- 所在地
- ヴァティカン市国
概要
ヴァティカン美術館は、ヴァティカン市国にある建物群。


ボルジア塔
ヴァティカン宮殿
王の間
システィーナ礼拝堂
パオリーナ礼拝堂
ヴァティカン絵画館
ヴァティカン図書館
ピオ・クレメンティーノ美術館

1:サン・ピエトロ大聖堂、2:システィーナ礼拝堂、3:王の間、4:王の階段、5:パオリーナ礼拝堂、6:公爵の間、7:ベルニーニの回廊、8:サン・ピエトロ広場、9:サン・ピエトロ前室

公式サイト
Musei Vaticani - Sito Ufficiale
外部リンク
ウィキペディア
ボルジア解体新書 - パセットツアー
Google Maps
ボルジアの間 Appartamento Borgia
各部屋の名称

1、巫女の間
3、使徒信条の間
4、自由七学芸の間
5、諸聖人の間
6、奥儀の間
7、諸教皇の間
8、私的謁見の間
9、鸚鵡の間
10、祭服の間
11、ニコラウス5世の寝室
12、ファルダの間
13、アレクサンデル6世の寝室
28、浴室と宝庫
概要
ボルジアの間はアレクサンデル6世が画家ピントゥリッキオに装飾させた一連の私的な部屋の総称で、ボルジア塔とヴァティカン宮殿の2階のほぼ全室を占めている。これらの建物の建設は13世紀から15世紀終わりまで行われた。アレクサンデル6世は教皇就任の1492年末からピントゥリッキオに部屋の装飾を命じ、1494年まで一連の作業は続いた。
ユリウス2世時代に彼がこの部屋で寝起きはしないと決めるとボルジアの間は教皇の親族の枢機卿の居室となる。
1816年からはヴァティカン絵画館が一時ここに移転したため各部屋の大幅な改修が行われている。近年ここには現代宗教画のコレクションが収められている。
ボルジア塔 Torre Borgia

- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
概要
ボルジア塔は、ヴァティカン美術館に属する建物。
巫女の間 Sala delle Sibille
ボルジアの間、2階第1室。アルフォンソ・ダラゴーナが暗殺された部屋。また1503年にはチェーザレ・ボルジアがユリウス2世によってこの部屋に幽閉されている。
12のルネットに巫女と預言者が描かれている。エレミヤとフリュギアの巫女、ホセアとデルポイの巫女、ダニエルとエレトリアの巫女、バルクとサモスの巫女、ゼカリヤとペルシアの巫女、オバデヤとリビアの巫女、ハガイとクエマの巫女、アモスとヨーロッパの巫女、エレミアとアグリッピーナの巫女、イザヤとヘレスポントスの巫女、ミカとティブルの巫女、エゼキエルとキンメリアの巫女。

ルネット同士の間には占星術の七大惑星の象徴と、人間に与える星の影響が描かれている。土星:竜が引く車、慈善行為。木星:鷲が引く車、狩人たち。金星:牡牛が引く車、恋人たち。水星:鹿が引く車、商人たち。月:竜が引く車、漁師たち。占星術師たちが天球儀の下で議論。


ピントゥリッキオ
ホセアとデルポイの巫女
使徒信条の間 Sala del Credo
ボルジアの間、2階第3室。ルネットに使徒信条を記した巻紙を携えた預言者たちが対になって配置されている。マタイとオバヤデ、タダイとゼカリヤ、シモンとマラキ、トマスとダニエル、バルトロマイとヨエル、ピリポとマラキ、小ヤコブとアモス、マタイとホセア、大ヤコブとゼカリヤ、アンデレとイザヤ、ヨハネとダヴィデ、ペテロとエミリヤ。




公式サイト
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
Google Maps
The Ornamentalist
Wikimapia
参考文献
ヴァティカン宮殿 Palazzi Vaticani

- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 施主
- ニコラウス5世
概要
ヴァティカン宮殿は、ヴァティカン美術館に属する建物。
自由七学芸の間 Sala delle Arti Liberali
ボルジアの間、2階第4室。アレクサンデル6世の書斎であり、食事もここでとっていた。アレクサンデル6世の遺体もここに置かれた。暖炉右の扉は第13室アレクサンデル6世の寝室に繋がる。

ルネットに自由学芸の7つの科目が玉座に座る女性像として擬人化されている。天文学、音楽、算術、幾何学、修辞学、弁証法、文法。

ピントゥリッキオ
天文学

ピントゥリッキオ
音楽

ピントゥリッキオ
算術

ピントゥリッキオ
幾何学

ピントゥリッキオ
修辞学

ピントゥリッキオ
弁証法

ピントゥリッキオ
文法
梁には5つの八角形で、ラバンに別れを告げるヤコブ、ソドムとゴモラの破壊からロトを救う天使、正義、トラヤヌス帝の正義、褒美を与える正義が描かれている。これは16世紀に付け加えられた可能性あり。

