その他人物

マンフレディ Manfredi di Hohenstaufen

生没
1232年~1266年2月26日
出身
シチリア王国ヴェノーザ
没地
シチリア王国ベネヴェント
フリードリヒ2世
ビアンカ・ランチア
ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア
ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナ
コスタンツァ・ディ・シチリア
ベアトリーチェ・ディ・ホーエンシュタウフェン
フェデリーコ・ディ・ホーエンシュタウフェン
エンリコ・ディ・ホーエンシュタウフェン
エンツォ・ディ・ホーエンシュタウフェン
フロルデリ・ディ・ホーエンシュタウフェン

概要

 マンフレディは、13世紀の男性。

在位

 シチリア王 1258年~1266年
  次代:カルロ1世・ダンジオ

別表記

 マンフレーディ、マンフレド、Manfredo

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンス宮廷大全』

コスタンツァ・ディ・シチリア Costanza di Sicilia

生没
1249年~1302年4月9日
出身
シチリア王国カターニア
没地
アラゴン連合王国バルセロナ
マンフレディ
ベアトリーチェ・デ・サヴォイア
ペドロ3世
アルフォンソ3世
ハイメ2世
イサベル・デ・アラゴン・イ・シシリア
フェデリーコ2世
ヨランダ・ダラゴーナ
ペドロ・デ・アラゴン

概要

 コスタンツァ・ディ・シチリアは、13世紀から14世紀の女性。

年表

1262年7月5日

モンペリエにて、ペドロ3世と結婚。

埋葬地

 バルセロナ、サンタ・エウラリア大聖堂

外部リンク

 ウィキペディア

ラヨシュ1世 Lajos I

生没
1326年3月5日~1382年9月10日
出身
ハンガリー王国ヴィシェグラード
没地
ハンガリー王国トルナヴァ
カーロイ1世
エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ
マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク
エリザベタ・コトロマニッチ
カタリン
マーリア
ヤドヴィガ

概要

 ラヨシュ1世は、14世紀の男性。

在位

 ハンガリー王 1342年~1382年
 ポーランド王ルドヴィク1世 1370年~1382年

年表

1348年

クレメンス6世から黄金の薔薇を拝受。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界大百科事典』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン Georgios Gemistos Plethon

生没
1355年?~1450年?

概要

 ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンは、14世紀から15世紀の男性。

年表

1438年3月4日

ビザンティン皇帝ヨハネス8世・パレオロゴス、トレビゾント生まれの人文主義者・神学者ヨハネス・ベッサリオン(1403年~)、コンスタンティノポリス生まれの哲学者、人文主義者ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン(1355年頃~1450/52年)ら、会議が開催されていたフェッラーラに到着。4日後コンスタンティノポリス総主教Iosephフェッラーラに到着。東西両教会の合同の討議を行なう(~1439年)。

1439年7月6日

フィレンツェ公会議で、オスマン・トルコに対抗するための西ヨーロッパからの支援を約束されたギリシア正教会側の妥協により、前日、東西両教会の合同案に署名がなされ、この日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂前で公表される。

この公会議に出席したヨハネス・ベッサリオン、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンらギリシアの聖職者や学者たち、ギリシア語・ギリシア古典についてイタリア人に教示し、古典復活に大きく貢献。この後こうしたギリシアの学者・文人のイタリア移住、始まる。

1440年

コジモ・イル・ヴェッキオや彼を囲む文人、学者ら、前年のフィレンツェ公会議終了後もこの地に留まったゲオルギオス・ゲミストス・プレトンやその弟子・枢機卿ヨハネス・ベッサリオン(在位1439年12月~1472年)からプラトン哲学を知るなど強い刺激を受ける。コジモ・イル・ヴェッキオは以後プラトン学園の設立を構想。

1450年

この年頃、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン、ペロポネソス半島Mistraで死(1355頃年~)。

この地に埋葬された遺骨は間もなく信奉者シジスモンド・マラテスタによって掘り出され、リーミニのマラテスタ家の墓所に再埋葬される。

別表記

 プリソン

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』

マリーア・デンギエン Maria d'Enghien

生没
1367年~1446年5月9日
出身
レッチェ
ジョヴァンニ・デンギエン
サンチャ・デル・バルツォ
ライモンド・オルシーニ・デル・バルツォ
ラディスラオ1世・ダンジオ
ジャナントーニオ・オルシーニ・デル・バルツォ
マリーア・オルシーニ・デル・バルツォ
カテリーナ・オルシーニ・デル・バルツォ
ガブリエーレ・オルシーニ・デル・バルツォ

概要

 マリーア・デンギエンは、14世紀から15世紀のイタリアのフランス系貴族の女性。

在位

 レッチェ伯爵 1384年3月28日~1384年7月27日
 アクアリカ・デル・カーポ、カロヴィーニョ、カストロ、コリリアーノ・ドトラント、ガリアーノ・デル・カーポ、メサーニュ、ロカ領主 1384年3月28日~1384年7月27日

年表

1385年8月24日~1385年10月29日

ウルバヌス6世ジェノヴァへ出発した後、ライモンド・オルシーニ・デル・バルツォと結婚(1384年頃)。

埋葬地

 レッチェ、サンタ・クローチェ聖堂

別表記

 マリー・ダンギャン

外部リンク

 ウィキペディア

フニャディ・ヤーノシュ Hunyadi János

生没
1387年頃~1456年8月11日
没地
ハンガリー王国ゼムン
フニャディ・ヴォイク
モルジナイ・エルジェーベト
シラージ・エルジェーベト
フニャディ・ラースロー
マティアス・コルヴィヌス

概要

 フンヤディは、14~15世紀の男性。

在位

 ハンガリー王国摂政 1446年~1452年

年表

1387年頃

生(1407年、1409年)。

1443年11月3日

エウゲニウス4世の提唱による対オスマン・トルコ新十字軍、フンヤディ指揮の下、セルビアの旧都Nish (Nis)近郊でオスマン・トルコ軍を撃破。

1444年11月10日

Władysław IIIとフンヤディの指揮するポーランド・ハンガリー連合軍、ドナウ河口近くのヴァルナでオスマン・トルコ軍を攻撃し、敗れる。Władysław IIIは戦死(1424年~:ポーランド王在位1434年~:ハンガリー王在位1440年~)。ポーランドは王空位状態に入る(~1447年)。

1446年6月

ハンガリー議会は、フンヤディをフリードリヒ3世の庇護下からなお解放されない幼王ラディスラウス・ポストゥムスの摂政とする(在位~1452年)。

1448年10月17~19日

Murat II指揮のオスマン・トルコ軍、ニコラウス5世の支援を得たフンヤディ指揮のハンガリー軍をセルビアのコソボで大破。

1450年

ハンガリー王摂政フンヤディ、Murat IIと休戦協定を結ぶ。

1456年7月14日~7月21/22日

ベオグラード包囲戦:ハンガリー制圧を狙ってNándor Fehérvár(現ベオグラード)を襲撃してきたマホメッド2世指揮のオスマン・トルコの大軍に対し、教皇使節フランシスコ会修道士、説教師、神学者ジョヴァンニ・カピストラーノらの呼びかけに応じて結集した貧農、貧民、学生らからなる大軍、フンヤディ指揮の教会軍と共に十字軍を構成して勝利を収め、ハンガリーを防衛。

1456年8月11日

ゼムンにて、ペストで死。

埋葬地

 ハンガリー、ジュラフェヘールヴァール、聖ミハイ聖堂

別表記

 フンヤディ

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アルブレヒト3世・フォン・ヴィッテルスバッハ Albrecht III von Wittelsbach

