アリエノール・ダキテーヌ Aliénor d'Aquitaine

- 生没
- 1122年~1204年4月1日
- 出身
- アキテーヌ公国ポワチエ
- 没地
- アキテーヌ公国フォントヴロー
- 父
- アキテーヌ公ギヨーム10世
- 母
- アエノール・ド・シャテルロー
- 夫
- フランス王ルイ7世
イングランド王ヘンリー2世 - 子
- マリー
アリックス
ウィリアム
ヘンリー
マティルダ
リチャード
ジェフリー
エレノア
ジョーン
ジョン
概要
アリエノール・ダキテーヌは、12世紀~13世紀のフランス王国の女性、アキテーヌ公、フランス王妃、イングランド王妃。子孫が各地の君主及び妃となったことから「ヨーロッパの祖母」と呼ばれる。
在位
アキテーヌ公 1137年~1204年
年表
1174年1月
夫ヘンリー2世に捕えられ、シノン城に幽閉される。
1174年7月
イングランドへ移送され、以降15年余り軟禁される。
埋葬地
フォントヴロー修道院
外部リンク
アラン9世・ド・ロアン Alain IX de Rohan
- 生没
- 1382年頃~1462年3月20日
- 没地
- ラ・シェーズ
- 父
- アラン8世・ド・ロアン
- 母
- ベアトリス/イザベル・ド・クリソン
- 妻
- マルグリット・ド・ブルターニュ
マリー・ド・ロレーヌ
ペレネル・ド・マイユ - 子
- マルグリット・ド・ロアン
ジャン2世・ド・ロアン
ピエール・ド・ロアン
ベアトリス・ド・ロアン
ジャンヌ・ド・ロアン
カトリーヌ・ド・ロアン
アラン・ド・ロアン
概要
アラン9世・ド・ロアンは、14世紀から15世紀のフランスの男性。
外部リンク
マルグリット・ド・ロアン Marguerite de Rohan
- 生没
- 14??年~1496年
- 没地
- コニャック城
- 父
- アラン9世・ド・ロアン
- 母
- マルグリット・ド・ブルターニュ
- 夫
- ジャン1世・ダングレーム
- 子
- ルイ・ダングレーム
シャルル2世・ダングレーム
ジャンヌ・ダングレーム
概要
マルグリット・ド・ロアンは、15世紀のフランスの女性。
年表
外部リンク
カトリーヌ・ド・ロアン Catherine de Rohan
- 生没
- 1425年頃~1471年以降
- 父
- アラン9世・ド・ロアン
- 母
- マルグリット・ド・ブルターニュ
- 夫
- ジャック・ド・ディナン
ジャン1世・ダルブレ - 子
- フランソワ・ド・ディナン
アラン・ダルブレ
マリー・ダルブレ
ジャンヌ・ルイーズ・ダルブレ
概要
カトリーヌ・ド・ロアンは、15世紀のフランスの女性。
年表
1429年4月22日
ジャック・ド・ディナンと結婚。
1436年11月20日
トレミュソンにて、フランソワーズ・ド・ディナンを出産。
1444年4月30日
夫ジャック・ド・ディナン、死。
1447年9月20日
ジャン1世・ダルブレと結婚。
ギヨーム・ド・シャティヨン Guillaume de Châtillon
- 生没
- 1???年~1456年
- 父
- ジャン1世・ド・シャティヨン
- 母
- マルグリット・ド・クリソン
- 妻
- イザベル・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
- 子
- フランソワーズ・ド・シャティヨン
ジャンヌ・ド・シャティヨン
シャルロット・ド・シャティヨン
概要
ギヨーム・ド・シャティヨンは、15世紀頃のフランスの男性。
年表
1456年
死(1455年)。
外部リンク
フランソワーズ・ド・シャティヨン Françoise de Châtillon
- 生没
- 1452年~1480年
- 父
- ギヨーム・ド・シャティヨン
- 母
- イザベル・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
- 夫
- アラン・ダルブレ
- 子
- ジャン・ダルブレ
ピエール・ダルブレ
ガブリエル・ダルブレ
イザベル・ダルブレ
ルイーズ・ダルブレ
アマニュー・ダルブレ
シャルロット・ダルブレ
概要
フランソワーズ・ド・シャティヨンは、15世紀のフランスの女性。
年表
1456年
アラン・ダルブレと結婚(1470年)。
1469年
ジャン・ダルブレを出産。
1478年頃
アマニュー・ダルブレを出産。
1479年
