ロレンツォ・イル・ヴェッキオ Lorenzo il Vecchio
- 生没
- 1395年~1440年9月23日
- 父
- ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ
- 母
- ピッカルダ・ブエリ
- 妻
- ジネヴラ・カヴァルカンティ
- 子
- ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
フランチェスコ・デ・メディチ
概要
ロレンツォ・デ・メディチは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
年表
1433年9月29日
バーリアは、メディチ家の追放を具体的に決める。ヴェネツィアに5年間、追放処分となる。
肖像
別表記
ロレンツォ・メーディチ、ロレンツォ・ディ・ジョヴァンニ
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Genealogy.EU
RootsWeb.com
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『メディチ家の人びと』
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネッサンス夜話』
ロレンツォ・デ・メディチ Lorenzo de' Medici
- 父
- ベルナルデット・デ・メディチ
- 母
- コスタンツァ・グァスコーニ
- 妻
- カテリーナ・デ・ネルリ
- 子
- ガレオット・デ・メディチ
オッタヴィオ・デ・メディチ
年表
1468年
カテリーナ・デ・ネルリと結婚。
外部リンク
ロレンツォ・イル・ポポラーノ Lorenzo il Popolano

- 生没
- 1463年~1503年
- 父
- ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
- 母
- ラウドミア・アッチャイウオリ
- 妻
- セミラミーデ・ダッピアーノ
- 子
- ヴィンチェンツォ・デ・メディチ
ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
アヴェラルド・デ・メディチ
ラウドミア・デ・メディチ
ジネヴラ・デ・メディチ
概要
ロレンツォ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1481年8月
セミラミーデ・ダッピアーノと婚約。
1482年7月19日(金)
セミラミーデ・ダッピアーノと結婚。
1483年
フィレンツェ共和国大使として、パリへ向かう。
1484年5月30日
ランス・ノートルダム大聖堂で行われたシャルル8世のフランス王即位式に参列。
1494年夏~初秋
メディチ一族及びメディチ派有力貴族の内部にもナポリ支持政策に反対してピエロ・イル・ファトゥオから離反し、親フランスの動きを示す者が生じるなど、市民の間にメディチ支配を逃れようとの動き広まる。ピエロ・イル・ファトゥオは、この動きを促進している者として、ロレンツォ・イル・ポポラーノとジョヴァンニ・イル・ポポラーノを市外に追放。両名はフランスに逃亡。
1494年11月
この頃、ピエロ・イル・ファトゥオによって追放されてシャルル8世の陣にいたロレンツォ・イル・ポポラーノとジョヴァンニ・イル・ポポラーノが市内に戻り、反メディチ支配の気運なお高まる。
1503年
この年頃アメリゴ・ヴェスプッチ、自身の大航海に関する第5の書簡(ロレンツォ・イル・ポポラーノ宛)、通称Mundaus Novus(新世界)を刊行。
この中でアメリゴ・ヴェスプッチ、新大陸をアジアではなく新世界と呼ぶ。
別表記
ロレンツィーノ
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Genealogy.EU
Wikipedia
参考文献
『銀色のフィレンツェ』
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネサンスの女たち』
『ルネッサンスの光と闇』
『ルネッサンス夜話』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
ロレンツォ・デ・メディチ Lorenzo de' Medici
- 生没
- 1492年9月12日~1519年5月4日
- 父
- ピエロ・イル・ファトゥオ
- 母
- アルフォンシーナ・オルシーニ
- 妻
- マドレーヌ・ド・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
- 子
- アレッサンドロ・デ・メディチ
カトリーヌ・ド・メディシス
概要
ロレンツォ・デ・メディチは、15世紀から16世紀の男性、ウルビーノ公。
在位
ウルビーノ公 1516年8月16/18日~1519年
教会の旗手 1516年8月16/18日~151?年
年表
1514年6月半ば
レオ10世、故ユリウス2世に取り上げられた領国の返還を強く求めていたアルフォンソ1世・デステに、彼に対するユリウス2世の全制裁を取り消すと共に領国の一つレッジョを5ヶ月以内に返還することを約束。しかしその2日後、1510年8月にユリウス2世が制圧して、1511年1月にマクシミリアン1世に封与したアルフォンソ1世・デステの領国の一つモデナを買収することをマクシミリアン1世の閣僚と約束するなど、かねてから抱いていたモデナ、レッジョ、パルマ、ピアチェンツァ一帯をメディチ家の領国と化して甥ロレンツォ・デ・メディチに統治させようとの野望実現に向けて歩を踏み出す。
さらにこの頃、レオ10世、弟ジュリアーノ・デ・メディチのためナポリをも領有しようと企んでルイ12世と秘密裡に折衝していると広く信じられる。
ただしレオ10世、三大権力者(ルイ12世、フェルナンド2世・デ・アラゴン、マクシミリアン1世)間の、ないしこの内の二者間の関係強化も、いずれの一者によるイタリア支配も防いで自己の権力強化とメディチ家の勢力伸長、安泰を図るべく、三者への対応について揺らぎ続ける。