生没
1401年3月27日~1460年2月29日
出身
神聖ローマ帝国バイエルン・ミュンヘン公国ヴォルフラーツハウゼン
没地
神聖ローマ帝国バイエルン・ミュンヘン公国ミュンヘン
エルンスト・フォン・ヴィッテルスバッハ
エリザベッタ・ヴィスコンティ
アグネス・ベルナウアー
アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルベンハーゲン
ヨハン4世・フォン・ヴィッテルスバッハ
エルンスト・フォン・ヴィッテルスバッハ
ジギスムント・フォン・ヴィッテルスバッハ
アルブレヒト・フォン・ヴィッテルスバッハ
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
エリーザベト・フォン・ヴィッテルスバッハ
アルブレヒト4世・フォン・ヴィッテルスバッハ
クリストフ・フォン・ヴィッテルスバッハ
ヴォルフガング・フォン・ヴィッテルスバッハ
バーバラ・フォン・ヴィッテルスバッハ

概要

 アルブレヒト3世・フォン・ヴィッテルスバッハは、15世紀のバイエルンの男性。

在位

 バイエルン・ミュンヘン公爵 1438年~1460年

外部リンク

 ウィキペディア

スカンデルベグ Scanderbeg

生没
1404年頃~1468年1月17日
没地
レジャ
ジョン・カストリオティ
ヴォイサヴァ
ドニカ・アリアニティ
ジョン2世・カストリオティ

概要

 スカンデルベグは、15世紀のアルバニア出身の男性、オスマン・トルコからアルバニアを独立させた国民的英雄。

在位

 アルバニアのキリスト教徒軍最高指揮官 1457年~1468年

年表

1404年頃

生(1403年、1405年)。

1451年4月26日

ドニカ・アリアニティと結婚。

1457年9月2日

アルバニア制圧を目指して襲撃してきたオスマン・トルコ軍に対し、1443年以来アルバニアの民衆を結集してオスマン・トルコの攻撃を退け民衆から英雄視されてきたスカンデルベグ、カリストゥス3世から資金を得て軍を率い、南部Tamoriza (Tomoriza)で勝利を収める。

1457年12月23日

スカンデルベグ、カリストゥス3世より対オスマン・トルコ戦の教皇軍最高指揮官に任命される。

1461年8月上旬

この頃?、スカンデルベグ指揮のアルバニア騎兵隊、ピウス2世の指示により対オスマン・トルコ戦からフェッランテ・ダラゴーナ支援にナポリに到着。

1466年

パウルス2世から祝福された剣を拝受。

1467年4月

スカンデルベグ指揮のアルバニア人民衆軍、オスマン・トルコ軍を撃退。しかしトルコ軍、間もなく攻撃を開始。

1468年1月17日

アルバニアのキリスト教徒軍最高指揮官スカンデルベグ、オスマン・トルコ軍のアルバニア攻撃が激化する中、熱病で死(1468年1月19日)。間もなくトルコ軍、アルバニアを蹂躙。

別表記

 スカンデルベッグ、ジェルジ・カストリオティ、SkanderbegGjergj KastriotiGjergy KastriotGiorgio Castriota Scanderbeg

外部リンク

 ウィキペディア
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

バルバラ・フォン・ブランデンブルク Barbara von Brandenburg

生没
1422年9月30日~1481年11月7日
ヨハン・フォン・ブランデンブルク
バルバラ・フォン・ザクセン=ヴィッテンベルク
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
スザンナ・ゴンザーガ
ドロテア・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
リドルフォ・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ

概要

 バルバラ・フォン・ブランデンブルクは、15世紀の女性。

年表

1478年3月24日

バルバーラ・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。チェチーリア・ゴンザーガの死を伝える。

肖像

別表記

 ブランデンブルグ、バルバラ・ディ・ブランデンブルゴ

外部リンク

 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Treccani.it

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

ドニカ・アリアニティ Donika Arianiti

生没
1428年~1506年
出身
オスマン帝国カニナ
没地
バレンシア王国ヴァレンシア
ジェルジ・アリアニティ
マリア・ムザカ
スカンデルベグ
ジョン2世・カストリオティ

概要

 ドニカ・アリアニティは、15世紀から16世紀の女性。

年表

1451年4月26日

スカンデルベグと結婚。

1456年

ジョン2世・カストリオティを出産。

外部リンク

 Wikipedia

マリア・アリアニティ Maria Arianiti

生没
14??年~15??年
ジェルジ・アリアニティ
ピエトリーナ・フランコーネ
バルトロメオ・ジュッポ
フランチェスコ・ジュッポ

概要

 マリア・アリアニティは、15世紀から16世紀の女性。

年表

1505年

フランチェスコ・ジュッポを出産。

外部リンク

 Geneanet

ラディスラウス・ポストゥムス Ladislaus Postumus

生没
1440年2月22日~1457年11月23日
出身
コマーロム
没地
プラハ
アルブレヒト2世
エリザベート

概要

 ラディスラウス・ポストゥムスは、15世紀の男性。

在位

 ボヘミア王Ladislav 1453年~1457年
 ハンガリー王ラースロー5世(László V) 1445年~1457年
  次代:マティアス・コルヴィヌス

年表

1440年5月15日

故アルブレヒト2世の死後出生子でハンガリー・ボヘミアの王位の正統継承権者ラディスラウス・ポストゥムス(1440年~1457年)、Esztergom大司教よりハンガリー王冠を受ける。

しかしこの時すでに母后エリザベート及びハンガリーの反ハプスブルク系貴族は対オスマン・トルコ防衛のためポーランド王Władysław IIIに王位を継承させることに意を定める。

1440年7月17日

Władysław IIIは、ハンガリーの反ハプスブルク系貴族による親ハプスブルク系貴族を抑えての支持により、ハンガリー王位にも就き、Ulászló Iを名乗る。親ハプスブルク系貴族はラディスラウス・ポストゥムスと共にドイツ王フリードリヒ3世の庇護下に入る。

1445年

ラディスラウス・ポストゥムス、ハンガリー議会によりハンガリー王László Vとして承認される。但し、ラディスラウス・ポストゥムスを庇護下に置く(1440年~)フリードリヒ3世はこれを拒否。

1446年6月

ハンガリー議会は、フニャディ・ヤーノシュフリードリヒ3世の庇護下からなお解放されない幼王ラディスラウス・ポストゥムスの摂政とする(在位~1452年)。

1451年

Jiřìz PodĕbradGeorg von Podebrad:1420年~)、ボヘミア王位継承権者ラディスラウス・ポストゥムスの摂政となる(在位~1457年)。

1453年10月

ラディスラウス・ポストゥムス、フリードリヒ3世からその庇護を解かれボヘミア王Ladislavとしての冠を受ける(在位1453年~1457年)。

この頃?ラディスラウス・ポストゥムス、ようやくハンガリー王László Vとしても実権を得る。

1457年11月23日

ラディスラウス・ポストゥムス、プラハで死。(1440年~1457年:ハンガリー王László V在位1445年~1457年:ボヘミア王Ladislav在位1453年~1457年)。フリードリヒ3世、両王位の継承を狙う。

別表記

 ラディスラウス遺腹王、Ladislaus V (Posthumus

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『馬車の文化史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