シャルロット・ダルブレを出産。
1480年
男児出産中に死(1481年)。
外部リンク
シャルロット・ド・シャティヨン Charlotte de Châtillon
- 生没
- 145?年~1514年以前
- 父
- ギヨーム・ド・シャティヨン
- 母
- イザベル・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
- 夫
- アントワーヌ・ド・ヴィルキエ
概要
シャルロット・ド・シャティヨンは、15世紀のフランスの女性。
年表
ピエール・テライユ Pierre Terrail
- 生没
- 1476年~1524年4月30日
- 出身
- ポンシャラ
- 没地
- ロマニャーノ・セージア
概要
ピエール・テライユは、15世紀から16世紀の男性。騎士の権化として名高いフランス人。
戦歴
フォルノーヴォの戦い:フランス王国
ガリリャーノの戦い:フランス王国、敗北
年表
1476年
ポンシャラのベイヤール城に生。(1473年)
1500年2月
ビナスコでガレアッツォ・サンセヴェリーノ配下の騎兵との小競り合いで捕虜となる。
ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロに会い、剣と馬を返され、リニー伯シャルル・ド・ブルボンにミラノ公が慇懃な紳士だったと話す。
1510年
この頃?、フェッラーラのフランス駐屯地の隊長に任命され、ルクレツィア・ボルジアと知り合う。
フェッラーラ軍と共にフランス軍が要塞を攻略してフェッラーラに凱旋し、ルクレツィア・ボルジアに関して記す。「フェッラーラ公夫人は真っ先にフランス軍を歓迎された。彼女はこの世の真珠である。イタリア式の素晴らしい祭典や宴を毎日のように開く。これ程輝かしい貴婦人は、当代はおろか過去にも稀だと私は言いたい。彼女は美しく善良で気品があり、何人に対しても気さくである。フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステは勇敢で練達の君主であるが、夫人の内助の功がすこぶる大きかったことは、誰もが認めざるを得ない」
1524年4月30日
ロマニャーノ・セージアで死。
別表記
シュヴァリエ・ドゥ・ベイヤール、バヤール、Pierre Terrail de Bayard
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『Lucretia Borgia』
フランソワ2世・ド・ブルターニュ François II de Bretagne
- 生没
- 1435年6月23日~1488年9月9日
- 出身
- ブルターニュ公国クリソン
- 没地
- ブルターニュ公国クエロン
- 父
- リシャール・ド・ブルターニュ
- 母
- マルグリット・ドルレアン
- 妻
- マルグリット・ド・ブルターニュ
マルグリット・ド・フォワ - 子
- ジャン・ド・ブルターニュ
アンヌ・ド・ブルターニュ
イザボー・ド・ブルターニュ
フランソワ・ド・ブルターニュ
アントワーヌ・ド・ブルターニュ
フランソワ・ド・ブルターニュ
フランソワ・ド・ブルターニュ
フランソワーズ・ド・ブルターニュ
概要
フランソワ2世・ド・ブルターニュは、15世紀のフランス王国の男性。
在位
ブルターニュ公 1458年~1488年
年表
1486年
フランス摂政アンヌ・ド・フランスとブルボン公ピエール2世・ド・ブルボン夫妻がルイ11世の政策を引き継いで諸侯への干渉を企て、息子のないフランソワ2世・ド・ブルターニュの死後シャルル8世をブルターニュ公とする、ブルターニュの貴族たちの支持を取り付ける。これに反発したフランソワ2世・ド・ブルターニュは長女アンヌ・ド・ブルターニュを後継者に定め、ルイ2世・ドルレアンらと結んで王家に反乱を起こす。
1488年7月28日
サン=トーバン=デュ=コルミエの戦いでブルターニュ軍はフランス王軍に敗北(1488年7月27日)。
埋葬
ナント大聖堂
外部リンク
アンヌ・ド・ブルターニュ Anne de Bretagne

- 生没
- 1477年1月25日~1514年1月9日
- 出身
- ブルターニュ公国ナント
- 没地
- フランス王国ブロワ
- 父
- フランソワ2世・ド・ブルターニュ
- 母
- マルグリット・ド・フォワ
- 夫
- シャルル8世
ルイ12世 - 子
