- 生没
- 1452年頃~1521年以降
- 出身
- セッソ
- 父
- メレ・ダ・セッソ
- 母
- リッカ・フィンツィ
- 妻
- エレオノーラ・フィンツィ
- 子
- カテリーナ・デイ・フェデーリ
アンナ・デイ・フェデーリ
エレオノーラ・デイ・フェデーリ
アルフォンソ・デイ・フェデーリ
フェッランテ・デイ・フェデーリ
概要
エルコーレ・デイ・フェデーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、金細工師。父は銀行家で、先祖に1人も金細工に従事した者はいなかった。エレオノーラ・ダラゴーナやイザベッラ・デステの装身具を作り、高い評価を受ける。
年表
1452年頃
セッソ(フィレンツェ?)にて、生(1457年、1465年)。
1460年1月
父メレ・ダ・セッソ、死。
1461年5月以降
ボローニャに移住。
1478年頃
エレオノーラ・フィンツィと結婚。
1479年
長女カテリーナ・デイ・フェデーリ、生。
1483年後半
マントヴァ司教ルドヴィーコ・ゴンザーガへの融資に対して質入れされる貴重品の価値を見積もるためにパドヴァの金細工師エルメス・フラビオ・デ・ボニスと共にカステル・ゴッフレードに派遣される。
1483年12月30日
ルドヴィーコ・ゴンザーガの貴重品の目録を完成。
1485年
この年までに多額の借金を抱える。
1485年9月15日
母リッカ・フィンツィが遺言書を作成。
1487年
フランチェスコ2世・ゴンザーガに仕える。
1487年11月
エレオノーラ・ダラゴーナのために作品を制作。
1487年12月4日
マントヴァ侯のユダヤ人金細工師サロモーネのために、ユダヤ人レオーネが経営する宿での食事3ソルドを48度と滞在費2リラ4ソルドの計8リラ8ソルドをフェッラーラ公の役人が支払う。
1489年3月31日
故ピンタの息子で、サン・フェリーチェの金貸しである甥ムゼートから、無利子で23ドゥカート借り、要請があれば返金することを約束。
1489年8月21日
公文書で、フェッラーラに一時的に滞在するボローニャの居住者であると記載される。
母リッカの遺言書で相続人と指定された長男グラツィアディオと幼子の次男ジョゼフの代理として、遺産を手に入れようとする。リッカがボローニャに移住した後も代理人を務めた、彼の義兄弟アンジェロ・ダ・サンテルピディオに拒否される。この日、仲裁人の決定に従うことに同意。
1489年12月17日
公文書で、フェッラーラに居住するユダヤ人として記載される。
フェッラーラの判事により、義兄弟アンジェロ・ダ・サンテルピディオがサロモーネ・ダ・セッソに3百50ドゥカートを支払うよう命じられる。
1490年
エレオノーラ・ダラゴーナの聖フランシスコ様式の金の胴締を制作。鎖部分はジャコミーノ・ダ・クレモーナが制作。
1490年3月
マントヴァ出発。
フェッラーラ到着。
1491年
マントヴァ到着。
1491年3月22日
朝、マントヴァで女児の切断された遺体が発見される。
1491年3月27日
聖週間、ユダヤ人は外出禁止命令が出されるが、彼と3名の助手は免除される。
1491年
フェッラーラに移住。
1491年5月4日
フェッラーラに来たフランチェスコ2世・ゴンザーガとマヌエーレ・ノルサ宅で会い、ユダヤ人貸金業者デオダート・ノルサの要望を伝える。
1491年5月21日
エレオノーラ・ダラゴーナの官女カッサンドラ・デ・クレストヴァッラ・ダイ・カペレッティの装飾品の報酬16リラをエレオノーラ・ダラゴーナから受け取る(1491年3月21日)。
1491年8月16日
ピエルジェンティーレ・ダ・カメリーノ宛てに代書人に依頼して作成した手紙を送る。フランチェスコ2世・ゴンザーガに約束を思い出させるように彼に頼み、アンジェロ・ディ・ヴィターレの安全通行を尊重しなかったことに抗議。役人に不当な扱いを受けているので、介入を嘆願。「フェッラーラ公妃の金細工師サロモーネ」と名乗り、ユダヤ人とは署名せず。
1491年9月7日以前
フランチェスコ2世・ゴンザーガのために金の鎖を制作。18から20ドゥカートを騙し取ろうとしたと非難される。
フェッラーラで投獄される。
1491年9月23日
アンジェロ・ディ・ヴィターレ、釈放される。
1491年10月9日(日)
フェッラーラ大聖堂にて、フェッラーラ司教バルトロメオ・デッラ・ローヴェレにより、9歳頃の長男グラツィアディオと共に洗礼を受ける。ユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗し、サロモーネ・ダ・セッソから改名。長男はアルフォンソ・デイ・フェデーリに改名。