ジョスカン・デ・プレ Josquin Des Préz

生没
1440年~1521年
出身
ピカルディ

概要

 ジョスカン・デ・プレは、15世紀から16世紀のフランドルの男性、作曲家。

年表

1440年

この年頃、フランス北部ピカルディに生(1445年頃、1450年頃)。

1494年

この年まで教皇アレクサンデル6世に仕える。ボルジア家の聖俗双方の行事に際しての音楽を受け持つが、さほどの報酬はもらっていなかったらしく、宮廷で粗末な身なりでいることにひどく苦しんだという。

1514年

「ミサ曲集」3巻(1502年)を、ヴェネツィアとフォッソンブローネのO. Petrucciのもとで刊行。

別表記

 Després
 

外部リンク

 ウィキペディア
 Temporum Stirpis Musica

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』

エルンスト・フォン・ヴェッティン Ernst von Wettin

生没
1441年3月24日~1486年8月26日

概要

 エルンスト・フォン・ヴェッティンは、15世紀の男性。

在位

 ザクセン選帝侯 1464年~1486年

年表

1480年3月22日

ブラウンシュヴァイク侯ヴィルヘルム1世とヴィルヘルム・フォン・ヘンネベルクと共に、2百の騎士を伴い、この日ローマに到着。パリオーネ地区の屋敷に宿泊し、教皇シクストゥス4世の歓待を受け、ジローラモ・リアリオからはマリアーナでの狩りが催される。

1480年4月14日

ローマ出発。

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典

参考文献

 『Lucretia Borgia

マルゲリータ・ディ・バヴィエラ Margherita di Baviera

生没
1442年1月1日~1479年10月14日
出身
神聖ローマ帝国バイエルン公領ミュンヘン
没地
マントヴァ侯国マントヴァ
アルブレヒト3世・フォン・ヴィッテルスバッハ
アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイク
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
キアラ・ゴンザーガ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
シジスモンド・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
マッダレーナ・ゴンザーガ
ジョヴァンニ・ゴンザーガ

概要

 マルゲリータ・ディ・バヴィエラは、14世紀の女性。

年表

1463年5月10日

マントヴァにて、フェデリーコ1世・ゴンザーガと結婚。

1464年7月1日

キアラ・ゴンザーガを出産。

1466年8月10日

フランチェスコ2世・ゴンザーガを出産。

1469年

シジスモンド・ゴンザーガを出産。

1471年2月9日

エリザベッタ・ゴンザーガを出産。

1472年7月10日

マッダレーナ・ゴンザーガを出産。

1474年

ジョヴァンニ・ゴンザーガを出産。

埋葬地

別表記

 Margareta von Bayern、マルゲリータ・ディ・ヴィッテルスバハ、マルガレーテ・フォン・ヴィッテルスバッハ

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

マティアス・コルヴィヌス Matthias Corvinus

生没
1443年2月23日~1490年4月6日
フニャディ・ヤーノシュ
ベアトリーチェ・ダラゴーナ

概要

 マティアス・コルヴィヌスは、15世紀の男性、ハンガリー王。

在位

 ハンガリー王 1458年~1490年
  先代:ラディスラウス・ポストゥムス
  次代:ウラースロー2世・ヤギェウォ

年表

1443年2月23日

生(1440年)。

1458年1月24日

フニャディ・ヤーノシュの次男マティアス・コルヴィヌス、ハンガリー議会によりハンガリー王に選出される(在位1458年~1490年)。

1463年7月24日

ピウス2世、対オスマン・トルコの一環としてハンガリーの内紛を調停し、マティアス・コルヴィヌスを終身王とする和を結ばせる。

1469年5月3日

ハンガリー王マティアス・コルヴィヌス、ボヘミア王Jiřìz Podĕbradに反抗する大領主、カトリック貴族に推されてボヘミア王と宣言し、Jiřìz Podĕbradに対抗。両者の争い、後者の死まで続く(1469年~1471)。

1471年3月22日

Jiřìz Podĕbrad死(1420年~:在位1458年~)——1471年3月27日ポーランド王Kazimierz IVの長子Władysław、ボヘミア王Vladislav IIとして即位(在位~1516年)。

Jiřìz Podĕbradに反抗する大領主、カトリック貴族によりボヘミア王に推され(1469年)て以来Jiřìz Podĕbradと争ってきたハンガリー王マティアス・コルヴィヌス、以後、Vladislav IIと争いを続ける。

1471年

シクストゥス4世から祝福された剣を拝受。

1478年12月7日

Vladislav IIとマティアス・コルヴィヌス、共にボヘミア王であることを認め合う和約をボヘミアのオロモウツで締結。マティアス・コルヴィヌスはモラヴァ、シレジア及びラウジッツを得る。

1485年6月1日

ハンガリー王・ボヘミア王マティアス・コルヴィヌス1477年から繰り返し攻撃してきたウィーンを含むオーストリアの大部分をついに攻略し、ハプスブルク家から奪ってハンガリーに併合。

1490年4月4/6日

マティアス・コルヴィヌス、後継者を残さず死(1440/1443年~1490年:ハンガリー王在位1458年~1490年:ボヘミア(共同)王在位1469(1478年)年~1490年)。ボヘミア(共同)王Vladislav IIウラースロー2世・ヤギェウォとしてハンガリー王に即位。

1490年8月29日

マクシミリアン1世にオーストリアの領土を奪還される。

14??年

パスキエ・グルニエから綴れ織連作「トロイア戦争の物語」を購入(1495年)。

別表記

 マーチャーシュ、Hunyadi MátyásMátyás I CorvinusMattia

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Genealogy.EU

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『ハプスブルク家』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンス百科事典』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ジェーム Djem

生没
1459年12月22日~1495年2月25日
出身
エディルネ
没地
カプア
マホメッド2世

概要

 ジェームは、15世紀のオスマン帝国の男性。

年表

1481年5月3日

マホメッド2世、死。

バヤジット2世と帝位を争う。

1481年6月20日

イェニシェヒルの戦いで敗れ、亡命に追い込まれる。

1495年1月28日

シャルル8世と共にローマを出発(1495年1月25日、1495年1月28日)。

1495年2月25日

カプアにて、病死(ボナヴェントゥーラ・テウリヴェッレトリ)。

別表記

 ディエム、ジェム、GemGeminCemCemsidZizim

関連項目

 The Borgias: 103, 104, 107

外部リンク

 ウィキペディア
 THE BORGIAS wiki

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

アグネス・フライ Agnes Frey

生没
1475年~1539年
デューラー

概要

 アグネス・フライは、15世紀から16世紀の女性。

外部リンク

 kleio.org
 Wikipedia

参考文献

 『ルネッサンス夜話』

トマス・ブーリン Thomas Boleyn

生没
1477年頃~1539年3月12日
ウィリアム・ブーリン
エリザベス・ハワード
メアリー・ブーリン
アン・ブーリン

概要

 トマス・ブーリンは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 オーモンド伯 1527年~
 初代ウィルトシャ伯 1529年12月8日~

外部リンク

 Find A Grave
 Wikipedia

トマス・モア Thomas More

生没
1478年2月7日~1535年7月6日
出身
ロンドン
ジェーン・コルト
アリス・ミドルトン
マーガレット・モア
エリザベス・モア
シスリー・モア
ジョン・モア

概要

 トマス・モアは、15世紀から16世紀の男性、思想家、政治家。

年表

1477年2月6/7日

ロンドンに生(1478年)。

1509年8月

エラスムスEncomium moriae(痴愚神礼讃)の稿をトマス・モアに献呈。

1516年6月

Utopia(ユートピア)を完成し、1516年12月ネーデルランド・ブラバントのブリュッセル近郊ルーヴェンで刊行。

1520年6月7日~1520年6月24日

フランソワ1世カール5世に対抗する同盟者を得るべく、Calais近郊Ardresの豪華な装飾を施した陣屋(「金襴の陣屋」)に参議会員トマス・モアらを従えたヘンリー8世を招いて会見し、盟約を求めるが合意に達せずに終わる。