- シャルル=オルラン・ド・ヴァロワ
フランソワ・ド・ヴァロワ
?・ド・ヴァロワ
シャルル・ド・ヴァロワ
フランソワ・ド・ヴァロワ
アンヌ・ド・ヴァロワ
クロード・ド・フランス
ルネ・ド・フランス
概要
アンヌ・ド・ブルターニュは、15世紀から16世紀のフランス王国の女性。
在位
ブルターニュ公 1488年~1514年
年表
1488年9月9日
父フランソワ2世・ド・ブルターニュ死。ブルターニュ公領を相続。
1490年12月19日
レンヌにて、マクシミリアン1世と代理人誓約の形で結婚。
1491年12月6日
ランジェ城にて、シャルル8世との結婚が強行される。
1492年2月8日
サン=ドニ大聖堂でフランス王妃として戴冠。
1492年
シャルル=オルラン・ド・ヴァロワを出産。
1493年8月
フランソワ・ド・ヴァロワを出産。
1495年
男児を出産。
1496年
シャルル・ド・ヴァロワを出産。
1497年
フランソワ・ド・ヴァロワを出産。
1498年
アンヌ・ド・ヴァロワを出産。
1499年1月7日(月)
ナントにて、ルイ12世との結婚証明書に署名。
ナントにて、ブルターニュ公爵領の独立性と統治機構に関する特許状に合意。
1499年1月8日(火)
ナント城にて、ルイ12世との結婚式を挙げる。
1499年10月13日
クロード・ド・フランスを出産。
1510年10月25日
ルネ・ド・フランスを出産。
1514年1月9日
死。
1514年2月15日
サン=ドニ大聖堂に埋葬される。
別表記
Anne of Brittany
外部リンク
ウィキペディア
Find A Grave
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
kleio.org
参考文献
『イタリア史』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『The Life of Cesare Borgia』
アンヌ・ド・モンモランシー Anne de Montmorency
- 生没
- 1492年3月15日~1567年11月12日
概要
アンヌ・ド・モンモランシーは、15世紀から16世紀の男性。
年表
1536年7月25日
この日頃カール5世、フランソワ1世に反撃すべく大軍を3隊に分け三方からプロヴァンスに入り各地を攻撃させるが、折からの暑さ、フランソワ1世の総督アンヌ・ド・モンモランシー(1493年~1567年)の焦土化作戦による食糧調達の困難化、ペストの発生、などにより進軍に難渋し停滞。
1557年8月10日
フランドルからフランスに侵攻したエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア指揮下5万7千のフェリペ2世の大軍、パリ北東百キロ余りのサン・カンタンに籠るアンヌ・ド・モンモランシー指揮の2万4千のアンリ2世軍を包囲し大破。2日後サン・カンタンに入ったWilliam Herbert指揮のメアリー1世軍、アンヌ・ド・モンモランシー自身とその子らを捕囚とする。
外部リンク
参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アンリ・ド・ギーズ Henri de Guise
- 生没
- 1550年1月31日?~1588年12月23日
- 父
- フランソワ・ド・ギーズ
- 母
- アンナ・デステ
概要
アンリ・ド・ギーズは、16世紀の男性。
外部リンク
参考文献
『世界悪女大全』
『メディチ家』
クリスティーヌ・ド・ロレーヌ Christine de Lorraine
- 生没
- 1565年8月16日~1637年12月19日
- 父
- シャルル2世・ド・ロレーヌ
- 母
- クロード・ド・ヴァロワ
- 夫
- フェルディナンド1世・デ・メディチ
- 子
- コジモ2世・デ・メディチ
エレオノーラ・デ・メディチ
カテリーナ・デ・メディチ
フランチェスコ・デ・メディチ
カルロ・デ・メディチ
フィリッピーノ・デ・メディチ
ロレンツォ・デ・メディチ
マリーア・マッダレーナ・デ・メディチ
クラウディア・デ・メディチ
概要
クリスティーヌ・ド・ロレーヌは、16世紀から17世紀の女性。
年表
1589年5月
別表記
マリア・クリスティーナ
外部リンク
