Cibo

チーボ家

アラーノ・チーボ Arano Cibo

生没
1375年頃~1455年頃
マウリツィオ・チーボ
サラチーナ・マロチェッリ
テオドリーナ・デ・マリ
マウリツィオ・チーボ
インノケンティウス8世
ビアンカ・チーボ

概要

 アラーノ・チーボは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

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マウリツィオ・チーボ Maurizio Cibo

アラーノ・チーボ
テオドリーナ・デ・マリ
ロレンツォ・チーボ

外部リンク

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インノケンティウス8世 Innocentius VIII

生没
1432年~1492年7月25日
出身
ジェノヴァ
没地
教皇領ローマ
アラーノ・チーボ
テオドリーナ・デ・マリ
フランチェスケット・チーボ
テオドリーナ・チーボ

概要

 ジョヴァンニ・バッティスタ・チーボは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。第213代教皇インノケンティウス8世。

在位

 サン・ベルトラン・ド・コマンジュ司教 ?~1466年
 サヴォーナ司教 1466年11月5日~1472年9月16日
 教皇庁掌璽院長 1471年7月26日~1473年5月7日
 モルフェッタ司教 1472年9月16日~1484年8月29日
 枢機卿(任命シクストゥス4世) 1473年5月7日~1484年8月29日
 サンタ・バルバラ司祭枢機卿 1473年5月17日~1474年1月
 サンタ・チェチーリア司祭枢機卿 1474年1月~1484年8月29日
 枢機卿団カメルレンゴ 1482年6月5日~1482年10月31日
 枢機卿団カメルレンゴ 1484年1月19日~1484年8月29日
 第213代教皇 1484年9月12日~1492年7月25日

年表

1484年8月29日

贈収賄やさまざまの策謀の渦巻く中の教皇選出枢機卿会議で、故シクストゥス4世の甥ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の尽力により、教皇に即位し、インノケンティウス8世を名乗る。

1484年

フランチェスコ・ダラゴーナ に祝福された剣を授与。

1484年以降

フェルナンド2世・デ・アラゴンに、1484年から1492年に制作された祝福された剣を授与。

1484年11月21日

イタリア及びヨーロッパの諸国、諸権力者に対し、対オスマン帝国問題に関する全権大使をローマに送るよう勅書を発する。

しかしすでにフェッランテ・ダラゴーナ及びアルフォンソ2世・ダラゴーナとの対立が深まり始め、教皇はこのナポリ問題に最大の関心を払い始める。

1484年12月5日

ドイツの異端審問官に、その任務を公認しこれまでの魔女裁判、処刑の方法を追認する教書、魔女教書(Summis desiderantes)を発する。

1484年

ヴェネツィアでペスト大蔓延。

1485年2月28日

1484年秋以降フェッランテ・ダラゴーナ及びアルフォンソ2世・ダラゴーナとの関係が悪化し、彼らに対抗する同盟相手を求めてきた教皇は、前教皇シクストゥス4世によるヴェネツィアの聖務禁止処分(1483年)を解くとの勅書を発す。ヴェネツィアもこれを歓迎し、教皇に恭順の意を表する使節団を派遣。

1485年

ジルベール・ド・ブルボン黄金の薔薇を授与。

1485年11月

この頃、前年に続いてヴェネツィアでペスト大流行。

1486年

スコットランド王ジェームズ3世に黄金の薔薇を授与。

1486年5月27日

オスマン帝国のもたらす危機を訴え反オスマン帝国十字軍の結成を呼びかける勅書を発する。しかし成果は挙げ得ずに終わる。

1486年8月9日

スペイン両王フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャルドヴィーコ・イル・モーロ及びフィレンツェのそれぞれの使節を承認として、フェッランテ・ダラゴーナとの和を締結(1486年8月11日)。フェッランテ・ダラゴーナは、アクイラで教会支配への反乱を生じさせ、軍をローマに迫らせるなど戦闘で優位に立ちながら、一方では密かに教皇との和を策してきたため、アクイラの統合はその住民の選ぶ方式に従うこと、フェッランテ・ダラゴーナは至高の存在たる教皇に服すること、フェッランテ・ダラゴーナに反抗した諸侯は再び彼に服すれば罪を問われないこと、など教皇に全面的に有利な内容。