1523年5月

ヘンリー8世Assertio septem sacramentorum(1521年)を擁護すべく匿名の論文Responsio da Lutherum(ルター駁論)をロンドンで刊行。

1529年6月

1528年執筆したA dialogue concerning hercies and matters of religion, against Tyndale(異端に着いたの対話、ティンダル駁論)をロンドンで刊行。この中でW. Tyndaleの英語訳聖書(1525年)やマルティン・ルターの福音主義的信仰を異端と批判。

1529年10月26日

ヘンリー8世より、貴族でも聖職者でもないものとしては初めて大法官に任命される。(在位~1532年)。

1529年11月3/4日

宗教改革議会:ヘンリー8世、議会の反ローマ教会的立法によってクレメンス7世を脅かし、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立を承認させるべく、第五議会を招集。トマス・モアが開会の辞を述べる。以後、この議会は彼の当初の目的を超えた立法を重ね、イングランドの主権国家としての自立の、さらには宗教改革の幕を開く。

1532年5月16日

トマス・モア、「聖職者の服従」がカンタベリー大司教Wiliam Warhamからヘンリー8世に報告されたこの日、これを首肯できず健康状態が思わしくないとの理由を挙げて大法官を辞任(1529年~)。

1534年4月13日

王位継承法の「内容と効果を支持する」誓約を行なうよう求められたトマス・モアとCambridge大学総長・Rochesterの司教John Fisher、誓約は教皇至上権を否定することになると考え、拒否。

1534年4月17日

王位継承法支持の誓約を改めて拒否したトマス・モアとJohn Fisherヘンリー8世の命によりロンドン塔に投獄される。

1534年11月18日

イングランド国教会成立:宗教改革議会、王及びその継承者を「Anglicana Ecclesiaと呼ばれるイングランドの教会の地上における唯一最高の首長と解し、認め、かつみなす」とする国王至上法(首長令)を承認。これによりAnglicana Ecclesiaローマ教会から分離し、王を首長とするイングランド国教会として独立。教皇の一切の支配権を一掃してイングランドを王が聖俗両界で一元的に支配する完全な主権国家(empire)としようとするThomas Cromwellの意志、実現される。

さらに宗教改革議会、国王至上法に反する言行を処罰する反逆法と、「不忠者」トマス・モア及びJohn Fisherの私権剥奪法を承認。

1535年7月1日

イングランド国教会における王の至上権を否認し反逆法に違反したとして有罪判決を受ける。

1535年7月6日

ヘンリー8世の命により斬首される。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

サポヤイ・ヤーノシュ Szapolyai János

生没
1487年2月2日~1540年7月22日

概要

 サポヤイ・ヤーノシュは、15世紀から16世紀の男性。

年表

1526年11月10日

ハンガリー最大の貴族ザポリア家のサポヤイ・ヤーノシュ(1487年~:ハンガリー王在位1526年~1540年)は、Tokayの国会で大多数の貴族の支持によりハンガリー王に選出される。

1527年9月26日

ハンガリーの貴族の大多数が王としてサポヤイ・ヤーノシュを推戴する中でウィーンの東に接する帯状地帯を支配するに留まっていたフェルディナンドは、Tokayでサポヤイ・ヤーノシュ軍を破る。サポヤイ・ヤーノシュはポーランドに逃げる。

1528年2月24日

サポヤイ・ヤーノシュ、スレイマン1世と協定を結んでその庇護下に入り、共にフェルディナンド及びハプスブルク家の牽制、攻撃を目指す。

1528年10月23日

サポヤイ・ヤーノシュ、フランソワ1世、サポヤイ・ヤーノシュはフェルディナンドに対抗するためフランソワ1世から支援を得ることを、フランソワ1世はサポヤイ・ヤーノシュにハプスブルク家を牽制させることを狙い、協定。

1529年8月

サポヤイ・ヤーノシュ、ウィーンに向かって進軍するスレイマン1世をモハーチで迎えて会見し、彼よりハンガリー王位のシンボル聖イシトヴァン宝冠などを与えられる。

1533年6月22日

イスタンブール(コンスタンティノポリス)のスレイマン1世宮廷に使節を送って休戦交渉を行っていたフェルディナンド、ウィーンに初めてスレイマン1世の使節を迎え、スレイマン1世を父、その大宰相Ibrāhim Paşaを兄と呼ぶこと、フェルディナンドに追われてスレイマン1世の庇護を得て来た(1528年~)前ハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュにハンガリー王国の大部分を与え、自分はスレイマン1世への貢納を代償として現支配領のハンガリー王国西北部を支配することを約する同盟を締結。

1540年7月22日

ハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュ死(1487年~:在位1526年~)。

1541年8月26日

大軍によってフェルディナンド軍を敗走させたスレイマン1世、自らブダに入り、この地を含むハンガリー王国中央部を自身の直轄領とし、東部を、自身への貢献を条件としてサポヤイ・ヤーノシュの遺志János Zsigmondの支配領とする。これによりハンガリー王国、フェルディナンドの支配する西北部を含め三分割される。

別表記

 ザポリア、ヤノシュ・ザポヤイ、サーポヤイ=ヤーノシュ、János ZápolyaZápolya János

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

トマ・ナダスディ Tamás Nádasdy

生没
1498年~1562年6月2日
出身
エゲルヴァール
没地
エゲルヴァール
ナダーシュディ・フェレンツ1世
オルソルヤ・カニッツァイ
フェレンツ・ナダスディ

概要

 トマ・ナダスディは、15世紀から16世紀の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

メアリー・ブーリン Mary Boleyn

生没
1499年頃~1543年7月19日
トマス・ブーリン

概要

 メアリー・ブーリンは、15世紀から16世紀の女性。

外部リンク

 Find A Grave
 Wikipedia

エリザベス・ブラント Elizabeth Blount

生没
1502年頃~1540年
ジョン・ブラント
キャサリン・パーシャル
ヘンリー8世
ギルバート・タルボイズ
エドワード・クリントン
ヘンリー・フィッツロイ
エリザベス・タルボイズ
ジョージ・タルボイズ
ロバート・タルボイズ
ブリジット・クリントン
キャサリン・クリントン
マーガレット・クリントン

概要

 エリザベス・ブラントは、16世紀の女性。ヘンリー8世の愛妾。

年表

1519年6月5日

ヘンリー・フィッツロイを出産。

外部リンク

 Wikipedia

トマス・タリス Thomas Tallis

生没
1505年頃~1585年11月23日

概要

 トマス・タリスは、16世紀のイングランド王国の男性、作曲家、オルガン奏者。

年表

1536年頃~1540年

ウォルサム・アビー修道院のオルガン奏者。

1542年

王室礼拝堂のオルガン奏者。

1572年

弟子のウィリアム・バードも王室礼拝堂に着任。

外部リンク

 ウィキペディア

アン・ブーリン Anne Boleyn

生没
1507年頃~1536年5月19日
トマス・ブーリン
ヘンリー8世
エリザベス1世

概要

 アン・ブーリンは、16世紀の女性。

年表

1532年10月20日~10月29日

アン・ブーリンやトマス・クロムウェルを伴ったヘンリー8世フランソワ1世は、ブーローニュとCalaisで会見。カール5世に対する防衛同盟を確認しクレメンス7世をそれに引き入れることで合意すると共にヘンリー8世の婚姻無効問題について協議。