1515年7月17日
レオ10世は、対フランス同盟に正式に加盟すると共にこの同盟を公表。しかしナポリをフェルナンド2世・デ・アラゴンから奪って弟ジュリアーノ・デ・メディチに支配させようとの意図を密かに抱くレオ10世は、なお秘密裡にフランソワ1世とも接触を取り続ける。
この頃?、ロレンツォ・デ・メディチの指揮するフィレンツェ軍が、対フランス同盟陣営に加わるべくピアチェンツァに到着。教皇軍の小部隊もヴェローナに到着。ロレンツォ・デ・メディチは病床のジュリアーノ・デ・メディチに代わって教会軍総司令官を務める。
1516年3月10日
シエナの君主ボルゲーゼ・ペトルッチのメディチ家に対する忠誠心の欠如を怒ったレオ10世は、彼を彼の従兄弟ラッファエーレ・ペトルッチを用いて追放し、ラッファエーレ・ペトルッチをシエナの君主に据える。新君主ラッファエーレ・ペトルッチはロレンツォ・デ・メディチをシエナの傭兵隊長とする。
1516年5月17日
レオ10世は、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレからウルビーノなど全領国を奪うべくロレンツォ・デ・メディチの指揮する軍をウルビーノに向かわせる。
1516年5月末
教皇軍の接近を前に、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、家族と共にウルビーノを捨ててまずペーザロに、さらにマントヴァに逃げる。1516年5月30日ロレンツォ・デ・メディチが、ウルビーノに入城。
1516年8月16/18日
レオ10世は、ロレンツォ・デ・メディチにフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレから取り上げたウルビーノ、ペーザロ及びセニガッリアを封与。以後彼はウルビーノ公と公称される。
さらにレオ10世は、ロレンツォ・デ・メディチを、1516年3月死のジュリアーノ・デ・メディチに代わる教会の旗手に任命。
1517年1月半ば~2月初旬
逃亡先マントヴァの侯フランチェスコ2世・ゴンザーガから資金援助を得、前年の各協定によって失職した各国の兵士を集めていたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、旧領地を奪還すべく小軍を率いてウルビーノに向かう。新ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチの不在を利して、1517年2月5/6日ウルビーノに入城し制圧。
ロレンツォ・デ・メディチも急ぎ大軍を擁してウルビーノに向かい、両軍の戦闘始まる。
1517年9月半ば
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、教皇軍に降伏。全資産を持ってマントヴァに逃れることを認められ、ウルビーノを出る。1517年9月17日?、ロレンツォ・デ・メディチがウルビーノを制圧。
1518年1月28日
ロレンツォ・デ・メディチ、フランソワ1世の一統に連なるブローニュ・オーヴェルニュ伯ジャン・ド・ラ・トゥールの娘マドレーヌ・ド・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ(1501年~1519年)と婚約。これによりメディチ家とフランス王室との婚姻関係また生ずる。
1518年4月28日
フランス・アンボワーズでロレンツォ・デ・メディチとマドレーヌ・ド・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュとの結婚式が盛大に行われ、華やかに祝賀される。
この結婚によりフランソワ1世はメディチ家の中に自らの手先同然の者を得たと広く見なされる。
1513年2月18日
反メディチ陰謀発覚:ジュリアーノ・デ・メディチとその兄ピエロ・イル・ファトゥオの子ロレンツォ・デ・メディチ(1492年~1519年:ウルビーノ公在位1516年~1519年)を襲撃する陰謀がピエトロ・パオロ・ボスコリ(1478年~1513年)とアゴスティーノ・カッポーニ(1471年~1513年)を中心とする若者20名ほどによって企まれていたことが、ソデリーニ家と親戚に当たるレンツィ家で発見されたピエトロ・パオロ・ボスコリの手になる参画者リストから発覚したとオットー・ディ・バーリアに報告され、中心の両名を初めとするリスト上の人物が逮捕、拘留され、拷問による取調べを受ける。1513年2月22~23日深夜、両名は処刑される。
1513年8月13日
レオ10世、教会の旗手としてローマに滞在することになったジュリアーノ・デ・メディチに代えて甥ロレンツォ・デ・メディチをフィレンツェの統治者とする。
1514年2月
ロレンツォ・デ・メディチ、市民軍の復活、再編を決意。
1515年5月24日
ロレンツォ・デ・メディチ、七十人評議会でCapitano generale della Repubblica fiorentina(フィレンツェ共和国軍総司令官)に任命される。
1516年
フランチェスコ・グイッチャルディーニ、Discorso del modo di assicurare lo stato ai Medici(メディチ家政権の確保方法に関する論考)を書き、ロレンツォ・デ・メディチの絶対君主化を批判。
1518年2月半ば
ロレンツォ・デ・メディチ、結婚式のためフランスに向かって出発。
1518年9月7日
ロレンツォ・デ・メディチ、新婦マドレーヌ・ド・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュを伴って帰る。市内で数日、結婚祝賀行事繰り広げられる。
1519年4月13日
ロレンツォ・デ・メディチと妻マドレーヌ・ド・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュの間に娘カトリーヌ・ド・メディシス生(~1589年)。
1519年5月4日
死。
埋葬地
肖像
別表記