1486年

イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサ祝福された剣を授与。

1487年2月下旬

フェッランテ・ダラゴーナに対抗する同盟相手を求めて1486年からヴェネツィアと折衝してきた教皇、同盟の締結に成功。

1487年2月20日

ジョヴァンニ・ピコの公開討論会を中止させる。

1487年2月25日

ヴェネツィアに加えてフィレンツェをフェッランテ・ダラゴーナに対抗する同盟相手としようと、教皇の権威を利用して自家の権威を増大させようと狙うロレンツォ・イル・マニーフィコとの間で、教皇の長子で40歳近いフランチェスケット・チーボと、ロレンツォ・イル・マニーフィコの14歳の次女マッダレーナ・デ・メディチの結婚を取り決める。

1488年4月24日

フォルリ宛てに勅書を発する。ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿をフォルリの代官に任命。すぐに到着する。

1488年

ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ祝福された剣を授与。

1489年3月9/10日

自分の兄弟マウリツィオ・チーボの庶出の子ロレンツォ・チーボら5名を新たに枢機卿に叙任し、ロレンツォ・イル・マニーフィコの次男で13歳のジョヴァンニ・デ・メディチら3名を叙任予定者とすると公表。

これに対して強い不満を覚えたロレンツォ・イル・マニーフィコの強力な働きかけを受け、正式の就任は3年後とするとの条件つきでジョヴァンニ・デ・メディチを枢機卿に叙任。

1489年6月29日

フェッランテ・ダラゴーナがラクイラの自治を認めず、また教皇への貢納金の支払いを拒否したため、彼を破門(1489年6月30日破門すると宣言)。

1489年9月11日

フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ親子の反教会的言動、とりわけフェッランテ・ダラゴーナの貢税納入拒否を理由に、両名からナポリ領を没収し境界の直轄領とすると宣言。しかし両名はさらに反教皇の姿勢を強める。

1491年

スコットランド王ジェームズ4世に黄金の薔薇を授与。

1491年9月12日

枢機卿ロデリク・デ・ボルジャの庶子チェーザレ・ボルジアをスペイン北部ナヴァーラの州都パンプローナの司教に任命する。

1491年

ヴィルヘルム1世・フォン・ヘッセンに祝福された剣を授与。

1492年1月27日

フェッランテ・ダラゴーナとの間に、ロレンツォ・イル・マニーフィコの仲介により和が成立したことがこの日の枢機卿会議で公表される。

この和でフェッランテ・ダラゴーナから、貢税と軍事協力、先に捕縛した反乱諸侯の釈放などを約されたが、ナポリ王としての正式叙任は与えず。

1492年3月23日

ジョヴァンニ・デ・メディチを正式に枢機卿に叙任。

1492年春

ローマに派遣されてきたシャルル8世の特使Perron de Baschiから、ナポリ王への叙任を求められるが却ける。

1492年6月4日

フェッランテ・ダラゴーナナポリ王に叙任しその子アルフォンソ2世・ダラゴーナを王位継承権者と認める勅書を、シャルル8世のローマ教皇庁駐在大使に反論の機会を与えずに発する。

1492年7月25日

深更、死(1492年7月26日)。

関連項目

 The Borgias: 101, 102

本名

 ジョヴァンニ・バッティスタ・チーボ、Giovanni Battista Cibo

別表記

 インノチェンツォ8世、ジョヴァンニ・バチスタ、ジャンバッティスタ、ジャンバティスタ・チボー、Giovanni Battista Cybo

外部リンク

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 歴史データベース
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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの女たち』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ロレンツォ・チーボ Lorenzo Cibo

生没
1450年~1503年12月21日
出身
ジェノヴァ又はヴァレンシア
没地
教皇領ローマ
マウリツィオ・チーボ

概要

 ロレンツォ・チーボは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 ベネヴェント大司教 1485年12月5日~1503年1月20日
 枢機卿 1489年3月9日~1503年12月21日
 サンタ・スザンナ司祭枢機卿 1489年3月23日~1491年3月14日
 ヴァンヌ教区長 1490年8月29日~1503年12月21日
 サン・マルコ司祭枢機卿 1491年3月14日~1501年5月14日
 枢機卿団カメルレンゴ 1492年1月~1493年1月
 サンタ・チェチーリア名誉司祭枢機卿 1497年12月9日~1500年9月
 サン・マルコ名誉司祭枢機卿 1501年5月14日~1503年12月21日
 アルバーノ司教枢機卿 1501年5月14日~1503年11月29日
 ノーリ教区長 1503年1月~1503年12月21日
 パレストリーナ司教枢機卿 1503年11月29日~1503年12月21日