1533年1月25日

この日頃ヘンリー8世は、かねて望んできたアン・ブーリンと秘密裡に結婚。

1533年5月28日

Thomas Crannerヘンリー8世とアン・ブーリンの結婚は完全に合法的な婚姻だと宣言。

1533年6月1日

アン・ブーリンのイングランド王妃戴冠式、ウェストミンスター修道院で行われる。

1533年7月11日

クレメンス7世ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚を無効と宣言すると共に、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は依然として有効であり、1533年9月までに彼女を正妻と認めなければその時をもって破門に処すと宣言。

1533年9月7日

アン・ブーリン、女子エリザベス(1533年~1603年:在位1558年~1603年)を出産。長年、正統後継男子を望んできたヘンリー8世は、女子の誕生に落胆。

1534年3月23日

「宗教改革議会」、ヘンリー8世カテリーナ・ダラゴーナの子メアリー1世を非正統とし、アン・ブーリンとの子エリザベスを正統な王位継承者と認めると共に、この継承者に反対する者を反逆罪に問い、かつこの「内容と効果を支持する」誓約を義務付けることを定めた「王位継承法」を可決。

1536年1月7日

婚姻無効宣言を下された(1533年)後も王妃の称号と権利の放棄を認めず軟禁状態に置かれていたカテリーナ・ダラゴーナ、失意の内に病(?)死(1485年~)。

これによりカール5世への対応の自由を得たヘンリー8世の心、この頃すでに現王妃アン・ブーリンを離れ、宮廷の女性Jane Seymour(1509年頃~1537年)に傾く。これをアラゴン家系貴族など反ブーリン家派、裏面から助長。

1536年5月2日

幾重もの姦通と近親相姦が証明されたとして、ヘンリー8世により、ロンドン塔に幽閉される。

1536年5月18日

斬首される。

別表記

 アン・ブリン、アン・ブーレン、アンナ・ボレーナ

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Find A Grave

参考文献

 『新世紀ビジュアル大辞典』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『西洋拷問刑罰史』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』

リチャード・サックヴィル Richard Sackville

生没
1507年頃~1566年4月21日

概要

 リチャード・サックヴィルは、16世紀頃の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『オーランドー』

ウルグ・アリ 'Ulūg 'Alī

生没
1519年~1587年
出身
カステッラ

概要

 ウルグ・アリは、16世紀のオスマン・トルコの男性。

年表

1519年

カステッラにて、生(1520年)。名前は、ジョヴァンニ・ディオニジ・ガレーニ。

1560年6月

ニースの港を襲撃し、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア軍の守備を破り、貴族たちを捕虜にする。

多額の身代金で捕虜を返すことに同意し、マルグリット・ド・ヴァロワに目通りする名誉を欲する。

しかし、ウルグ・アリが会ったのは、実際にはマルグリット・ド・ヴァロワと偽ったパオラ・コスタである。

1574年8月

オスマン・トルコ水軍を指揮し、1573年10月フェリペ2世軍により奪還されたチュニスを再奪還。以後、オスマン・トルコのチュニス支配続く(~1881年)。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

オルソルヤ・カニッツァイ Kanizsai Orsolya

生没
1521年頃~1571年
トマ・ナダスディ
フェレンツ・ナダスディ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

ステファン・バートリ Stefan Batory

生没
1533年9月27日~1586年12月12日
出身
トランシルヴァニア、ソムリヨ
没地
リトアニア大公国フロドナ
バートリ・イシュトヴァーン8世
テレグディ・カタリン
アンナ・ヤギェロンカ
クネボフスキ

概要

 バートリ・イシュトヴァーンは、16世紀の男性。

在位

 ポーランド王ステファン・バートリ 1575年12月14日~1586年12月12日

年表

1574年5月30日

シャルル9世死。

アンリ3世、ポーランド王位を捨ててフランス王に即位。

1575年12月12日

ポーランド王に選出される。

1576年5月1日

クラクフで戴冠。

1580年

グレゴリウス13世から祝福された剣を拝受。

1588年5月

クラクフのヴァヴェル大聖堂内シフィエンタ・マリア地下聖堂に埋葬される。

別表記

 ステファヌ・バートリ、ステファン・バトーリ、Stefan BatóryBáthory István

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス百科事典』

アンナ・バートリ Báthory Anna

生没
1539年~1570年
エリザベート・バートリ

概要

 アンナ・バートリは、16世紀の女性。

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

ヤーノシュ・ジグモンド János Zsigmond

生没
1540年7月18日~1571年3月14日
サポヤイ・ヤーノシュ
イザベラ

在位

 ハンガリーの対立王 1540年~1570年
 トランシルヴァニア公 1570年~1571年

別表記

 ヤーノシュ・シジスムンド

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『メディチ家の人びと』

メアリー・スチュアート Mary Stuart

生没
1542年12月8日~1587年2月8日
スコットランド王ジェームズ5世
メアリー
フランソワ2世
ダーンリー卿ヘンリー・スチュアート
ボズウェル伯
ジェイムス1世

概要

 メアリー・スチュアートは、16世紀のスコットランドの女性、スコットランド女王。

在位

 スコットランド王 1542年~1567年

年表

1542年12月7/8日

失意の病床にあるJames Vに長女メアリー・スチュアート誕生(1542年~1587年:スコットランド女王在位1542年~1567年)。

1542年12月14日

ジェイムス5世死(1512年~:在位1513年~)——生まれたばかりの娘メアリー・スチュアート、スコットランド女王となる。

1543年3月

スコットランドの併合・吸収を企図しその貴族に資金を提供するなど工作を続けてきたヘンリー8世の最初の策、イングランド王太子Edward(1537年~)とメアリー・スチュアートの結婚がスコットランド議会で承認される。

しかし以後ヘンリー8世、本来の企図を露わにし、スコットランド内部に反発、高まる。

1543年7月1日

スコットランドにおける独立・自由への志向の強さに押されてヘンリー8世Edwardとメアリー・スチュアートの結婚はイングランドによるスコットランドの併合・吸収を意味せず、スコットランドは以後も個別の独立した王国として留まることなどを認めた上、メアリー・スチュアートが10歳になる以前に結婚契約を結び10歳になった時点で彼女がイングランドに赴くこと、などをメアリー・スチュアートの後見人・摂政ArranJames Hamilton(1515年?~1575年:摂政在位1543年1月~1554年)と協定(グリニッジ協定)。これを屈辱的協定とする不満・怒り、スコットランド内部に募る。

1547年9月10日

ヘンリー8世にもましてスコットランド支配の野望を抱くEdward VIの摂政Edward SeymourEdward VIとメアリー・スチュアートの結婚を迫るべく大軍を指揮して領境を越え、この日Pinkieでスコットランド軍を大破。

1548年7月7日

結婚縁組によるイングランドとスコットランドの合体を妨げたいアンリ2世と、軍による攻撃など強硬策を続けるイングランドへの反発・憎悪を強めるスコットランド、スコットランドの独立と安全を保障するとのアンリ2世の提言を機に接近し、アンリ2世の長子フランソワ2世(1544年~1560年:フランス王1559年~1560年)とスコットランドの女王メアリー・スチュアートの結婚協定を、エディンバラ近郊ハディントンで締結。メアリー・スチュアートは1548年7月末、スコットランドを発ってフランスに向かう。