天井の交差肋骨の中心には、教皇アレクサンデル6世の紋章、間には標章。



諸聖人の間 Sala dei Santi
ボルジアの間、2階第5室。ピントゥリッキオの手が最も多く入っている。
ルネットには、聖セバスティアヌスの殉教、スザンナと長老たち、塔から逃げる聖バルバラ、聖カタリナの議論、隠修士聖パウルスを訪れる聖アントニウス、聖母のエリザベス訪問が描かれている。



ピントゥリッキオ
聖カタリナの議論

ピントゥリッキオ
塔から逃げる聖バルバラ

ピントゥリッキオ
スザンナと長老たち


ピントゥリッキオ
イオを抱擁するユピテル

ピントゥリッキオ
ユノにイオを渡すユピテル

ピントゥリッキオ
アルゴスを斬るメルクリウス

ピントゥリッキオ
イオとアルゴスとメルクリウス

ピントゥリッキオ
イシスとモーセとヘルメス・トリスメギストス



ピントゥリッキオ
イシスとオシリスの結婚

奥義の間への扉。聖母子。



ピントゥリッキオ
イシスとオシリスの神話
奥儀の間 Sala dei Misteri
ボルジアの間、2階第6室。ピントゥリッキオによって装飾された最後の部屋。但し制作の大部分が弟子の手によって行われた。

ルネットには信仰の奥義が描かれている。キリストの昇天、聖霊降臨、聖母被昇天、受胎告知、キリストの誕生、東方三博士礼拝、復活。


ピントゥリッキオ
復活


梁で区切られた2つの天井には8人の預言者ミカ、ヨエル、エレミヤ、ゼパニヤ、イザヤ、ソロモン、マラキ、タヴィデ。




諸教皇の間 Sala dei Pontefici
ボルジアの間、2階第7室。最も広い広間で、元は祝宴や枢機卿会議の場として使われていた。教皇ニコラウス3世によって建てられた部分に位置している。

13世紀後半に作られたこの部屋の天井が、1500年6月29日の落雷によって崩落し、アレクサンデル6世が下敷きとなるも軽傷で助かる。
その後、レオ10世の時代になって修復され、持ち送り天井になり、フレスコや漆喰などが施された。ジョヴァンニ・ダ・ウーディネとペリン・デル・ヴァーガによるフレスコ画、ロレンツォ・サバティーニとその助手たちが手掛けたグロテスクのスタッコで飾られている。
私的謁見の間 Camera dell'Udienza
ボルジアの間、2階第8室。別名アレッサンドロ6世の私的の間。
鸚鵡の間 Sala del Pappagallo
ボルジアの間、2階第9室。現Sala dei Chiaroscuri又はSala dei Palafrenieri。

執務や謁見、黄金の薔薇の授与式などの儀式も行われ、大使の接見や重要な条約締結、署名が行われたと歴史家たちの記録に残されている。アレクサンデル6世はここで祭服を着ていた。
その名前は、15世紀に贈り物としてある王子が持ち込んだとされる鸚鵡に由来すると考えられる。ローマのキージ図書館に所蔵されている写本(F. VII, 261)には、1471年4月1日付のフランチェスコ・アリオストの手紙が収められており、その中で筆者は金や銀、宝石で輝く装飾品で飾られた部屋について言及し、さらに「驚くほど人間の声を真似て話すあの鸚鵡」について触れている。同じ写本に収められたイタリア語訳には「そしてそこを通り過ぎると、非常に豪華に飾られた鸚鵡の間があり、そこでは鸚鵡が人間の言葉で応えてくれる。」と書かれている。
この部屋は1517年から1518年にレオ10世がラッファエッロとその弟子たちによって装飾させたが、パウルス4世の時代に、1560年にそれらのフレスコ画は失われた。その後、グレゴリウス13世の時代、1582年に新たに装飾が施された。
現在はジョヴァンニ・アルベルティとケルビーノ・アルベルティ兄弟による装飾と共に、タッデオ・ズッカーリとフェデリーコ・ズッカーリの使徒と聖人を描いたフレスコ画で飾られている。天井はレオ10世の時代のもので、象嵌や金箔で装飾され、メディチ家の紋章が見られる。部屋の中央には、14世紀から15世紀のウンブリア派が「キリストの鞭打ち」を描いた木製の彫刻群が据えられている。
祭服の間 Sala dei Paramenti
ボルジアの間、2階第10室。枢機卿が祭服を身につける場所。
ニコラウス5世の寝室 Cubiculum di Niccolò V
ボルジアの間、2階第11室。
ファルダの間 Sala della Falda
ボルジアの間、2階第12室。ファルダというのは床を引きずるくらい長い裾の教皇の法衣のことであり、第二祭服の間とも呼ばれている。
アレクサンデル6世の寝室 Cubiculum di Alessandro VI
ボルジアの間、2階第13室。アレクサンデル6世が亡くなった場所。