年表

1450年

ジェノヴァ又はヴァレンシアにて、生(1451年)。

1489年3月9日

教皇インノケンティウス8世により、枢機卿に指名される。

1492年8月31日

教皇アレクサンデル6世により、ラヴォーロ地方への教皇特使に任命される。

1501年12月23日(木)

イッポーリト・デステローマ入場をポポロ門の外側で枢機卿19名が出迎える。

1503年12月21日

死。

別表記

 Lorenzo Cibo de' MariCardinal of Benevento

外部リンク

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参考文献

 『ヨハン・ブルカルトの日記
 『Borgia ossia Alessandro VI papa e suoi contemporanei, Vol. I
 『The Life of Cesare Borgia

フランチェスケット・チーボ Franceschetto Cibo

生没
1449年~1519年7月25日
出身
ナポリ王国ナポリ
没地
教皇領ローマ
インノケンティウス8世
マッダレーナ・デ・メディチ
ルクレツィア・チーボ
クラリーチェ・チーボ
インノチェンツォ・チーボ
ロレンツォ・チーボ
カテリーナ・チーボ
イッポーリタ・チーボ
ジョヴァンニ・バッティスタ・チーボ

概要

 フランチェスケット・チーボは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 スポレート 1503年~1519年

年表

1449年

ナポリで生(1450年頃)。

1488年1月20日

マッダレーナ・デ・メディチとの結婚式が、ヴァティカン宮殿で行われる。

1492年7月25日

深更、父インノケンティウス8世死。

1492年

フィレンツェの義兄ピエロ・イル・ファトゥオのもとに身を寄せる。

1492年9月3日

インノケンティウス8世から与えられた教会領の戦略上の拠点ローマ近郊アングイッラーラとチェルヴェーテリを、ヴィルジーニオ・オルシーニに売却。

1519年7月25日

ローマで死。

別表記

 フランチェスコ・チボー(Francesco Cibo)、チボ

外部リンク

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参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

テオドリーナ・チーボ Teodorina Cibo

生没
1455年頃~1508年
インノケンティウス8世
アントーニオ・ウソディマーレ
ジョヴァンニ・バッティスタ・ウソディマーレ
アラニーノ・ウソディマーレ
フランコ・ウソディマーレ
バッティスティーナ・ウソディマーレ
ペレッタ・ウソディマーレ

概要

 テオドリーナ・チーボは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1493年6月12日

ルクレツィア・ボルジアジョヴァンニ・スフォルツァヴァティカン宮殿での結婚式に参列。

外部リンク

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参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

インノチェンツォ・チーボ Innocenzo Cibo

生没
1491年8月25日~1550年9月23日
出身
ジェノヴァ
没地
教皇領ローマ
フランチェスケット・チーボ
マッダレーナ・デ・メディチ
リッチャルダ・マラスピーナ
アレッサンドロ・チーボ
クレメンテ・チーボ
エレーナ・チーボ
リッチャルダ・チーボ

概要

 インノチェンツォ・チーボは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿(任命レオ10世) 1513年9月23日~1550年
 サンティ・コスマ・エ・ダミアーノ司祭枢機卿 1513年9月29日~1517年6月26日
 セント・アンドリュース大司教 1513年10月13日~1514年11月13日
 ブールジュ大司教 1514年11月13日~1514年11月13日
 トリノ教区長 1516年5月~1517年5月11日
 マルセイユ教区長 1517年5月11日~1530年1月12日
 サンタ・マリア・イン・ドムニカ司祭枢機卿 1517年6月26日~1550年2月28日
 アレリア教区長 1518年6月19日~1520年12月19日
 ヴェンティミーリア教区長 1519年7月27日~1519年8月8日
 ジェノヴァ大司教 1520年5月11日~1550年9月23日
 トリノ教区長 1520年7月4日~1548年6月22日
 会計院長 1521年7月14日~1521年9月13日
 マリアーナ教区長 1531年
 トロペア教区長 1538年2月6日~1538年6月14日
 メッシーナ教区長 1538年6月14日~1550年9月23日
 サンタ・マリア・イン・ヴィア・ラータ司祭枢機卿 1550年2月28日~1550年9月23日
 副枢機卿団長 1550年2月28日~1550年9月23日