1558年4月24日

アンリ2世の王太子フランソワ2世とスコットランド女王メアリー・スチュアート、結婚協定(1548年)に従い、パリのノートル=ダム大聖堂で結婚式を挙げる。これによりフランソワ2世、スコットランドの協同統治権(婚姻による王冠)を獲得。

1558年11月17日

メアリー1世死(1516年~:在位1553年~)。

エリザベス、イングランド王に即位しエリザベス1世を名乗る(在位~1603年)。

これに対しアンリ2世、庶子エリザベス1世の王位継承にが疑義があるとし、自身の王太子フランソワ2世の妻メアリー・スチュアートこそ正統なイングランド王位継承権を有すると主張。以後フランソワ2世とメアリー・スチュアート、「イングランド・スコットランド・アイルランド王及び女王」の称号を用い続ける。

1558年11月29日

スコットランド議会、メアリー・スチュアートの夫フランソワ2世に配偶者王位継承権を認める。

1559年6月30日

アンリ2世、自家の2つの婚礼の祝賀のため1559年6月28日から開始した宮廷騎馬試合の最終日のこの日、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアHenri de Lorraine及びスコットランド近衛隊長・LorgeGabriel de Montgomeryとこの馬上槍試合の最中、カトリーヌ・メディシスElisabeth de France、メアリー・スチュアートらの目前で、Gabriel de Montgomeryの折れた槍が頭部を貫通し、重傷を負う。

1559年7月10日

アンリ2世死(1519年~:在位1547年~)——王太子フランソワ2世(1544年~)、フランス王に即位しフランソワ2世を名乗る(在位~1560年)。

15歳の幼王の即位後間もなく、王妃メアリー・スチュアートの外戚で熱狂的なカトリック信徒ギーズ一門、実権を掌握。

1560年

ピウス4世から黄金の薔薇を拝受。

1560年12月5日

フランソワ2世死(1544年~:在位1559年~)——シャルル9世(1550年~1574年)、フランス王に即位し、シャルル9世を名乗る(在位1560年~1574年)。母后カトリーヌ・メディシス、10歳の幼王の事実上の摂政として実権を掌握。

これにより、前王妃メアリー・スチュアートの外戚ギーズ一門の権勢、崩壊。

1561年8月19日

フランスで前王妃の名称以外全ての地位・実力を失い、スコットランド女王の地位を残すのみとなったメアリー・スチュアート、去り難いフランスを去り、この日リースに上陸しスコットランドに帰る。

1566年6月19日

従弟で旧教徒ダーンリー卿Henry StewartStuart:1545年~1567年)と結婚していた(1565年7月~)メアリー・スチュアート、男子ジェイムス1世を出産(1566年~1625年)。

1568年5月2日

夕刻メアリー・スチュアート、幽閉されていた(1567年~)Lochleven城塞から監視人を含む数名を従者として逃亡。

1568年5月13日

逃亡中のメアリー・スチュアート、グラスゴー近郊ラングサイドで、急ぎ結集した新教徒派政府軍を破り活路を開こうとするが完敗。2日後エリザベス1世に書簡を送って保護を求め、その翌1568年5月16日西部領国境界の川を釣りボートで越えてイングランドに入る。

1568年5月19日

1568年5月18日メアリー・スチュアートをイングランド中部カーライル城に移させたエリザベス1世、この日、彼女を満腔の敬意を込めて、しかし決して逃亡されぬよう遇せよと指令。メアリー・スチュアートの軟禁・幽閉生活、始まる(~1587年:1587年3月8日エリザベス1世暗殺を謀ったAnthony Babington——(メアリー・スチュアートの近習、1561年~1586年)——陰謀事件への参画により処刑される)。

別表記

 メアリースチュアート、メアリー・ステュアート、メアリーステュアート、スコットランド女王メアリー

外部リンク

 ウィキペディア
 fabcross for エンジニア
 Find A Grave
 Find A Grave
 Genealogy.EU

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『新世紀ビジュアル大辞典』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『服飾の中世』
 『魔女狩り』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの歴史』

エリザベート・バートリ Báthory Erzsébet

生没
1561年~1614年8月21日
アンナ・バートリ
フェレンツ・ナダスディ

概要

 エリザベート・バートリは、16世紀から17世紀の女性。ハンガリーで1、2の大貴族の娘。自らの美と若さを守るためと信じて、600人余の娘たちを虐殺する。

別表記

 エルジェーベト・バートリ、チェイテの夫人、血の伯爵夫人、Elizabeth Bathori

外部リンク

 ウィキペディア
 IMDb

参考文献

 『世界悪女大全』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

ジェイムス1世 James I

生没
1566年6月19日~1625年3月27日
出身
スコットランド王国エディンバラ城
没地
イングランド王国シーアボールズ宮殿
ダーンリー卿ヘンリー・スチュアート
メアリー・スチュアート
アン・オブ・デンマーク
ヘンリー・フレデリック・スチュアート
エリザベス・スチュアート
マーガレット・スチュアート
チャールズ1世・スチュアート
ロバート・スチュアート
メアリー・スチュアート
ソフィア・スチュアート

概要

 ジェイムス1世は、16世紀から17世紀の男性。

年表

1625年5月7日

ウェストミンスター寺院に埋葬される。

外部リンク

 ウィキペディア
 Find A Grave

参考文献

 『オーランドー』
 『ルネサンス百科事典』
 『魔女狩り』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『西洋拷問刑罰史』

ジョージ・ヴィリアーズ George Villiers

生没
1592年8月28日~1628年8月23日
ジョージ・ヴィリアーズ
メアリー・ボーモント

概要

 バッキンガム公。ジェイムズ1世の側近として権力を振るったが、1628年暗殺された。

別表記

 ジョージ・ヴィラーズ

外部リンク

 ウィキペディア

ジャウフレ・リュデル Jaufré Rudel

概要

 ジャウフレ・リュデルは、12世紀の男性。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ジョン・スチュアート John Stewart

生没
1???年~1482年
ジョン・スチュアート
エリザベス・オブ・レノックス

概要

 ジョン・スチュアートは、15世紀頃の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』

パスキエ・グルニエ Pasquier Grenier

生没
14??年~1493年7月21日
没地
フランス王国トゥルネー
ロタール・グルニエ
マルグリット・ド・ラノワ
ジル・グルニエ
ピエール・グルニエ
ジャン・グルニエ
アンベール・グルニエ
コリネ・グルニエ
アントワーヌ・グルニエ
?・グルニエ
マリエット・グルニエ

概要

 パスキエ・グルニエは、15世紀のブルゴーニュ領南ネーデルラントの男性、商人。1447年から1493年に活動していた綴れ織及び葡萄酒商人であり、トゥルネーに住んでいた。トゥルネー、ブルージュ、アントウェルペンなどの綴れ織工房と連携しながら事業を展開、西ヨーロッパにおいて最も著名な綴れ織商人の1人。

取引した綴れ織

 「アレクサンドロス大王の物語
 「キリストの受難」
 「農夫と樵」
 「エステルとアハシュエロスの物語」
 「白鳥の騎士の物語」
 「ネブカドネザルの物語」
 「オレンジの木」
 「樵」
 「トロイア戦争の物語
 「パストラナ」
 「七つの秘跡」