1491年11月25日
エレオノーラ・ダラゴーナのために銀の糸で作られた薔薇を付けた金鍍金の書皮を制作し、この日代金を受け取る。
1492年4月2日
エレオノーラ・ダラゴーナから代金60リラを受け取る。
1492年6月20日
エレオノーラ・ダラゴーナの宝飾品を作るために必要な木炭1袋分の代金を、前払いで受け取る。木炭の入手は鍛冶工房の運営に不可欠であり、フェッラーラでは厳しい規制の対象だった。
1493年4月2日
エレオノーラ・ダラゴーナのために制作した詳細不明の作品に対して60リラを受け取る。
1493年10月11日
後援者の筆頭であったエレオノーラ・ダラゴーナ、死。
1493年~1505年
公爵宮殿から多数の銀片を受け取る。香炉又は香壺が含まれており、溶かされて、新しく聖具を制作するために再利用された。
エルコーレ1世・デステは14の修道院と教会を建立又は再建し、12の宗教施設の修復、拡張し、新しい建物の内部装飾に多数の委嘱を行う。
エルコーレ・デイ・フェデーリは、この大規模な計画の一環として、4つ以上の聖遺物容器、香壺や聖具を制作。聖遺物容器はエナメルが塗られ、金鍍金され、ストラフォロ(金箔の凹版又は切り込み)で飾られた銀製のもの。
1494年
イザベッラ・デステのために鍍金の書皮を制作。
1494年11月
1494年12月
銀行家だった亡父メレ・ダ・セッソの元共同事業者の相続人からヘブライ語の写本など会社の動産の一部を要求するために、フィレンツェへ向かう。
1497年3月20日
ユダヤ人の経営するリーパ銀行を訪れ、2名の証人の前で、旧知のマヌエーレ・ノルサから合計1百10フィオリーノを受け取る。
1501年
長男アルフォンソ・デイ・フェデーリがルクレツィア・ボルジアの装飾品を制作。
長男アルフォンソ・デイ・フェデーリがローマからフェッラーラに来るルクレツィア・ボルジアの宝石の保管を担当する金細工師として随行。
1501年11月8日
この日までに、鍍金、彩色、刻みを施した銀の幕屋及び銀箱を、エルコーレ1世・デステのために制作。
1502年2月
エルコーレ1世・デステにより、次女アンナ・デイ・フェデーリがルクレツィア・ボルジアの侍女として指名される。
1504年1月
マントヴァ侯妃イザベッラ・デステから腕輪の注文を受ける。しかし完成するまで1年半以上待たせる。
1504年6月
イッポーリト・デステ枢機卿から注文を受ける。
1504年8月22日頃
ルクレツィア・ボルジアの面前で、ジローラモ・ジリオーロからイザベッラ・デステの腕輪の制作が遅いことを叱責される。
これ以前にルクレツィア・ボルジアからも注文を受けていた。
1504年秋
長男アルフォンソ・デイ・フェデーリと同時に12日間病に罹る。
1504年10月14日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を送る。腕輪の制作が、多忙のため遅れていることを謝罪。息子が工房で働いていること、下の息子も継いで欲しいこと。
1505年1月19日
アルフォンソ1世・デステの命でエステンセ城に投獄され、2日間拘留される。
1505年6月12日
イザベッラ・デステの腕輪が未完成であるため、アルフォンソ1世・デステの命で長男アルフォンソ・デイ・フェデーリが投獄される。
1505年6月26日
自身も投獄され、拘留中に腕輪を完成させることを強制される。
1505年8月17日
完成した腕輪をジローラモ・ジリオーロに引き渡す。
イザベッラ・デステ宛てに手紙を送る。腕輪の制作が遅れたことを謝罪。アンドレア・マンテーニャに自分の作品を見せてほしいと頼む。
1506年
ルクレツィア・ボルジアに雇われ、毎月15リラの固定給を受け取る。フェッラーラ宮廷の書記官、公証人、財務官よりも高額。
1506年4月
健康状態が悪化を理由に、イザベッラ・デステと金の容器について打ち合わせるためにマントヴァに行くことを拒否し、代わりに長男アルフォンソ・デイ・フェデーリを送る。
1506年5月14日
イザベッラ・デステ宛てに手紙と金の容器の模型を送る。修理した腕輪を使者に渡した。閉じる部分に鉄片を使用した。後になって金ではなく鉄を用いていると言われないように、その部分をイッポーリト・デステ枢機卿にも見せた。容器の寸法の指定がなかったので、違えば模型を作り直す。
1506年
マラリアに罹る。
1506年6月30日
サンタ・カテリーナ・ダ・シエナ修道院の修道女テオドーラである長女カテリーナ・デイ・フェデーリ、死。
1506年
回復。