年表

1513年9月23日

レオ10世、従弟ジューリオ・デ・メディチ及び甥インノチェンツォ・チーボ(1491年~1550年:枢機卿在位1513年~1550年)、同族ロレンツォ・プッチ、自分の秘書でかつての家庭教師ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナの3名を新たに枢機卿に任命。

1527年

同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da Bozzoloらに導かれてシルヴィオ・パッセリーニニッコロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチ(1511年~1535年:枢機卿在位1529年~1535年)がフィレンツェ市内に入り、クレメンス7世の要請で数日前から市内に駐屯していた同盟軍兵士に守られて政庁宮に向かう。メディチ派は勢いを得、同盟軍指揮官たちは騒乱鎮圧のために同盟軍をフィレンツェ市内に導入することを決意。

1527年11月15日

アルフォンソ1世・デステオデ・ド・フォワ及び枢機卿インノチェンツォ・チーボの勧奨に従い、同盟軍による所領防衛、子エルコーレ2世・デステと故ルイ12世の娘ルネ・ド・フランス(1515年~1575年頃)との結婚など、提示された多くの名誉ある条項を受諾してカール5世陣営を離れ、同盟陣営に加わる。しかし当の条項はエルコーレ2世・デステルネ・ド・フランスの結婚以外ほとんど守られずに終わる。

1527年4月26日

「金曜日の騒乱」

午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手フランチェスコ・グイッチャルディーニの兄ルイジ・グイッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。

コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。

正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。

午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。

ニッコロ・カッポーニピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。

夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グイッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。

フランチェスコ・グイッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。

シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。

1537年1月7日

早朝、ロレンツィーノ・デ・メディチと従者は、密かに市を離れボローニャに向かう。

夕刻、カール5世の代理人としてアレッサンドロ・デ・メディチの背後で事実上、支配権を握っていた枢機卿インノチェンツォ・チーボらが朝から極秘の内に行方を捜していたアレッサンドロ・デ・メディチが、遺体で発見される。

直ちにインノチェンツォ・チーボチッタ・ディ・カステッロにあったアレッサンドロ・ヴィテッリ(?~1566年)指揮のスペイン軍主義体に急ぎ市内に戻るよう指示を発すると共に、アレッサンドロ・デ・メディチの庶出の遺児ジューリオ・デ・メディチ(?~1600年)を後継Ducaとして立て、その摂政として自身が支配者となる策を弄し始める。しかし、カール5世の直接かつ完全な支配化に陥ることを恐れるメディチ派、四十八人評議会主導による政体変革なき事態収拾を図る。

夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャに着き、この地に滞在する亡命者たちに事態を説明した後ヴェネツィアに向かう。

1537年1月8日

午前、四十八人評議会召集、開催され、ジューリオ・デ・メディチDucaとして摂政を置くとのインノチェンツォ・チーボの案を否決。フランチェスコ・グイッチャルディーニらメディチ派貴族、後継統治者としてコジモ1世・デ・メディチを擁立する工作を進め、市民への宣伝活動も始める。

インノチェンツォ・チーボの待つアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の守備隊が市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。

午後、フランチェスコ・グイッチャルディーニらに呼ばれたコジモ1世・デ・メディチは、山荘での狩り、釣り三昧の生活を打ち切って市内に入り、市民の歓迎を受けながらアレッサンドロ・デ・メディチ邸を弔問。

夜、インノチェンツォ・チーボは、コジモ1世・デ・メディチと会見してアレッサンドロ・デ・メディチの遺児たちの厚遇、カール5世の権益及びその代弁者としての自身の権威の尊重などの約束を取り付けた上、フランチェスコ・グイッチャルディーニと会見してコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。アレッサンドロ・ヴィテッリフランチェスコ・グイッチャルディーニに同じくコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。

深夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャからヴェネツィアに着き、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに事態を説明。フィリッポ・ストロッツィはこの地駐在フランソワ1世代理と会見し、ボローニャへの出立の準備を始める。

1537年1月10日

アレッサンドロ・ヴィテッリ、フォルテッツァ・ダ・バッソを占拠し、メディチ宮殿から奪った財宝を持ってインノチェンツォ・チーボ及びアレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマらと籠る。

1538年

コジモ1世・デ・メディチ、ニースのカール5世のもとに特使としてインノチェンツォ・チーボと自分の秘書Francesco Campana(1491年以降~1546年)を送って恭順の意を表すると共に、1537年から懇請してきた3点(マルゲリータ・ディ・パルマとの結婚、領内城塞の全面返還、フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分)をまたまた懇請。