年表

1447年7月7日

トゥルネーの市民権を取得。

1448年頃

この頃には、アラスを拠点とする綴れ織商人トリュエ兄弟と関係を持ち、彼らのトゥルネーにおける代理人として名前が挙げられている。

1449年2月4日

フランス各地の仲介業者に商品を販売する、トゥルネーの綴れ織商人又は商人として記録される。

1449年

ピュイ=ド=ドームの商人ピエール・ペリシェや、リヨンの商人ジャン・ヴェルニエに販売を行った記録あり。

1459年1月

メルキオール・グルニエとギヨーム・グルニエがミラノに赴き、綴れ織連作「アレクサンドロス大王の物語」をミラノ公フランチェスコ1世・スフォルツァに販売か。

1459年8月

綴れ織連作「アレクサンドロス大王の物語」をフィリップ・ル・ボンに販売。

1467~1468年

綴れ織連作「アレクサンドロス大王の物語」をイングランド王エドワード4世に販売。

1472~1476年

ブルージュからブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールへの贈り物として、綴れ織連作「トロイア戦争の物語」11枚をブルージュに販売。

1476年7月13日

息子ジャン・グルニエが、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに販売した綴れ織連作「トロイア戦争の物語」11枚に対する支払いの3分の1を受け取る。

1479年7月20日

廷臣オリヴィエ・ル・ダムを介して、フランス王ルイ11世と政治的及び商業的な結びつきを確立。

1481年10月29日

トゥルネーに駐在するルイ11世の大使として記録される。

1483年12月30日

トゥルネーに葡萄酒商人として登録。

1486年9月22日

イングランド王エドワード4世により、綴れ織その他の織物製品をイングランドに輸出するための保護と許可を得る。

1487年以前

綴れ織連作「トロイア戦争の物語」をナポリ王フェッランテ・ダラゴーナに販売。

1488年3月13日以前

綴れ織連作「トロイア戦争の物語」11枚をイングランド王ヘンリー7世に販売。

1488年

エドワード4世により、トロイア戦争を題材とした祭壇布や綴れ織を関税なしでの輸出が認可される。

14??年

綴れ織連作「トロイア戦争の物語」をマティアス・コルヴィヌスに販売(1495年)。

1492~1493年頃

綴れ織連作「トロイア戦争の物語」11枚をフランス王シャルル8世に販売。王は自らの紋章を織り込ませる。

1503年以前

綴れ織連作「トロイア戦争の物語」をスコットランド王ジェームズ4世に販売。

1???年

綴れ織連作「トロイア戦争の物語」をモンデハール侯爵イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサ・イ・キニョーネスに販売。

埋葬地

 ベルギー王国ワロン地域エノー州トゥルネー=ムクロン行政区トゥルネー、サン=カンタン教会

外部リンク

 Wikipedia

フェレンツ・ナダスディ Ferenc Nádasdy

トマ・ナダスディ
オルソルヤ・カニッツァイ
エリザベート・バートリ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

エル・プレーテ El Prete

生没
14??年~15??年

概要

 ニッコロ・ダ・コッレッジョに庇護を受ける。イザベッラ・デステの文通相手。

年表

1501年12月29日

ローマにて、マントヴァ侯イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 ルクレツィア・ボルジアは公式の場の現れはしましたが、少しの間でした。出発の準備に忙しいからです。1501年12月26日サント・ステファノの日、日曜日の夜、私は知らせなく宮殿を訪れました。殿下はご自身の部屋の寝台の脇に腰かけていました。部屋の一角には20人ほどのローマ人女性がア・ラ・ロマネスカという格好をし、頭に布を被っていました。10人ほどの侍女たちもおりました。ヴァレンシア貴族とニッコラという侍女が率先して踊り出し、続いてルクレツィア・ボルジアフェッランテ・デステと、極めて優雅に活発に踊りました。金で縁どられた黒ビロードに黒い袖のカモッラを着て、袖口は狭く、袖は肩のところで切込みが入っていて、金糸でできたベールで胸から首が覆われておりました。真珠の首飾りをつけ、緑のネットとルビーで髪を覆っています。毛皮で縁取られた黒いビロードのオーバースカートは彩られ、とても美しいものでした。婚姻時の侍女たちの衣装はまだ準備されてはいません。2、3人の女性が美しかったです。1人は、カテリーナといい、ヴァレンシア出身で、踊りが堪能です。もう1人は、アンジェラ・ボルジアといい、魅力的です。本人に告げることなく、私は一番のお気に入りとして彼女を選びました。昨晩(1501年12月28日)、イッポーリト・デステ枢機卿、チェーザレ・ボルジア公爵とフェッランテ・デステが仮面を被って街へ繰り出した後、我々は舞踏が行われているルクレツィア・ボルジアの家に伺いました。ローマの至るところで、朝から晩まで、仮面を被った遊女ばかり目にします。24時以降は戸外に出ることを禁じられているからです。

1502年1月2日

ローマにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。1502年1月1日、ローマの地区の多くがパレードを編成し、お囃子を伴って、それぞれのゴンファロニエーレや長官が13台の山車を率いて、ナヴォーナ広場からヴァティカンへと向かった。初めの山車はヘラクレスの凱旋を表し、他にユリウス・カエサルなど幾人かのローマの英雄たちを示していた。教皇アレクサンデル6世とその客人たちが、窓からその壮観な様子をよく眺められるよう、ヴァティカンの前で止まった。若い2人を祝う詩が読まれ、4時間が過ぎていった。続いて、ヴァティカン宮殿ボルジアの間鸚鵡の間で喜劇が上演された。次に、モレスカ又はバレエが、インノケンティウス8世の注文によってかけられた美しいタペストリーで壁が飾られている教皇の間で踊られた。傍観者は長椅子や床に好きなように座っていた。短い牧歌の後に、ジョングルール(フランスにおける大道芸人のこと)が女装してタンバリンに合わせてモレスカを踊り、チェーザレ・ボルジアもそれに参加し、その変装にもかかわらず彼と気づかれていた。喇叭が次の劇を知らせ、1本の木が才人の上に現れ、彼は詩を朗誦すると、9本の絹のリボンの先を下に垂らし、木の周りで踊っていた9人の仮面をつけた者に取られた。このモレスカは大いに称賛された。最後に教皇アレクサンデル6世は娘ルクレツィア・ボルジアに舞踊を所望し、彼女はヴァレンシア人の侍女の1人と踊った。それに皆男も女も続いた。

外部リンク

 Internet Archive - Dukes & poets in Ferrara
 Cristo Raul - The History of the Popes, from the close of the Middle Ages.

参考文献

 『Lucretia Borgia

アドルフ1世・フォン・クレーフェ Adolf I von Kleve

生没
1373年8月2日~1448年9月23日
没地
ヴェセル、カルトゥジオ会修道院
アドルフ3世・フォン・クレーフェ
マルガレーテ・フォン・ユーリヒ
アグネス・フォン・デア・プファルツ
マリー・ド・ブルゴーニュ
マルガレーテ・フォン・クレーフェ
カタリーナ・フォン・クレーフェ
ヨハン1世・フォン・クレーフェ
エリーザベト・フォン・クレーフェ
アグネス・フォン・クレーフェ
ヘレナ・フォン・クレーフェ
アドルフ・フォン・クレーフェ
マリア・フォン・クレーフェ

概要

 アドルフ1世・フォン・クレーフェは、14世紀から15世紀の男性。

在位

 クレーフェ伯アドルフ2世 1394年~1417年
 ラーフェンシュタイン領主アドルフ1世 1397年~1448年
 マルク伯アドルフ4世 1398年~1417年
 クレーフェ公アドルフ1世 1417年~1448年

外部リンク

 ウィキペディア

アドルフ・フォン・クレーフェ Adolf von Kleve

生没
1425年6月28日~1492年9月18日
アドルフ1世・フォン・クレーフェ
マリー・ド・ブルゴーニュ
ベアトリス・デ・アヴィシュ
アンヌ・ド・ブルゴーニュ
フィリップ・エーベルハルト・フォン・クレーフェ
ルイーゼ・フォン・クレーフェ