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
ルネ2世・ド・ロレーヌ René II de Lorraine
- 生没
- 1451年5月2日~1508年12月10日
- 父
- フェリー2世・ド・ヴォーデモン
- 母
- ヨランド・ダンジュー
- 妻
- フィリッパ・ファン・エフモント
- 子
- シャルル・ド・ロレーヌ
フランソワ・ド・ロレーヌ
アントワーヌ・ド・ロレーヌ
アンヌ・ド・ロレーヌ
ニコラ・ド・ロレーヌ
イザベル・ド・ロレーヌ
クロード・ド・ロレーヌ
ジャン・ド・ロレーヌ
ルイ・ド・ロレーヌ
クロード・ド・ロレーヌ
カトリーヌ・ド・ロレーヌ
フランソワ・ド・ロレーヌ
概要
ルネ2世・ド・ロレーヌは、15世紀から16世紀の男性。
在位
ヴォーデモン伯 1470年~1508年
ロレーヌ公 1473年~1508年
先代:ヨランド・ダンジュー
カラブリア公 1481年~1493年12月10日
バル公 1483年~1508年
別表記
レネ
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
フランソワ1世・ド・ロレーヌ François I de Lorraine
- 生没
- 1519年2月17日~1563年2月24日
- 出身
- バル=ル=デュック
- 父
- クロード1世・ド・ロレーヌ
- 母
- アントワネット・ド・ブルボン
- 妻
- アンナ・デステ
概要
フランソワ1世・ド・ロレーヌは、16世紀の男性。
別表記
ド・ギーズ
外部リンク
参考文献
エティエンヌ・ド・ヴェスク Étienne de Vesc
- 生没
- 1445年頃~1501年10月6日
概要
エティエンヌ・ド・ヴェスクは、15世紀から16世紀の男性。
別表記
エチエンヌ、ヴェクス
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ルイ・ド・ヴィルヌーヴ Louis de Villeneuve

- 生没
- 1451年頃~1516年
- 没地
- フランス王国ディーニュ
概要
ルイ・ド・ヴィルヌーヴは、15世紀から16世紀のフランスの男性。
在位
トラン男爵
トラン侯爵 1505年~
年表
外部リンク
参考文献
イヴ・ダレーグル Yves Tourzel d'Alègre
- 生没
- 1452年頃~1512年
- 父
- ジャック・トゥルツェル・ダレーグル
- 子
- ヴィヴェロ領主ジャック・トゥルツェル・ダレーグル
概要
イヴ・ダレーグルは、15世紀から16世紀の男性。
戦歴
年表
1499年11月9日
チェーザレ・ボルジアのもとで槍騎兵3百を指揮し、ミラノ出発。
1500年1月19日
チェーザレ・ボルジアの命により、フォルリンポーポリ制圧。
1500年
ノヴァーラへ向かう。
1500年3月21日
ノヴァーラ、ミラノ軍に降伏。
1501年1月24日
騎兵500でモデナ到着。
1501年6月19日~1501年6月23日
ルイ12世軍は、まずイヴ・ダレーグル指揮の小隊、続いてロベール・スチュアート・ドオービニイの主力部隊の順でローマに入る。
1501年6月28日
ローマ出発。
別表記
イーヴ・トゥルツェル・ダレグル、イヴ・ダレグレ、ディ・アレグリ、イーヴォ・ダレグリ、Ives d'Allégre、Ivo d'Allegre
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Dizionario di Erudizione Storico-Ecclesiastica』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ゴーティエ6世・ド・ブリエンヌ Gautier VI de Brienne

- 生没
- 1304年頃~1356年9月19日
- 父
- ゴーティエ5世・ド・ブリエンヌ
- 母
- ジャンヌ・ド・シャティヨン
概要
ゴーティエ6世・ド・ブリエンヌは、14世紀の男性。
在位
アテネ公 1311年~1356年
年表
別表記
ヴァルテル・ド・ブリエンヌ、グアルティエーリ・ディ・ブリアンヌ、ブリアンヌ伯ゴーティエ
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
ラウラ・ド・ノヴ Laura de Noves