1550年9月23日

死(1550年4月14日)。

外部リンク

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参考文献

 『メディチ家の人々』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

ロレンツォ・チーボ Lorenzo Cibo

生没
1500年7月20日~1549年3月14日
出身
サンピエルダレーナ
没地
ピサ
フランチェスケット・チーボ
マッダレーナ・デ・メディチ
リッチャルダ・マラスピーナ
エレオノーラ・チーボ
ジューリオ・チーボ
アルベリーコ・チーボ
チェーザレ・チーボ
ジューリア・チーボ
アレッサンドロ・チーボ
クレメンテ・チーボ
エレーナ・チーボ
リッチャルダ・チーボ
オッタヴィオ・チーボ

概要

 ロレンツォ・チーボは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 フェレンティッロ伯 1519年7月25日~1549年3月14日

年表

1500年7月20日

サンピエルダレーナにて、生(1500年7月28日)。

152?年

リッチャルダ・マラスピーナとは別居し、アニャーノに居住。

1538年

リッチャルダ・マラスピーナからマッサ侯爵領の権利を奪取することを目的に武力を用いる。

1541年

マッサ統治への関与に関する一切の権利を法的に剥奪される。

外部リンク

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参考文献

 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

カテリーナ・チーボ Caterina Cibo

生没
1501年9月13日~1557年2月17日
出身
ポンツァーノ
没地
フィレンツェ
フランチェスケット・チーボ
マッダレーナ・デ・メディチ
ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノ
ジューリア・ダ・ヴァラーノ

概要

 カテリーナ・チーボは、16世紀のイタリアの女性、五女、宗教改革運動の支持者。

年表

1513年

12歳でジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノと婚約。

ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノの甥シジスモンド・ダ・ヴァラーノとの結婚を望む母マッダレーナ・デ・メディチにより、反対され、延期。

1519年12月2日

マッダレーナ・デ・メディチ、死。

1520年

カメリーノジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノと結婚。

1521年12月1日

義理の叔父レオ10世、死。

152?年

義理の甥シジスモンド・ダ・ヴァラーノにカメリーノを奪われる。

チヴィタノーヴァへ避難。

ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノカメリーノを奪還し、シジスモンド・ダ・ヴァラーノを殺害。

1523年3月24日

カメリーノにて、ジューリア・ダ・ヴァラーノを出産。

1523年11月26日

母方の従弟である新教皇クレメンス7世の戴冠式に、夫ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノと共に参列。

ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレに奪われたセニガッリアとサッソフェッラートの返還を求めたが、叶えられず。その代わり、夫ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノはシジスモンド・ダ・ヴァラーノ殺害に対する赦免を得、カテリーナ・チーボは夫と娘ジューリア・ダ・ヴァラーノが男子の後継者なく死去した場合にカメリーノ公国の継承権が保証される。

1527年8月19日

ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノ、死。

1527年

継子リドルフォ・ダ・ヴァラーノに投獄される。

継子リドルフォ・ダ・ヴァラーノ、処刑される。

エルコーレ・ダ・ヴァラーノ、アレッサンドロ・ダ・ヴァラーノ、マルコ・ダ・ヴァラーノがカメリーノ公爵領を掌握しようとする。

1527年12月14日

トーディにて、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレと密約。娘ジューリア・ダ・ヴァラーノが14歳になった時にグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレと結婚させるとの約束で、援助を求める。

1529年2月18日

クレメンス7世により、ヴァラーノ家の者たちが破門される。

1529年

ヴァラーノ家の者たち、欠席裁判で死刑判決を受ける。

1533年4月13日

少数の兵を率いたマッテオ・ダ・ヴァラーノに公爵宮殿へ侵入され、愛人ピエトロ・メッリーニと共に捕らえられる。

ローヴェレ家との婚約を無効にすることを目的としていたが、ジューリア・ダ・ヴァラーノは城塞にて無事。カテリーナ・チーボは脅迫に屈せず、マッテオ・ダ・ヴァラーノは逃走。