浴室と宝庫
ボルジアの間、2階第28室。ここは浴室と宝庫に使われていたと考えられている。
コンスタンティヌスの間 Sala di Costantino
ラッファエッロの間、3階。
ヘリオドロスの間 Stanza di Eliodoro
ラッファエッロの間、3階。
署名の間 Stanza della Segnatura
ラッファエッロの間、3階。

ラッファエッロ
アテナイの学堂

ラッファエッロ
聖体の論議

ラッファエッロ
枢要徳と神学的徳
ボルゴの火災の間 Stanza dell'incendio del Borgo
ラッファエッロの間、3階
公式サイト
外部リンク
ウィキペディア
チェーザレ・ボルジアとその周辺
ボルジア解体新書 - ヴァチカン美術館
ボルジア解体新書 - ボルジアの間
ボルジア解体新書 - ボルジアの間
Els Borja
Els Borja
Finestre sull'Arte
Levante-EMV
Miscellaneousvic
note - Nao Masunaga
Through Eternity Tours
Tomaso Paynim's Page
Viaggiatrice Curiosa
参考文献
王の間 Sala Regia
概要
王の間は、システィーナ礼拝堂とパオリーナ礼拝堂を繋ぐ広間。窓はボルジアの中庭に面している。外国君主や高官を迎えるための謁見室として使用されていた。
パウルス3世の在位中に現在の形で建設され、1549年に教皇が没した時点で、完了し、ペリーノ・デル・ヴァーガによって天井と壁が化粧漆喰で装飾されていた。

この部屋の絵画群は、ローマ教会を擁護した6人の王たちの場面から始まり、大国と信仰の理想的な関係を視覚化している。後に追加された場面では、多くの君主が教皇に服従する様子が描かれている。それには、キリスト教軍がトルコ軍を破ったチュニスでの勝利の場面が含まれており、キリスト教軍の最高指導者である神聖ローマ皇帝カール5世が教会への勝利を奉げ、教皇の足に口づけをして敬意を示す姿が描かれている。この題材はルネサンス期の教皇プロパガンダにおいて一般的なものであり、教皇権の世俗支配に対する優位性を示すものであった。

ジョルジョ・ヴァザーリ
アヴィニョンから帰還するグレゴリウス11世
別表記
王宮の間
外部リンク
システィーナ礼拝堂 Cappella Sistina

- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 設計
- バッチオ・ポンテッリ
- 総監督
- ジョヴァンニ・デ・ドリッチ
- 建設
- 1473年~1481年
概要
システィーナ礼拝堂は、ヴァティカン美術館に属する建物。



ルカ・シニョレッリ
モーセの遺言と死

ボッティチェッリ
反逆者たちの懲罰

ボッティチェッリ
モーセの試練

ボッティチェッリ
キリストの試練

ペルジーノ
聖ペテロへの鍵の授与

ペルジーノ
キリストの洗礼

ミケランジェロ
システィーナ礼拝堂天井画

ミケランジェロ
最後の審判
別表記
システィナ礼拝堂、The Sistine Chapel
外部リンク
パオリーナ礼拝堂 Cappella Paolina

- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 施主
- パウルス3世
- 設計
- アントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネ
- 監督
- アントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネ
- 建設
- 1538年~1540年
概要
パオリーナ礼拝堂は、ヴァティカン美術館に属する建物。監督の間を介してシスティーナ礼拝堂に繋がっている。
ミケランジェロ
聖ペテロの磔刑
外部リンク
ヴァティカン絵画館 Pinacoteca Vaticana

- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
概要
ヴァティカン絵画館は、ヴァティカン美術館に属する建物。絵画を収容するため教皇ピウス11世の命により、建築家ルカ・ベルトラーミによって建てられ、1932年10月27日に落成した。
第4室

メロッツォ・ダ・フォルリ
シクストゥス4世によってバチカン図書館司書に任命されたバルトロメオ・プラティナ
第9室

作者不明
アレクサンデル6世の肖像
外部リンク
ヴァティカン図書館 Bibliotheca Apostolica Vaticana

- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
概要
ヴァティカン図書館は、ヴァティカン美術館に属する建物。
所蔵品

オピキヌス・デ・カニストリス
公式サイト
外部リンク
ピオ・クレメンティーノ美術館 Museo Pio-Clementino

- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
概要
ピオ・クレメンティーノ美術館は、ヴァティカン美術館に属する建物。
所蔵品
旧名
ベルヴェデーレ小宮殿、Palazzetto del Belvedere
外部リンク
Rome Tour.org
L'Architettura del Quattrocento, Cinquecento e Seicento
Wikipedia
記載日
2006年7月24日
更新日
2024年12月17日