- 生没
- 1310年~1348年4月6日
- 出身
- アヴィニョン
- 父
- オーディベール・ド・ノヴ
- 夫
- ユーグ2世・ド・サド
概要
ラウラ・ド・ノヴは、14世紀頃の女性。フランチェスコ・ペトラルカに詩作の霊感を与えたラウラとは彼女ではないかと言われているが、確証はない。
年表
1325年1月16日
マルキ・ド・サドの先祖ユーグ2世・ド・サドと結婚。
1348年4月6日
死(1347年4月3日)。
別表記
ラウラ・ド・サド、Laura de Sade
外部リンク
参考文献
『イコノロジー研究』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ローマ教皇検死録』
ロベール・スチュアート・ドオービニイ Robert Stuart d'Aubigny

- 生没
- 1470年頃~1544年
概要
ロベール・スチュアート・ドオービニイは、15世紀から16世紀の男性。
年表
1499年7~8月
ジャンヤコポ・トリヴルツィオを名目上の指揮者とするルイ12世軍の実質上の指揮者として、アルプスを越えてイタリアに侵攻し、アスティに結集。
1501年6月1日
ルイ12世軍を指揮し、ナポリ攻略のためアルプスを越えてイタリアに侵攻。
1501年6月19日~1501年6月23日
まずイヴ・ダレーグル指揮のルイ12世軍小隊がローマに入り、それに続いて主力部隊を率いてローマに入る。
1501年6月28日
フランス軍を指揮しローマ出発。
別表記
ドーヴィニ、エベラルド・ディ・オービニィ、ベロルド・ステュアート、Berold Stuart
外部リンク
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
シャルル・ダンボワーズ Charles d'Amboise

- 生没
- 1473年~1511年2月11日
- 出身
- フランス王国ショーモン=シュル=ロワール
- 没地
- コッレッジョ
- 父
- シャルル1世・ダンボワーズ
概要
シャルル・ダンボワーズは、15世紀から16世紀の男性。
在位
ミラノ総督 1500年~1511年
フランス元帥 1506年~1511年
年表
1500年4月初旬
ルイ12世軍は、ミラノを奪還。その他のロンバルディアの諸都市も次々にフランスの軍門に下る。
ルイ12世により、シャルル・ダンボワーズがミラノ総督に任命される。
1502年6月半ば
リヨンでチェーザレ・ボルジアとその傭兵隊長たちによるフィレンツェへの敵対行動を知ったルイ12世から、援軍をトスカーナに送るよう指令を受ける。
1506年5~6月
レオナルド・ダ・ヴィンチをミラノに招待。
1506年10月20日
ユリウス2世がイーモラに到着。直ちにジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにボローニャ明け渡しをさらに強く要求。
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、ルイ12世の支援を期待し、防衛態勢を整える。
すでにルイ12世から軍を率いてユリウス2世を支援するよう指令を受けていたミラノ総督シャルル・ダンボワーズは、ユリウス2世の軍(マントヴァ、フェッラーラ、ウルビーノ、フィレンツェなどからの援軍を含む)と反対側からボローニャに迫る。ヴェネツィアはユリウス2世の援軍派遣の要求に応じず、中立を守る。
1506年10月25日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにボローニャ放棄を督促。
1506年11月1/2日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、ボローニャを逃亡。シャルル・ダンボワーズは彼の身の安全を保障しミラノに亡命させる。
1508年2月下旬~3月
マクシミリアン1世は、軍と共にヴェネツィア領フリウーリ、Cadoreに侵攻するが、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍はこれを撃破し、逆にゴリツィア、トリエステなどハプスブルク家の所領を占領。
ルイ12世は、ミラノ総督シャルル・ダンボワーズに、ヴェネツィアを支持し、ジャンヤコポ・トリヴルツィオ指揮の軍を用いてマクシミリアン1世からミラノを防衛せよと指令。