小ロレンツォ、ロレンツォ・デ・メディチ2世
外部リンク
参考文献
『イコノロジー研究』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『君主論』
『世界大百科事典』
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンス舞踊紀行』
『ルネッサンス夜話』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
ロレンツィーノ・デ・メディチ Lorenzino de' Medici
- 生没
- 1514年3月23日~1548年2月26日
- 父
- ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
- 母
- マリーア・ソデリーニ
- 著作
- 弁明(アポロジア)
概要
ロレンツィーノ・デ・メディチは、16世紀のイタリアの男性。
年表
1537年1月6日
深夜、アレッサンドロ・デ・メディチは、傍系一族で日頃の放蕩仲間ロレンツィーノ・デ・メディチ(1513/1514年~1548年)から、思いを寄せている女性と彼の自室で合わせてやると巧みに誘い入れられ、彼とその従者に刺殺される。
1537年1月7日
早朝、ロレンツィーノ・デ・メディチと従者は、密かに市を離れボローニャに向かう。
夕刻、カール5世の代理人としてアレッサンドロ・デ・メディチの背後で事実上、支配権を握っていた枢機卿インノチェンツォ・チーボらが朝から極秘の内に行方を捜していたアレッサンドロ・デ・メディチが、遺体で発見される。
直ちにインノチェンツォ・チーボはチッタ・ディ・カステッロにあったアレッサンドロ・ヴィテッリ(?~1566年)指揮のスペイン軍主義体に急ぎ市内に戻るよう指示を発すると共に、アレッサンドロ・デ・メディチの庶出の遺児ジューリオ・デ・メディチ(?~1600年)を後継Ducaとして立て、その摂政として自身が支配者となる策を弄し始める。しかし、カール5世の直接かつ完全な支配化に陥ることを恐れるメディチ派、四十八人評議会主導による政体変革なき事態収拾を図る。
夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャに着き、この地に滞在する亡命者たちに事態を説明した後ヴェネツィアに向かう。
1537年1月8日
午前、四十八人評議会召集、開催され、ジューリオ・デ・メディチをDucaとして摂政を置くとのインノチェンツォ・チーボの案を否決。フランチェスコ・グイッチャルディーニらメディチ派貴族、後継統治者としてコジモ1世・デ・メディチを擁立する工作を進め、市民への宣伝活動も始める。
インノチェンツォ・チーボの待つアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の守備隊が市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。
午後、フランチェスコ・グイッチャルディーニらに呼ばれたコジモ1世・デ・メディチは、山荘での狩り、釣り三昧の生活を打ち切って市内に入り、市民の歓迎を受けながらアレッサンドロ・デ・メディチ邸を弔問。
夜、インノチェンツォ・チーボは、コジモ1世・デ・メディチと会見してアレッサンドロ・デ・メディチの遺児たちの厚遇、カール5世の権益及びその代弁者としての自身の権威の尊重などの約束を取り付けた上、フランチェスコ・グイッチャルディーニと会見してコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。アレッサンドロ・ヴィテッリもフランチェスコ・グイッチャルディーニに同じくコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。
深夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャからヴェネツィアに着き、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに事態を説明。フィリッポ・ストロッツィはこの地駐在フランソワ1世代理と会見し、ボローニャへの出立の準備を始める。
1537年1月
フィレンツェ出身の3名の枢機卿ニッコロ・リドルフィ、ジョヴァンニ・サルヴィアーティ、Iacopo Gaddiらローマ滞在亡命者たち、兵を集めて軍の編成を開始。
情報の収集に努めながら対策を論じていたボローニャ滞在の亡命者たち、コジモ1世・デ・メディチ擁立の報を得て挙兵・反抗の意を固め、ボローニャとミランドラで募兵を開始。ロレンツィーノ・デ・メディチはミランドラでこの動きに加わる。
1537年4月24日
ロレンツィーノ・デ・メディチを叛徒とみなし、この逮捕者ないし殺害者に賞金を与えると布告される。
ロレンツィーノ・デ・メディチは現フィレンツェ体制打倒への支援を求めながらミランドラからイスタンブール(コンスタンティノープル)へ、さらにフランスのフランソワ1世宮廷へと逃亡を続ける。
1548年2月26日
フランソワ1世宮廷からヴェネツィアに移って逃亡生活を続けていたロレンツィーノ・デ・メディチは、コジモ1世・デ・メディチのヴェネツィア駐在大使Pierfilippo Pandolfini(1502年~1560年:在位1545年~1549年)の雇った2人の刺客に、母マリーア・ソデリーニの兄弟アレッサンドロ・ソデリーニと同道していたところを襲われて刺殺され(1513/1514年~)、遺骸は間もなく駆けつけたマリーア・ソデリーニに渡される。ロレンツィーノ・デ・メディチを守ろうとして刺されたアレッサンドロ・ソデリーニも数日後、死。
別表記
ロレンザッチョ、ロレンザッチオ、Lorenzaccio
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『銀色のフィレンツェ』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2022年4月25日