1533年10月

カトリーヌ・ド・メディシスを、アンリ・ド・ヴァロワとの結婚のために海路でマルセイユへと護送した貴族団の一員となる。

1534年9月25日

クレメンス7世、死。

1534年10月12日

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレが持参金をカテリーナ・チーボに返還することを条件に、ジューリア・ダ・ヴァラーノグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレの結婚を即座に執り行うよう強制。この日、カメリーノの城塞で結婚式を挙げる。

153?年

パウルス3世により、娘ジューリア・ダ・ヴァラーノ夫婦と共に、ローマに召喚されるが、3名は出頭を拒否。

パウルス3世により、婚姻の完遂を禁じられる。カテリーナ・チーボのヴィッソ領支配権を取り上げられる。

カテリーナ・チーボはカメリーノ公国の統治をグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレに譲ることを決める。

1534年頃

ナポリに移住したフアン・デ・ヴァルデスを中心として教会改革と霊的再生を求める人々の小サークルが結成される。彼の死(1541年)までにジューリア・ゴンザーガヴィットーリア・コロンナカテリーナ・チーボConstanza d'Avalosら君侯夫人・寡婦、マルカントーニオ・フラミーニオら人文主義者G. Seripando、ベルナルディーノ・オキーノ、P. M. Vermigli、ピエトロ・カルネセッキら聖職者が集い、イタリアにおける教会改革運動の拠点の観を呈する。後、第三者は新教を信仰し宗教改革運動に従事。

1535年

フィレンツェへ移り、パッツィ宮殿に居住。兄インノチェンツォ・チーボと、義理の姉リッチャルダ・マラスピーナと娘エレオノーラ・チーボと妹タッデア・マラスピーナが同居。

ベネデット・ヴァルキら文人たちと交流。

1547年2月18日

フォッソンブローネにて、娘ジューリア・ダ・ヴァラーノの死を看取る。

1549年3月14日

ピサにて、兄ロレンツォ・チーボの死を看取る。

1550年9月23日

ローマにて、兄インノチェンツォ・チーボの死を看取る。

1555年7月

遺言書を作成。孫ヴィルジーニア・デッラ・ローヴェレを後継者とする。

1557年2月17日

フィレンツェにて、死。享年55歳。

別表記

 Caterina Cybo-Valano

外部リンク

 Genealogy.EU
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

エレオノーラ・チーボ Eleonora Cibo

生没
1523年3月10日~1594年2月22日
出身
マッサ
没地
フィレンツェ
ロレンツォ・チーボ
リッチャルダ・マラスピーナ
ジョヴァンニ・ルイジ・フィエスキ
キアッピーノ・ヴィテッリ

概要

 エレオノーラ・チーボは、16世紀のイタリアの女性、文筆家。幾つかの十四行詩を書いたとされるが、全て現存せず。

年表

1535年

この年にはすでにフィレンツェのムラーテ修道院に送られ、そこで父方の叔母カテリーナ・チーボの教育を受ける。

1543年1月30日

カッラーラにて、ジョヴァンニ・ルイジ・フィエスキと結婚。

祝宴後、ジャンネッティーノ・ドーリア率いる2隻のガレー船でジェノヴァへ向かう。

1547年1月2日

フィエスキの陰謀:夫ジョヴァンニ・ルイジ・フィエスキ、死。

1547年

ムラーテ修道院に戻る。

トスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチを頼る。

1548年

キアッピーノ・ヴィテッリと結婚。

1575年7月1日

夫キアッピーノ・ヴィテッリ、スペイン領ネーデルラントのアントウェルペンにて死。

157?年

ムラーテ修道院に戻る。

1594年2月22日

ムラーテ修道院にて、死。享年70歳。

外部リンク

 Wikipedia

ジューリオ・チーボ Giulio Cibo

生没
1525年3月1日~1548年5月18日
出身
ローマ
没地
ミラノ
ロレンツォ・チーボ
リッチャルダ・マラスピーナ
ペレッタ・ドーリア

概要

 ジューリオ・チーボは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 マッサ侯 1546年10月7日~1547年6月27日
 カッラーラ、モネータ、アヴェンツァ領主 1546年10月7日~1547年6月27日

容姿

 平均的な身長、細身で、やや褐色の肌、巻き毛、父親に似ていたという。

性格

 気性が激しく、大胆。

年表

1525年3月1日

ローマナヴォーナ広場にあるチーボ宮殿(現パンフィーリ宮殿)にて、生。

1527年

ローマ劫掠が迫り、海路でマッサ城へ移住。

152?年~1533年

子エレオノーラ・チーボ、ジューリオ・チーボと共に、ローマに戻る。

1543年

18歳になるとバルセロナへ赴き、アンドレア・ドーリアの支援を受けて皇帝カール5世の宮廷に入る。そこでまず給仕紳士、続いて皇帝侍従となり、皇帝軍と共にイタリアやフランドル各地を転戦。