1509年4月15~16日
ミラノに結集したシャルル・ダンボワーズ指揮のルイ12世軍は、ルイ12世の命を受けて出撃。ルイ12世も自ら軍を率いてアルプスを越え、またイタリアに侵入。
1509年5月8~10日
ルイ12世は、ジャンヤコポ・トリヴルツィオとシャルル・ダンボワーズ指揮の全軍を率いて改めてミラノから出撃。
1510年4~5月
シャルル・ダンボワーズとジャンヤコポ・トリヴルツィオの指揮するルイ12世軍、マクシミリアン1世軍、アルフォンソ1世・デステの率いるフェッラーラ軍、ヴェネツィアの占領地を再奪還し始める。
1510年5月24日
フランス軍、ヴィチェンツァも奪回。
1510年8月9日
ユリウス2世は、アルフォンソ1世・デステを教会への反逆者として破門しその全ての領国及び地位を剥奪するとの勅書を発する。加えてフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮の大軍をフェッラーラに向かわせる。
シャルル・ダンボワーズ及びアルフォンソ1世・デステは、ヴェネツィア領攻撃からミラノ及びフェッラーラ防衛に方針を転換。
1510年8~9月上旬
シャルル・ダンボワーズ及びアルフォンソ1世・デステの撤退で孤立化したマクシミリアン1世、ヴィチェンツァを捨てヴェローナに撤退。ヴェネツィアはヴィチェンツァを奪い、ヴェローナを攻撃。
1510年10月14日
ユリウス2世、シャルル・ダンボワーズ破門の勅書を発する。
1510年10月18日~下旬
ミラノ及びフェッラーラの防衛に目途をつけたシャルル・ダンボワーズ、ユリウス2世の滞在するボローニャに軍を率いて迫り、攻撃態勢を取るが極度の疲労と熱病で倒れていたユリウス2世の策略に阻まれて攻撃できず、撤退。
1511年2月11日
コッレッジョにて、死。
肖像
別表記
シャルル・ショモン・ダンボワーズ、Charles Ciamonte d'Amboise
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『君主論』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lucretia Borgia』
ジャンヌ・ダルク Jeanne d'Arc
- 生没
- 1412年1月6日~1431年5月30日
概要
ジャンヌ・ダルクは、15世紀の女性。
年表
1429年5月8日
アルマニャック派の支持によりロワール川以南を領有しフランス王を称するシャルル7世に対し、イングランド王をフランス王位継承者とするトロワの和約にもかかわらずシャルル7世こそ正統なフランス王位継承者だと提言してシャルル7世より小軍を与えられ、この日、オルレアンをイングランドから解放。
1429年7月17日
シャルル7世は、伝統に則りランス大聖堂でフランス王として戴冠式を実現。
1430年5月23日
イングランドと結ぶブルゴーニュ派軍にコンピエーニュで捕らえられてイングランド軍に引き渡され、以後ルーアンに幽閉される。
1431年5月30日
宗教裁判で有罪と宣告され、この日、ルーアンで火刑に処される。しかしこの悲劇を機にフランスのナショナリズム醸成される。
外部リンク
参考文献
『君主論』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジャン・ダルマニャック Jean V d'Armagnac

- 生没
- 1420年~1473年
- 父
- ジャン4世・ダルマニャック
- 母
- イザベル・ド・ナヴァール
概要
ジャン・ダルマニャックは、15世紀の男性。
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
ディアヌ・ド・ポワチエ Diane de Poitiers

- 生没
- 1499年9月3日~1566年4月25日
- 夫
- ルイ・ド・ブレゼ
概要
ディアヌ・ド・ポワチエは、15世紀から16世紀の女性。
別表記
ディアーヌ・ド・ポアティエ
外部リンク
参考文献
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『メディチ家』
『ルネサンス百科事典』
フィリベール・ド・シャロン Philibert de Chalon
- 生没