概要

 アドルフ・フォン・クレーフェは、15世紀の男性。

在位

 ラーフェンシュタイン、ワイネンデール領主 1450年~1492年

外部リンク

 Wikipedia

マリア・フォン・クレーフェ Maria von Kleve

生没
1426年9月19日~1487年8月23日
出身
神聖ローマ帝国クレーフェ公国
没地
フランス王国ショニー
アドルフ1世・フォン・クレーフェ
マリー・ド・ブルゴーニュ
シャルル1世・ド・ヴァロワ
マリー・ド・ヴァロワ
ルイ12世
アンヌ・ド・ヴァロワ

概要

 マリア・フォン・クレーフェは、15世紀の女性。

埋葬地

 パリ、セレスタン修道院

別表記

 マリー・ド・クレーヴ

外部リンク

 ウィキペディア

フィリップ・エーベルハルト・フォン・クレーフェ Philipp von Kleve-Ravenstein

生没
1456年3月10日~1528年1月28日
出身
ル・ケノワ
没地
ワイネンデール
アドルフ・フォン・クレーフェ
ベアトリス・デ・アヴィシュ
フランソワーズ・ド・リュクサンブール
アドルフ・フォン・クレーフェ

概要

 フィリップ・エーベルハルト・フォン・クレーフェは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 ラーフェンシュタイン、ワイネンデール、アンギャン領主

年表

1492年

アルブレヒト・フォン・ザクセンによる長期包囲の末に降伏。

フィリップ・デア・シェーネンの顧問になる。

1494年

マクシミリアン1世から帝国の追放を免除される。

従弟ルイ12世の宮廷に移る。

1498年12月18日(火)

チェーザレ・ボルジアのシノン入りを先導。

1499年

ルイ12世に従ってイタリアへ行き、ジェノヴァ共和国総督に任命され、ジェノヴァに居住。

1502年

フランス王ルイ12世により、ナポリ王国とエルサレム王国の提督に任命され、艦隊を率いてオスマン帝国と戦うよう命を受ける。

レズボス島のミティリーニを包囲するが、同盟国のヴェネツィア共和国とスペイン王国から十分な支援を得られず、作戦を中止。

キティラ島で難破し、ヴェネツィア共和国のガレー船でタレントへ運ばれる。

150?年

ジェノヴァに向かう途中、教皇アレクサンデル6世から高い栄誉を受ける。

150?年

ジェノヴァ滞在後、ネーデルラントの領地に一時的に戻る。

1505年

ジェノヴァ共和国で反乱発生。フランス王国の支配下で実権を握っていた貴族に対し、民衆が反乱。

再びイタリアに向かう。

1506年

ジェノヴァ共和国で民衆の革命的反乱発生。官職の3分の2を民衆に与えよとの要求を受諾された後もなお反貴族政体の革命を志向し、民衆政府を樹立。

ジェノヴァ共和国総督の職を辞す。

別表記

 Philippe de Clèves

外部リンク

 Wikipédia

ベルトラン5世・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ Bertrand V de La Tour d'Auvergne

生没
1400年~1461年3月22日
ベルトラン4世・ド・ラ・トゥール
マリー1世・ドーヴェルニュ
ジャケット・デュ・ペシャン
ベルトラン6世・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
ガブリエル・ド・ラ・トゥール
ゴドフロワ1世・ド・ラ・トゥール
ティボー・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
ルイーズ・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
イザベル・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
ブランシュ・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ

概要

 ベルトラン5世・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュは、14世紀から15世紀のフランスの男性。

在位

 オーヴェルニュ伯、ブローニュ伯 1437年~1461年

年表

1416年

ジャケット・デュ・ペシャンと結婚。

外部リンク

 Wikipédia

ベルトラン6世・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ Bertrand VI de La Tour d'Auvergne

生没
1417年~1497年9月26日
ベルトラン5世・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
ジャケット・デュ・ペシャン
ルイーズ・ド・ラ・トレモイユ
ジャン4世・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
フランソワーズ・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
ジャンヌ・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
アンヌ・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
ルイーズ・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ

概要

 ベルトラン6世・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュは、15世紀のフランスの男性。

在位

 オーヴェルニュ伯 1461年3月22日~1497年9月26日
 ブローニュ伯 1461年3月22日~1477年
 ローラゲ伯 1477年~1497年9月26日

年表

1445年1月30日

ルイーズ・ド・ラ・トレモイユと結婚。

1477年

フランス王ルイ11世との間でブローニュ伯領をローラゲ伯領と交換することに同意。これにより、ブローニュ伯領は王領に組み込まれる。

外部リンク

 Wikipédia

イザベル・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ Isabelle de La Tour d'Auvergne

生没
14??年~1488年9月8日
ベルトラン5世・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
ジャケット・デュ・ペシャン
ギヨーム・ド・シャティヨン
アルノー・アマニュー・ダルブレ
フランソワーズ・ド・シャティヨン
ジャンヌ・ド・シャティヨン
シャルロット・ド・シャティヨン
ジャン・ダルブレ
ガブリエル・ダルブレ
フランソワーズ・ダルブレ

概要

 イザベル・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュは、15世紀のフランスの女性。

年表

1450年

ギヨーム・ド・シャティヨンと結婚。

1452年

フランソワーズ・ド・シャティヨンを出産。

1456年

ギヨーム・ド・シャティヨン、死(1455年)。

1457年11月25日

アルノー・アマニュー・ダルブレと結婚。

1463年

アルノー・アマニュー・ダルブレ、死。

外部リンク

 Genealogy.EU

ジャン4世・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ Jean IV de La Tour d'Auvergne

生没
1467年~1501年3月28日
ベルトラン6世・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
ルイーズ・ド・ラ・トレモイユ
ジャンヌ・ド・ブルボン=ヴァンドーム
アンヌ・ドーヴェルニュ
マドレーヌ・ド・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
?・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ

概要

 ジャン4世・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュは、15世紀から16世紀のフランスの男性。

在位

 オーヴェルニュ伯、ローラゲ伯 1497年9月26日~1501年3月28日

年表

1495年1月2日

ジャンヌ・ド・ブルボン=ヴァンドームと結婚。

外部リンク

 ウィキペディア

マドレーヌ・ド・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ Madeleine de La Tour d'Auvergne

生没
1498年~1519年4月28日
没地
フィレンツェ共和国フィレンツェ
ジャン4世・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
ジャンヌ・ド・ブルボン=ヴァンドーム
ロレンツォ・デ・メディチ
カトリーヌ・ド・メディシス

概要

 マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュは、15世紀から16世紀の女性。

年表

1498年

生(1501年)。

1518年1月28日

ロレンツォ・デ・メディチと婚約。

1518年4月28日

アンボワーズ城ロレンツォ・デ・メディチとマドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュとの結婚式が盛大に行われ、華やかに祝賀される(1518年5月5日)。

この結婚によりフランソワ1世メディチ家の中に自らの手先同然の者を得たと広く見なされる。

1518年9月7日

ロレンツォ・デ・メディチと共にフィレンツェ到着。市内で数日、結婚祝賀行事繰り広げられる。

1519年4月13日

カトリーヌ・ド・メディシスを出産。

1519年4月28日

死。

別表記

 マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュ、マドレーヌ・ド・ラトゥール、マッダレーナ

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

更新日

 2025年3月31日