本で、ヤコポ・ブラッチョリーニの序文とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロへの献辞付き。
ヴォルテッラを攻囲するフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ

フィレンツェの地図

外部リンク
キリストの血、神の力、将来起こる出来事について Sixtus IV, De sanguine Christi; De potentia Dei; De futuris contingentibus
- 著者
- シクストゥス4世
- 写字
- マッテオ・コントゥージ
- 制作
- 1474~1482年
- 所蔵
- ヴァティカン図書館
- 番号
- Urb.lat.151
概要
出版社ジョヴァンニ・フィリッポ・デ・リグナミーネから贈呈された印刷本を基に、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが作らせた彩色写本。シクストゥス4世著『キリストの血』『神の力』『将来起こる出来事について』収録。


外部リンク
ウルビーノ聖書 Bibbia di Federico da Montefeltro

- 制作
- 上巻:1476年、下巻:1478年
- 寸法
- 縦596 mm×横442 mm
- 所蔵
- ヴァティカン図書館
- 番号
- Urb.lat.1
Urb.lat.2
概要
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロがヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチに発注。上巻は1476年に完成。挿絵は、フィレンツェの工房でフランチェスコ・ディ・アントーニオ・デル・キエリコの指揮の下で複数の流派に属する細密画家によって制作されたが、アッタヴァンティ様式がとりわけ優勢である。
上巻27頁:出エジプト記1章1
フランチェスコ・ディ・アントーニオ・デル・キエリコ自身が制作。枠線に配置された6つの円には、モーセの生涯の物語が描かれている。

下巻304頁:ヨハネの黙示録 Liber Apocalypsis

別表記
モンテフェルトロの聖書、Urbino Bible
外部リンク
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Wikipedia
参考文献
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
関連項目
別表記
大フェデリーゴ、フェデリーコ2世、3世、フェデリコ、フェデリゴ・モンテフェルトロ、フェデリーゴ・ダ・モンテフェルトロ、フェデリーゴ・ディ・モンテフェルトロ、Federigo di Montefeltro
外部リンク
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Google Books - Imago triumphalis
il Ducato
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Treccani
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『マキアヴェリ』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス百科事典』
『ルネサンス舞踊紀行』
『ルネッサンス夜話』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年12月31日