- 1502年3月18日~1530年8月3日
概要
フィリベール・ド・シャロンは、16世紀の男性。
年表
1528年2月17日
フィリベール・ド・シャロン指揮のローマ占領カール5世軍は、荒廃したローマを撤収し、ナポリ方面に向かう。
直後、ナポレオーネ・オルシーニらの率いるオルシーニ家の軍や領民らがローマに入り、カール5世軍の傷病兵などを殺害すると共に市街をさらに略奪、破壊。
1528年3月半ば
この頃、Lucera近くでフィレンツェ軍を配下に加えるなど威勢を増したオデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、トロイアでフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍と対峙。後者は前者の威力を見て戦わずに退却。
1528年8月末
すでにそのナポリ包囲態勢が大きく崩れていたMichele Antonio指揮のフランソワ1世軍、市の前から近郊Aversaに撤退。これをフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍が追撃し、Aversaを急襲。フランソワ1世軍、ほとんど壊滅し降伏。フランソワ1世主導によるナポリ奪還戦、完敗に終わる。
1529年8月24日
クレメンス7世の使節団の強い要求に従って一旦はフィレンツェ使節団の接見を拒否したカール5世、アンドレア・ドーリアの要請をいれ、クレメンス7世の使節の一人の同席の下でようやく接見。これまでの誠意と今後の恭順、協調を言上した上、クレメンス7世こそフィレンツェの自由とカール5世自身にとって最大の敵であると力説し、フィリベール・ド・シャロン指揮のフィレンツェ攻略軍の進撃を止めるよう懇請する使節団に対し、クレメンス7世の名誉を認めぬ限り交渉の余地はないと断言し、仲介するから直ちにクレメンス7世と和解交渉を開始せよと命ずる。
1529年8月末~9月初旬
フィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍は、ペルージア領内に進撃して各地を次々と占領し、ペルージア市街を孤立させる。
1529年9月9日
ペルージアを支配していた(1522年~)マラテスタ・バリオーニは、フィリベール・ド・シャロンに降伏の意を伝える。
1529年9月11~12日
マラテスタ・バリオーニ、自軍と共に安全に退出することを保障され、フィレンツェとの傭兵契約の継続を許されてペルージアを去る。フィレンツェ軍もペルージアを撤退。
これによりフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍の攻撃目標はいよいよフィレンツェ領に絞られる。
1529年11月9/10日
カール5世軍は、総力を挙げてフィレンツェ市街を夜襲するが予想に反して激しく抵抗され、指揮官フィリベール・ド・シャロンはやむなく撤退を指令。
1529年11月11日
フィリベール・ド・シャロンは、フィレンツェ攻撃への支援強化を求めるため、ボローニャに向かう。
1529年11月29日
フィリベール・ド・シャロンは、フィレンツェ攻略に必要として求めたものの内、資金はクレメンス7世から継続的に与えるとの約束を得、軍はこの時すでにヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと和解することを決意したカール5世からそれによって不要となるロンバルディア駐在の軍を与えるとの約束を得、ボローニャからフィレンツェ市外の戦線に帰着。
1530年1月下旬~末
フィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍は、全面的にフィレンツェを包囲し、全軍を挙げて市壁下に迫る。フィレンツェ市内と市外の交通、通信はほとんど途絶し、食糧の搬入も不可能となる。
1530年6月21日
フィレンツェの十人委員会の委員Iacopo Gherardi、Andrea Tebaldiらが参画しているクレメンス7世毒殺の陰謀を聞き知ったマラテスタ・バリオーニ、カール5世軍陣営に通報。