1506年7月15日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を送る。四日熱に罹ったので、長男アルフォンソ・デイ・フェデーリが工房を取り仕切っていた。彼が派遣されてきた金細工師ジャンフランチェスコ・ルベルティ・デッラ・グラーナと金の容器の話し合い、蝋の模型を見せた。完成に必要なエナメルの材料ロシエーロを手に入れるためにミラノに自ら行くことはできないので、ジャンフランチェスコ・ルベルティ・デッラ・グラーナを通じて送ってほしい。
1506年8月10日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を送る。作品の遅れはルクレツィア・ボルジアからの依頼を優先したわけではなく、四日熱のせいだと弁明。まだ遠出できないので、高品質のロシエーロの提供を懇願。
1506年
1507年
この年ルクレツィア・ボルジアからの報酬は合計で1百33リラ1ソルド6デナーロ。
1508年
フェッラーラ公国国庫への負債は総額144リラに達し、年収の8割に相当。
1510年
カンブレー同盟戦争による経済悪化のため、ルクレツィア・ボルジアを筆頭としたフェッラーラ公国内の贅沢品の需要が減る。
1511年3月26日
イザベッラ・デステから5つの男性の帽子用飾りの修理を依頼されたが、その他者の作品の出来が良くないので自分が作り直すことをベルナルディーノ・デ・プロスペリに提案。
1511年4月
帽子用飾りを新しく制作することが決定。
1511年5月8日
この日までに、ルクレツィア・ボルジアから発注される。
1511年5月12日
帽子用飾りのエナメル加工が完了。
1511年5月14日
イザベッラ・デステ依頼の帽子用飾りを完成させ、ベルナルディーノ・デ・プロスペリに引き渡す。
1512年5月
イザベッラ・デステから香水入れ付き首飾りの金の蓋を依頼される。4年後に完成。
1513年1月7日(金)
イザベッラ・デステ依頼の角の形をした小さな金のお守りを完成させ、ベルナルディーノ・デ・プロスペリに引き渡す。
1518年
この年、パリに行くアルフォンソ1世・デステに同行するインファンテ・ロマーノが持参する品など、ルクレツィア・ボルジアのために多くの作品を制作。
1518年4月19日
ルクレツィア・ボルジア依頼の仕事で多忙。イザベッラ・デステ依頼の腕輪は未完成。貧困。
1519年3月
フェッラーラを離れている間、工房を長男アルフォンソ・デイ・フェデーリに任せる。
1519年6月24日
ルクレツィア・ボルジア、死。主要な雇用主を失う。
アルフォンソ1世・デステはエルコーレ・デイ・フェデーリ父子を宮廷の金細工師に任命せず。イザベッラ・デステが後援者の筆頭になる。フェッラーラの景気は回復しておらず、高級品の需要減少は依然として続く。
1521年
イザベッラ・デステ依頼の腕輪に飾る赤い尖晶石と48ドゥカート相当の金を預かっており、長男アルフォンソ・デイ・フェデーリと次男フェッランテ・デイ・フェデーリが金の釦など小物を制作していたが、14人の家族を養うことは困難な状況。
早急に現金が必要になったため、赤い尖晶石と未完成の金細工をユダヤ人の質屋に預ける。
ユダヤ人の質屋は赤い尖晶石と未完成の金細工の出所がイザベッラ・デステであると見抜き、通報。
アルフォンソ・デイ・フェデーリに工房を任せ、エルコーレ・デイ・フェデーリとフェッランテ・デイ・フェデーリは他の場所での仕事を探すためにフェッラーラを離れる。
イザベッラ・デステの貴重品をユダヤ人の質屋に入れたとして告発される。
長男アルフォンソ・デイ・フェデーリが投獄される。
1521年3月2日
長男アルフォンソ・デイ・フェデーリ投獄後1か月以上経過。妻エレオノーラと義娘サピエンツィアがイザベッラ・デステ宛てに嘆願書を送る。
以降の記録なし。
署名
OPVS HERCVLIS
別表記
エルコーレ・デ・フェデーリ、エルコレ・デ・フェーリ、Ercole da Ferrara、Salomone da Sesso、Salomon da Seso、dei Fidelis、de Fedeli、de Fedelis、Maitre Hercule de Pesaro
外部リンク
Google Books
H-Net Reviews
Internet Archive
The Marginalia Review of Books
Treccani
Wikipedia
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2025年11月20日