1544年

リッチャルダ・マラスピーナから与えられる扶持が自分の望む軍歴を築くには不十分だと不満を募らせ、イタリアへ戻り、カッラーラ城の伯父インノチェンツォ・チーボ枢機卿のもとに滞在。

154?年

アニャーノの父ロレンツォ・チーボのもとに滞在。

ローマに滞在。長男として当然の権利だとして、母リッチャルダ・マラスピーナに対しマッサ侯及びカッラーラ領主の地位を要求するが、拒絶される。

1545年8月28日

ルニジャーナのオリヴォラ侯ガレオット・マラスピーナから与えられた火縄銃兵20、侯国の反乱者や城代ジローラモ・ギルランダの支援を得て、カッラーラ占領を試みる。宮殿に侵入したものの、最初の躊躇いと、突入の瞬間に彼を引き止めたインノチェンツォ・チーボ枢機卿の行動が重なり、母リッチャルダ・マラスピーナの捕縛を失敗。リッチャルダ・マラスピーナはその隙にマッサの要塞へ逃げ込み、そこから住民を扇動して反乱者たちに対抗することに成功。自分たちが逆に包囲されるのを避けるため、ジューリオ・チーボとその一味は逃走を余儀なくされる。

1545年

リッチャルダ・マラスピーナローマに戻る。

母から扶持を増額される。

マッサに関心を寄せていたコジモ1世・デ・メディチのもとで働く意思を示す。

1546年3月頃

ジェノヴァの有力者ドーリア家の支持を得ることに成功し、彼らと自身の結婚に関する交渉を始める。

1546年10月

後ろ盾を得て、母リッチャルダ・マラスピーナの厳しい統治に不満を抱いていたマッサの住民の感情を利用し、父ロレンツォ・チーボが軍の指揮を執って援護する中で、都市と要塞を占領。自らを侯爵と称す。

1546年

リッチャルダ・マラスピーナカール5世に訴え出る。

1546年12月

ジェノヴァにて、アンドレア・ドーリアの従姪ペレッタ・ドーリアと結婚。

154?年

カール5世により、領地を一時的に没収され、フェッランテ・ゴンザーガの管理下に置かれる。

ジューリオ・チーボの要請により、領地の管理はインノチェンツォ・チーボ枢機卿に変えられる。

1547年1月

義兄ジョヴァンニ・ルイジ・フィエスキがジェノヴァで反乱を起こす。

ドーリアを救援するため、小規模な軍事遠征隊をジェノヴァへ派遣。

反乱が失敗したという知らせを受け、遠征隊は道中で引き返す。

1547年

リッチャルダ・マラスピーナに対して請願、脅迫、さらには新たな武力行使をもって強い圧力をかけ続け、特に伯父インノチェンツォ・チーボ枢機卿の仲介のおかげで、母の主権はそのまま維持されるという条件付きであったが、マッサ侯国の統治権を買い取るための自身の財力を遥かに超える高額な契約を結ぶ。妻ペレッタ・ドーリアの持参金で賄うつもりで家長アンドレア・ドーリアに支払いを求めたが、拒絶される。

1547年3月17日

コジモ1世・デ・メディチにより、ピサで逮捕され、領地を伯父インノチェンツォ・チーボに返還する決意を固めるまで、数日間要塞に拘留される。

1547年6月27日

ジューリオ・チーボが取り決められた金額をまだ支払っていない間に、母リッチャルダ・マラスピーナが侯国の支配権を再び取り戻す。

1547年後半

反ドーリア派の陰謀に加わる。

154?年

陰謀は実行に移される前に発覚し、逮捕されてポントレモリ城に投獄される。

ミラノへ移送される。

1548年5月18日

ミラノにて、斬首される。享年23歳。

1548年

ミラノのサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会に埋葬される。

1573年

弟アルベリーコ・チーボの命により、遺骸はマッサ大聖堂の地下墓所に改葬され、父ロレンツォ・チーボと母リッチャルダ・マラスピーナの遺体のそばに安置される。

外部リンク

 Wikipedia

記載日

更新日

 2025年12月27日