ペルージアを追われてフィレンツェ軍指揮官に留まった後もフィリベール・ド・シャロン及びクレメンス7世に使者を送って接触を持ち続けると共に、この年4月からはフランソワ1世の宮廷にも使者を送って彼にはその言葉に反してフィレンツェ支援の意図がないことを感得していたマラテスタ・バリオーニは、自身のペルージア復辟の意図を実現するにはカール5世、クレメンス7世側につくのが有利と判断していたが、この陰謀の通報により、フィリベール・ド・シャロン及びクレメンス7世の信頼を得始める。
1530年7月半ば~下旬
フィリベール・ド・シャロン、マラテスタ・バリオーニの勧奨に従ってフィレンツェに使者を送り、メディチ家復辟を条件とする和議を提案するがフィレンツェは依然この条件を拒否。両者の裏面での接触、最終的に途絶。
1530年7月末
この頃ローマで、クレメンス7世の代理、フィリベール・ド・シャロンの使者及びマラテスタ・バリオーニの使者により、マラテスタ・バリオーニのカール5世・クレメンス7世陣営への寝返りの密議が纏まる。
1530年8月3日
Francesco Ferrucci指揮のフィレンツェ軍とフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍、ピストイア近郊の山中Gavinanaで決戦。フィリベール・ド・シャロン戦死し(1502年~)、カール5世軍は一時撤退。しかしすぐ援軍が到着したカール5世軍、逆にフィレンツェ軍を撃破。捕虜となったFrancesco Ferrucciはすぐに虐殺される(1489年~)。
別表記
フィリベルト・デ・シャロン、フィリベール・ドランジュ、オラニエ公フィリベルト、オレンジ公フィリベルト
外部リンク
参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『ルネサンスの華』
マリー・ド・リュクサンブール Marie de Luxembourg
- 生没
- 1472年~1547年4月1日
- 没地
- ラ・フェール
- 父
- ピエール2世・ド・リュクサンブール
- 母
- マルゲリータ・ディ・サヴォイア
- 夫
- ヤコポ・ディ・サヴォイア
フランソワ・ド・ブルボン=ヴァンドーム - 子
- ルドヴィーカ・フランチェスカ・ディ・サヴォイア
シャルル4世・ド・ブルボン
フランソワ・ド・ブルボン
ルイ・ド・ブルボン
アントワネット・ド・ブルボン
ルイーズ・ド・ブルボン
概要
マリー・ド・リュクサンブールは、15世紀から16世紀の女性。
年表
1484年
母方の叔父ヤコポ・ディ・サヴォイアと結婚(1480年頃)。
1485年
ルドヴィーカ・フランチェスカ・ディ・サヴォイアを出産。
1486年1月30日
夫ヤコポ・ディ・サヴォイア、死。
1487年
1489年6月2日
シャルル4世・ド・ブルボンを出産。
埋葬地
ヴァンドーム、サン=ジョルジュ参事会教会
外部リンク
ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ Louis II de La Trémoille

- 生没
- 1460年9月20日~1525年2月24日
- 出身
- ボミエール
- 没地
- パヴィア
- 父
- ルイ1世・ド・ラ・トレモイユ
- 母
- マルグリット・ダンボワーズ
- 妻
- ガブリエル・ド・ブルボン
ルイーズ・ボルジア - 子
- シャルル・ド・ラ・トレモイユ
概要
ルイ2世・ド・ラ・トレモイユは、15世紀から16世紀のフランスの男性、軍人。
戦歴
道化戦争 国王軍
サン・トーバン・デュ・コルミエの戦い
フォルノーヴォの戦い:フランス王国
ガリリャーノの戦い:フランス王国、敗北
アニャデッロの戦い イタリア戦争 フランス
ノヴァーラの戦い カンブレー同盟戦争 フランス 司令官 敗北
マリニャーノの戦い フランス 勝利
パヴィアの戦い フランス 戦死
年表
1460年9月20日
ボミエールにて、生(1460年9月29日)。
1484年7月28日
ガブリエル・ド・ブルボンと結婚。
1500年
アスティからモルターラに向かう。
1500年3月21日
ノヴァーラ、ミラノ軍に降伏。
1500年3月23日
ヴェルチェッリ到着。ジャンヤコポ・トリヴルツィオ軍と連携。
1517年4月7日
ルイーズ・ボルジアと結婚。
別表記
ルイ2世・ド・ラ・トレムイユ、ルイ2世・ド・ラ・トレムーユ、Louis de la Trémouille
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年12月31日